瞳を閉じ、次に瞼を開いた時、ニトロは見た。
 姉の影で微笑む少女の心を。
 姉の前で泣きじゃくる少女の心を。
 ニトロはマードールによって重大なことを自覚させられた時、思った。――『嘆きのあるがために嘆く必要なんか、決してない』――いつか嘆きと出会うのだとしても、嘆きと出会う前から嘆く必要なんか決してないと。
 しかし、ミリュウには常に嘆きが訪れ続けていたことをニトロは知った。
 そして彼は最後に見た。
 彼女は姉に何度も助けを求めていた。
 言葉にはせず、それでも妹の心を支配し、その心をいつでも見抜く姉に大声で助けを求めていた。何度も、何度も、何度も!
 彼女が最後に姉に助けを求めたのは、クロノウォレスにティディアが発つ前夜であった。
 姉に頼んで弾いてもらったピアノの調べを聴いた後、その時、彼女は最後の助けを求めて姉を見つめていた。
 姉は――ティディアは――ミリュウの女神様は彼女を見つめ返していた。その黒曜石の瞳には妹の恐怖に歪んだ顔が映っていて……知っていた、女神は、妹の苦しみを知っていた。……知りながら、知っていながら、それでも妹を助けることはなかった。
 神は信徒を助けない
 それを信徒も悟っていた
 悟って、理解していた
 失望と共に。
 ミリュウの胸は空っぽで。
 空っぽな胸のすぐ上の肩にはとてもとても大きな重りが乗っていて。
 それでも彼女は潰れなかった。
 ミリュウの腹の底で蠢く気持ちの悪さと彼女の心を埋める失意と絶望が、ようやく少女を支えていた。
 だが、と、ニトロは思う。
 もし、そこで自ら己を支えられず、いっそ膝を突くことができたのなら……
 もし、疲れて倒れることができたのなら。
 彼女はどんなに楽だったのだろう。自身の苦悩を表に出して、みっともなくても身近な人にそれを知ってもらって、そうやって立ち直るための手を差し伸べてもらえたら――彼女にはそれを望める人間が傍にいたのだ――もしそうできていたら、どんなに彼女は楽だっただろう。
 しかし、それは叶わない。
 それを彼女自身が許さない。
 それを許せない彼女を作った女神が許さない。
 それを女神が許さないことを知っているミリュウが絶対に許さない。
 そう、常に、女神のあざなえる縄のごとき『呪い』が彼女を魂の髄から縛り付けている。
 女神が『女』となり“神”が消えても、その『呪い』はいつまでも彼女を自己防衛の手段としての逃避という選択肢にすら向かうことを禁じ続けている。
 そうあらねば、理想である『私』に相応しくないと。
 彼女こそ常に脅迫されていたのだ。女神に、また自分自身にまでも。
 そうして、ついにミリュウは砕けてしまった。
 砕けながら、なんという執念なのだろう、それでもミリュウは『ミリュウ』であり続けた。
 だが、長くはもたない。
 逃げることを禁じられたミリュウの瞳が向かう先は、一つしかなかった。
 すなわち『悪魔』しか彼女が救いを求められるものはなかったのである。
 道化を演じ、姉の真似事をして、そうやって悪魔を頼ったから、ミリュウは一時、力を得ることができた。プカマペという虚構を讃える教団を設けながら、彼女は悪魔からこそ力を得ていたのだ。
 それが西大陸で見せた堂々とした王女の姿を作った。
 仮にとはいえ『悪魔』とその手先に殺されることで、彼女は一時の解放を得ることができていたのだ。
 だが、それも長くはもたなかった。
 仮はあくまで『仮』でしかないのだ。
 彼女は悪魔と対面した時、それを知った。それを知り、彼女は己に希望はやはりなかったと確信した。悪魔は確かに一時彼女を救ったのだろう。しかし悪魔は救いの後には決まって絶望を与えるものだ。姉の愛を受けながら、羨んでも羨み切れない愛情を注がれながら、それを簡単に愚弄する男は彼女の目にはまさに『悪魔』そのものにしか映らない。辛苦の末にようやく宝物を手に入れた者に、実はそれは馬の糞なのだと哂うような本物の悪魔!
 そして悪魔も去っていき、彼女に残ったのは、そう、悪魔が落としていった希望ぜつぼうが一つだけ。
 縋れるものは、唯それ一つ。
 ニトロは全てを知り――――
「そうか……」
 彼は笑うしかなかった。
 何故? 何故?――と、色々考えても掴み切れなった彼女の動機。本当の目的が解ってからも、自分は、自分達は彼女の本当の心を完全には理解してはいなかった。
 ああ、人一人の嘆きの知ることの、何と難しく、何と不可能に等しいことか。
 ようやく解った。
 道理で何を考えても間違っているようで、それなのに間違っていない気がしていたものだ。
 ニトロはうめいた。
全部か
 そう、自分達は誰一人としてハズレを引いてはいなかった。自分達がずっと考え続けてきた『ミリュウ』の姿は全て正しかった。ヴィタの、ハラキリの、マードールの、ルッド・ヒューランの、皆が口にしたことは全て正しかったのだ。そして正しかったのに、間違っていたのだ。
 理由は一つではない
 正しい答えを一つずつ求めた時点で正答から遠く離れていた。あるいは一つ本質的な正しい答えがあると考えた時点で正答から目をそむけていた。
 全てだ。
 全て……――全て?
 そんなぐちゃぐちゃな動機を抱えて、心がまともでいられるものか。
 複雑怪奇な彼女の心。
 メビウスの輪を呈する表裏の混在。
 失望、軽蔑、落胆、絶望、敵意、希望、諦観、熱意、期待、嘲弄、悲愴、恐怖、疲労、憤怒、焦燥、嫌悪、憎悪、殺意、愛、恐怖! 懇願!! 切望!!! そんなぐちゃぐちゃな心を一度に抱えて、腹の底では自己嫌悪の赤子に脅かされて、そんな自分を冷静に理解できてしまうから逆に辛くて、それでも休む間もなく愛する神聖を失った姉の下でずっと王女としての重責を受け続けて……それでどうして精神のバランスが取れるものか。
 ニトロの眼前には、姉の掌の上でうずくまる少女がいる。
 と、ふいに姉がその掌を引いた。
 姉の掌でのみうずくまれていた少女は地面を失くして落ちていく。どこかに掴まれるところはない。ただ上空に何かが見える。底の無いどこかに落ちていく少女は、うずくまったままこちらを見上げている。
 こちらを見上げる少女の瞳の中にはパズルがあった。
 パズルは少女と姉の絵柄で作られていて、彼女のパズルであるはずなのに比率もおかしく姉の絵柄のピースが圧倒的に多い。
 と、ふいに姉の絵柄が何処かに去っていった。
 取り残された少女の絵柄は繋がるべきピースを失い、瞬く間にばらばらになる。
 うずくまる少女の中で、ばらばらになったパズルがうずもれるように積まれている。
 奈落へ落ちながらこちらを見上げる少女が突然叫んだ。
嫌だ!

 ニトロは飛び起きた。
 彼は見も知らぬ場所にいた。
 霊廟の『石像柱の間』にいたはずなのに、今、目の前には退色した空間が広がっている。

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