「……」
 奇妙な空間だった。
 例えるなら海抜0mの平たい島に彼はいた。
 彼がいるのは波打ち際であるらしい。海と地面の高低差は無いのに海水は島を飲み込まない。波は押し寄せているようでもあり、引いているようでもある。沖の波は……いや、あれは波というよりも海水が上下に不規則に蠢いていると言った方が適切だろうか。蠢く海は水平線まで続いていて、水平線で海と分かたれる空は――空は、無い。空は大地でできていた。天にかかるのは雨の降らぬ荒野であるらしく、地面の所々にはヒビが入っている。今にも落ちてきそうな土の天井は、しかし静かにこの空間に蓋をしている。
 足元は土の感触のする砂であり、ぐるりと周囲を見回すと広いようで狭い島の中心にちんまりとした宮殿があった。
「……」
 ニトロの頭は違和感で溢れ、気持ち悪かった。
 ここには島と、不気味に蠢く海と、大地でできた空と、小さな宮殿以外には何もない。
 何より一番おかしいのは太陽がないことだ。
 太陽がないのに、それなのにこの空間は明るい。では照明がどこかに? いいや、照明もない。全体的に光っているというわけでもないのに、全体的にのっぺりと明るい。明るさは夏の明るさに思えるが、それなのにやけに寒気を感じる。
 そうして彼の目の前には、薄いセピア色のフィルターをかけたように色褪せた光景が広がっていた。

 周囲を見回していたニトロは最後に己の体に目をやり、ここにいるのは自分独りであることを知り、
「……芍薬?」
 彼はいつも傍にいる家族を呼んだ。
 が、返事はない。
 あるのは、強烈な寂寞だけ。
 ここにいるだけで心の中ががらんどうになり、静寂に侵され、精神の活動を止めたくなりそうになる。そんな寂寞だけ。
「…………芍薬?」
 もう一度呼びかける。
 が、やはり返事はない。
「………………もしかして、俺は、死んだのかな」
 ここが『かの世』というやつなのだろうか――そう思ってみるが、しかしどうもそういう風でもない。何故かは説明がつかないが、それだけは違うと、誰かが凄まじい勢いで保証してくれている気がする。
 ニトロは、ふと、この空間に常に一つの音があることに気がついた。
 重い、深い音。
 地鳴りのような音。
 海鳴りか? と海へ振り返るが……違う。
 ニトロは気がついた。音は空からしている。天の地の底から雷鳴が轟いているのだ。
「何だ? ここは」
 ニトロは立ち上がった。立ち上がった時、彼は強烈な『実体感』を味わった。
「?」
 感覚が、異様に研ぎ澄まされていた。
 手の指の重み、髪の一本一本の存在、動作の際の筋肉と関節がどう連動しているのかを実感することができる。
 体のあらゆる輪郭線が知覚できる。
 普段はあるのかないのかぼんやりしている足の薬指の形も明確に思い描くことができ、また、足の薬指の爪が脳天からどれくらい離れた場所にあるのかも感じ取ることができる。
 描こうと思えば、目を瞑ったまま自分の三次元モデルを完璧に描けるだろう。
「……」
 ニトロは全身を改めてみた。『実体感』とそれによる知覚の通りに手足はあるし、頭もある。体もあるし、体はやはり黒い長袖と戦闘服ズボンに包まれている。
 が、
「持ち物は、ないな」
 ニトロはつぶやいた。どこかに落としたのかと周囲を見ても、やはり剣はない。後ろ腰にあったはずのナイフもない。もしやと思って靴の機能を調べてみると、やはり仕込みナイフなど武器と呼べるものは存在していなかった。
「あ」
 と、そこでニトロは思わず声を上げた。
 靴の機能を調べるために伸ばした両手の――その片方の甲に重大な変化があった。
 あの青い『烙印』が、跡形もなく消えている。
「……やっぱり、死んだのかな……」
 不安に駆られてつぶやくと、それはない、と、異様な確信が胸に湧き上る。何となく師匠しんゆうに『死んだと思う暇があったら先に状況を整理する』と怒られた気もする。それから彼はアドバイスをくれるのだ。本当に、こんな時には彼はへらりと笑ってこう言うだろう――『まずはストレス発散でもしてみては?』
 ニトロは釈然としない気持ちを抱え、何がなんだかわからない状況に、
「あー! あーーー!!」
 思いっきり声を張り上げてみた。どうも大声を出した実感はない。が大声を出す際の体の動きは確かに感じられて、大声を出したことによる喉の痛みもある。鼓膜が震えたことまで感じられた。一方、音はスポンジに向けて発したようにすぐにどこかに吸い込まれた。
「……ふむ」
 それでも、ちょっと気は晴れた。
 気が晴れたところで、思い至る。
「そうだ。もし死んでいるんなら、芍薬がいないのは変だな」
 芍薬は約束を守る。例え『かの世』というものが存在せず、存在したとしても人間とA.I.の行く末が違うのだ――としても、芍薬は必ず来てくれるだろう。
(それに)
 何より、あの状況から自分が突然死ぬという前提がまずおかしい。
 いくら虚を突かれてもあの戦乙女が主をやすやすと殺させるわけがない。むしろ、身代わりになってくれた芍薬に自分が涙を流している――そういう状況の方が可能性が高く、そして自然だ。
 と、なれば。
『死んでいない』という理性的な確信がニトロの胸から『死んだのかも』という不安を消し去っていく。
「てことは……なんだろうな」
 ニトロは周囲を今一度見回し、今一度、脳裏で一つ一つ状況を整理し直した。
「……」
 ぽんぽんとジャンプしてみる。ジャンプしている――と脳も体も体中に走る神経の一本一本に至るまでも知覚している、と知覚する。自分の体重をどのようにして筋肉や軟骨が受け止めているのかをリアルタイムでCTスキャン画像を見ているかのように(明らかに異常なレベルで)知覚できるのに、知覚の強度に比べてジャンプしたという満足感は驚くほど希薄だ。
「……どうも」
 実体感だけがありすぎる。自分が存在している、また自分がどのように存在しているという感覚だけが異様なほどに鮮烈であった。
 ――と、その時、
「!?」
 ニトロは慌ててその場から飛びのいた。ふいに足を誰かに掴まれた気がしたのだ。
「……」
 しかし、直前まで自分がいた場所には土の感触のする黄土色の砂があるだけだ。なのに、足首には掴んできた手の指の形までがはっきりとした感触として残っている。
「そういえば、見た目は砂なのに」
 ニトロは地に触れてみた。黄土色の砂には水分と何やら粘り気があって砂の粒子同士は簡単にはばらけず、ということはほとんど土だ。それなのに息を吹きかけると砂らしく巻き上がる。と、
「うわ!」
 ニトロは触れていた地から手を離した。
 確かに掌に爪を立てられたような気がしたが……手をどけた後には何もない。
「……何だ?」
 つぶやきながら、ニトロには思うことがあった。
 さっきから、常に誰かに見られている気がする。
 そして何より、この世界は、やけに、喉が乾く。
「――…………ああ、そうか」
 やがてニトロは思い当たった。
 この強烈な実体感――この感覚は、けして彼の経験にないものではなかった。
 意心没入式マインドスライドシステム。
 そう、ちょうど仮想世界バーチャルトレーニングでの身体感覚がこれにそっくりだった。
 意心没入式マインドスライドシステムは、まず、肉体の世界から仮想の世界に赴く時、その異世界で自分の存在を実感するために、初めに己の実体を強調して知覚させる。それから次第に知覚のレベルを引き下げていき、異世界に慣らしていく。深度レベルが浅ければ浅いほど異世界にあって自分は異物だと認識できるが、逆に深度レベルが高ければ高いほど感覚は異世界に馴染み、現実こそが非現実であり、自分はこの異世界げんじつの住人なのだと確信できるまでになる。トレーニングは主に浅いレベルで行う。そうすると『こう体が動く時=どう体は動いている』ということが先ほどのような強烈な知覚を伴う実体験込みで理解できるのだ。この理解は『体の記憶』を補強もする。その上、毎動作ごとに常に正しい形で心身に叩き込めるのだから……つまり、過去の人間が何百回もの反復練習をすることで心身に沁み込ませたことを、現在は数回の練習で同様の効果を得ることができるのである――そう、この感覚に、自分は明らかに慣れ親しんでいる。
 そして彼はまた、自身の『実体感』が急速にどんどん薄れていることを悟っていた。もう足の薬指の正確な形を描き出せはしない。髪は一本一本ではなく全体的に頭皮にある。そのうち筋肉や関節の動作を意識せずとも全く普段通りに動かせるだろう。
 と、いうことは、
「もし意心没入式マインドスライドだとしたら相当な深度レベルだぞ……」
 例えばここで死んだなら、本当に実世界でも肉体が“死を認識”してしまうようなくらいに。下手をしたら、個を失い世界に埋没してしまうほどに。
「――それにしても」
 現状が本当にマインドスライドによるものだとして。
 ニトロはその前提で、改めて最初……いや、“最初の直前から”の状況の推移を把握しようと努めてみた。
 まず、自分はミリュウ姫を押さえ込んだ。関節も極まり、相手の重心をこちらの体重で制圧し、完全に動きを殺していた。それから自分はアンドロイドに剣を向け勝利を宣言した、と、そこで視界がブラックアウトし、その後、突然頭の中に夢を見るような形で大量の『情報』が流れ込んできた。その『情報』は、ミリュウ姫の記憶に基づいているようであった。いや、“であった”ではなく、おそらくそれそのものであるのだろう。しかし、あれほどの内心の吐露を記憶ごと他人に見せることをミリュウ本人が望むだろうか。……望むまい。正直、もしそれを望んでいたとしたら彼女を露出狂的精神性超絶ドMだと認定せざるを得ない。では? それらの要素から鑑みて導き出されるのは――これまでの要素からこのようなことを可能にし得る人間は――
「パトネト王子だな、間違いなく」

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