何らかの不意打ちを受けて自分は死んでしまった、と思うよりずっと建設的な結論に至り、ニトロはうなずいた。
 相変わらず喉はひどく渇いているが、渇いているのに水への欲求がないことも自分の仮説を証明しているような気がする。
「それなら――」
 ニトロは自分の考えを要所で口に出し続けていた。仮想世界において非現実を現実として認識しない手段の一つとして、普段と違う行動を取り続けるというものがあるのだ。黙考すべきところも口に出し続け、
あれが何のためにこんなことをしたのか、の理由かな」
 ニトロはこの世界の唯一の建造物を見定めた。
 と、
「うわあ!」
 ニトロはまた誰かに足を掴まれたような気がして飛び跳ねた。
 反射的に足元を見るが、やっぱり何もない。
 ふと誰かに呼ばれた気がして振り向くと、そちらには、青が色褪せ鉛色に見える海が不規則に蠢いているだけ。
「……嫌な感じだなぁ」
 つぶやき、そこでニトロは思った。
「――嫌な、感じか」
 直近で『嫌』という感覚から連想されるものは、ミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナ。
 先ほど強制的に知らしめられた記憶を考慮すれば……そうだ、パトネト王子は王城で会った時、何かを切実に真剣に訴えかけてくる目をしていた。あれは、きっとそうだ、あれも懇願の瞳であったのだ。
 思い出されるのはケルゲ公園駅前で“殺した”アンドロイドの複雑な感情の表れ。
 ――怒りに満ちているのに、ひどく哀れをもよおす声
 ――敵意に満ちているのに、救いを求めているかのようにも聞こえる声
「救いを求めている……か」
 まさか彼が姉を――殺して――楽にしてやってくれとは言うまい。間違いなく、救ってやってくれと、ルッド・ヒューランと同じ思いを抱えているのだろう。
 ならば、
「ひょっとして、ここはミリュウ姫の精神パターンを元に作った心象世界ってやつなのかな?」
 あるいは――と思って、ニトロは顔を歪める。
「……まさか、ミリュウ姫の心そのものの中、なんてとんでもないこと言い出さないよな……大バカの弟様は」
 突然首を撫でられた気がした。
 ニトロは声を上げて首を縮め、その首の内側で渇きのあまりに食道がくっついた気がして咳き込んだ。咳き込みすぎて吐き気までしてくる。ああ、本当に吐きそうだ
「……」
 ようやく落ち着いたところでニトロは息を大きく吸い、その拍子に見上げた空に――ヒビ割れた荒野の天井の、そのヒビの奥からこちらを覗き込んできている無数の瞳を見た。恐ろしい光景だった。
「…………それじゃあ、この雷みたいな音は、たくさんの人の声が合わさった音か」
 ニトロの脳裏に無数の目と大きな口を持った『巨人』が蘇る。ヴィタはあれを『悪夢を元に造型したかのような巨人』と評していたが、なるほど正解、実際にそうだったらしい。
「やっぱり、間違いなさそうだな」
 また足を誰かに掴まれた気がしたが、ニトロは今度は驚かず、むしろ鼻息を荒く吐いて足を動かした。無念そうな音がふいに吹いた風に乗って背後からやってくる。それも無視してニトロは歩を進めた。
「本当に嫌な世界だ」
 言いながら、歩き出した途端に湿地帯を歩いているかのような重みを足の裏に与え出した地の上を、それも努めて無視してどんどん宮殿に向けて歩いていく。
 宮殿に近づくにつれ、ニトロは身にかかる圧力が上がっていることに気がついた。体が上から押さえつけられている。気を抜けば組み伏せられそうな勢いだ。しかも厄介なことに、圧力は気まぐれに向きを変える。今は上から真っ直ぐ押し付けてきていたかと思うと、斜めに、横から、前から、縦横無尽に弄ぶように圧力の方向を変えてくる。油断すれば倒れ、転び、もみくちゃにされて血反吐を吐きかねない――そういった暴圧の嵐であった。
 が、一方で、ニトロはそれに反発する力が胸にあることに気づいていた。縦横無尽に向きを変える圧力に対し、的確に対応して体を支える力。これは、自分の体の中だけから生み出されているとはニトロにはどうしても思えなかった。そう、これは、まるで常に誰かに守られているような……
「芍薬?」
 ニトロは気づいた。守られているよう――ではない。守られているのだ。
 この世界がミリュウの世界で、ここに送り込んだのがマインドスライドシステムだとして、ならばそこにいる『ニトロ・ポルカト』のデータを安定させているオペレーターは何か。
「芍薬しかいないよね」
 ニトロは笑み、理解した。
 自分はミリュウ姫に勝っていた。あの状況になれば、例えミリュウ姫の首輪がどうあっても爆発するようになっていたのだとしても、ハラキリに手配してもらっておいた『爆弾処理の環境』に無理矢理放り込むことは叶っていただろう。
 しかしあの時、勝利すると同時に試練を課してくる相手が代わったのだ。
 パトネト・フォン・アデムメデス・ロディアーナ。
 あの子はゲームが、特にアドベンチャーゲームが好きだと聞くから、ここも同じような発想だろう。クリア条件:お姉ちゃんの救出――と言ったところか?
「どう救出すればいいのかは解らないけど、まあ、そこから考えさせるゲームってことかな。どうせさっきの前情報がヒントってところだろう。って、難し過ぎるわ! こんなゲームが売り出されたらユーザーはメーカーに苦情を入れるよ、うん、このゲームに苦情入れられるんなら俺は迷惑極まるクレーマーになりたい」
 気を抜くと本当にここを現実だと思い込みそうになる『実感』の中、ひたすら渇く喉を動かし喋り続けながらニトロは歩く。
 宮殿へ。
 さながら今、自分の背後ではオープニングテーマでも流れているかもしれない。
 そして自分の周囲には、目には見えない『ガイドフェアリー』が飛んでいるのだ。ゲームならヘルプをかければ攻略のヒントくれる存在。が、このゲームは随分辛いから、妖精はこの身を守ることしかできない。
「いやいや、それで十分だよ」
 まるで芍薬に言うように言いながら――状況からして芍薬は自分マスターを人質に取られている。何にしても協力せざるを得なかったはずだ――ニトロは息を荒げて歩いていた。
 宮殿への道のりはそんなに長くないのに、異様に疲労する。圧力に翻弄されるだけならばまだいい。その上、時折誰かが足を掴んでくる。その手を振り払うのに無駄に力を使わされる。靴底に粘りつくような砂土のしつこさも増していき、そうして体力が削られるに比例して体も心も重くなる。ミリュウとの決闘でも息は乱れていなかったのに、百歩にも満たない内にこの有様だ。
 凶悪な試練。
「凶悪な試練、か」
 現在、自分は芍薬と共にそれに挑んでいる。
「……なんだ」
 そう考えると、なんだ、何も変わってはいないではないか
 ニトロは頬に空笑みを刻む。
 本当に何も変わっていない。
 状況は確かに変わった。が、結局は、ロディアーナ朝王家の一員に、姉・妹・弟と立て続けにえらい迷惑をかけられて、自分こと『ニトロ・ポルカト』はそれをいつものように芍薬の力を借りて撃退しようとしていることに変わりはない。
「ええい、くそ」
 思わずニトロは毒づく。
「次から次へとろくでもない。こんな王家、いっそ一度滅んでしまえ」
 毒づくと何だか体が軽くなった。つっかえ棒のようなものが体内にはまった気がする。
 足の裏に粘りつく沼が消える。足を掴んでこようという手は千切れる。体を押し込んでくる圧迫感も吹き飛んで、それらは全て路傍の石となる。
 そこで、ニトロは気づいた。
「ちょっと蝕まれかけてたか」
 この世界に。
 ミリュウの心象風景に。
 ひょっとしたら、ありえたかもしれない自分の未来に。
 凶悪な試練――思い直せば、その理解の裏には、周囲の環境と周囲の環境が生む苦しみを『自分の実体験として取り込んでいる感覚』も混じっていたように思う。
 ――違う。
 それらの苦しみはあくまでこの世界を生んだ者の心象に過ぎない。実際に今それを体験しているからといって、それはあくまで他人の体験の仮想的な追体験に過ぎない。自分にとっての『凶悪な試練』はこの仮想と追体験に彩られた世界に放り込まれた現状のみであり、ここで体験する苦しみはあくまで自分のものではないのだ。それを自分の物と勘違いすれば、自分の中にこの世界が侵食してしまう。
『共感はさせても同調はさせてはならない』――マインドスライドシステムの大原則。
 商用のものは心のどこかに常に違和感を抱かせるなど同調の排除が神経質なまでに徹底されているが、どうやらこの世界は違う。
「大丈夫か? ここを支えているソフトは」
 つぶやいたニトロは、つぶやいたことでその点に自分を気づかせたものが何か、また、同調しそうになっていた苦しみを傍らへ吹き飛ばしたものが何であったのかにも気づき、苦笑した。
「俺はやっぱり『ニトロ・ザ・ツッコミ』か」
 大迷惑の原因の、あのバカ姫の目を引いてしまった力が、結局自分をこれまで助けてきていたのだろう。そして、今も、これからも。
「習い性って言うか何て言うか、まあ、これが俺の性分なのかな」
 調子を取り戻したニトロは呼吸の乱れもなくなり、速度を上げて宮殿に向かった。
 小さな宮殿は近づくにつれ、やはり小さいと感じる。
 まるで――
「この島は、ティディアの掌か?」
 そう、宮殿は、この島にうずくまっているような風体をしている。
 そして――
「……されども、これはあくまで『ゲーム』にあらじ――か」
 宮殿に辿りついたニトロは、宮殿の門の横にだらしなく座る人形があるのを見た。
「やあやあ、これは珍しい」
 門柱に力なく背を預けて座る人形が……ミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナの姿をした糸操り人形が、やけに演劇がかった口調でニトロへ言う。
「こんなところにお客さま。はじめてのお客さま。いらっしゃい、お客さま」
 糸操り人形の、肝心の糸は切れていた。本来なら滑稽な動きとともに語りかけるのだろうがそれは叶わない。長い間外に放置されていたらしく、木目の浮いた肌も朽ちかけている。ミリュウの姿の人形は口だけ動かして、
「ところでお客さま、よろしければ回れ右しておかえりなさい。こんなところに面白いものはありません。一生懸命れんしゅうしました歌や踊りをお見せできればよいのですが、今となってはわたしはそれができそうにないのです。お客さま、よろしければ、おかえりになるまえにひとつお聞かせねがえませんか」
「何をだい?」
 ニトロが問うと、ミリュウ人形はぱくぱくと口を開閉させてから、
「わたしの糸はどうなっていますか? ある日、ぱたりと体がうごかなくなったのです。糸はどうなっていますか? わたしを動かしていた御方はどこにいかれたのでしょう」
「糸は……切れているよ。操っている人はいない」
 ミリュウ人形は驚いたようにぱくぱくと口を動かした。
「お客さま! それではわたしはやはりあなたに何もお見せできません。おかえりになるほうがくを指差すこともできません。お役にたてぬわたしはただの木偶。糸は切れていますか、糸は切れていますか、糸は切れていますか」
 ぱくぱくと口を動かし、ミリュウ人形はため息のような音を出した。
「わたしの、糸……」
 それきり人形は何も言わなくなった。
 ニトロは宮殿の門を押し開け、中へと入っていった。

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