地下宮殿――霊廟の本体とでも言おうか? その場に足を踏み入れた時、ニトロは肌が粟立つのを感じた。
およそ霊的なものでも感じたのか、あるいはここが神聖であると知っているからこその体の反応だろうか。それは解らないが、ただ……自然と沸き立った畏怖の念が今も心を撫でている。
もしかしたら、このように思わせる場所、それこそが『聖域』というものなのかもしれない。
存在証明の叶わぬ神の力にせよ、心理的な作用にせよ、どちらにしたってここを自分がそう感じているのは――本来侵さざるべき神聖な場所であると感じているのは確かなのだ。
(本当に、とんでもない場所にご招待してくれたもんだ)
ここまで案内してきたフレアが脇に退き、ここまで付き添ってくれたホタルが光を消して、芍薬の元へ戻っていく。芍薬が一歩横にずれ、二体のアンドロイドの間をすり抜けながらニトロは歩く。フレアはそのままその場に留まり、芍薬はマスターに付き従った。
カンテラを掲げる石像が掘り込まれた柱以外に何もない広い地下空間には、歌が流れていた。
反響のせいでどこから流れているのか解りにくいが、ニトロは視線の先にそれを口ずさんでいるらしい人影を見つけ、
「……春草、だっけ」
「御意」
ミリュウ姫の好きな曲だ――ニトロは、どんどん歩を進めた。
適度な間隔で光源があるお陰で、この空間は全体的に明るい。かといって眩しくもなく、落ち着いた仄かな灯りは闇に目の慣れた自分にとって最高のコンディションだ。
春草が風にそよいでいるような柔らかく軽やかな旋律に、ニトロと芍薬の立てる足音が混ざる。旋律と足音の刻むリズムは合っておらず、それは次第に不協和音を奏で始め――やがて、歌が止まった。
ニトロの行く先には、それより先へ進むことは禁忌であることを知らせる鈍重な門がある。
そしてその門前に……
子どもを抱くように剣を抱える信徒が、じっと佇んでいた。
ニトロは今一度気を引き締めた。今更ここで彼女と対話をしようとは思わない。話し合ったところで彼女が止まるはずもないし、そもそもそうやって止めるのは悪手だと理解している。
――決着を付ける。
同い年の少女が相手であろうとも、手加減はない。
「芍薬」
「御意」
芍薬が止まる。
「ペテン師本人ニ間違イナイヨ」
そう伝えてきた芍薬を置いてさらにニトロだけ進み、彼女と二十歩ほどの距離を開けたところで立ち止まり、いつでも剣を抜けるよう鞘を握りながら言った。
「やあ、待たせたかな」
「一日千秋の思いだった」
「悪魔よ。わたしは今、とても喜んでいるよ」
ミリュウが一歩近づく。ニトロも応じる。
「ようやくこの時が来た。女神様の栄光のため、お前をとうとう屠れる時が」
もう一歩ずつ歩み寄ったところでミリュウは立ち止まり、フレアの言葉通りニトロの持つ物と全く同じ長剣を片手に握り、空いた手でローブを止める紐を解いた。
フードが外される。
ちょうど真横にあるカンテラの光の下に、青い紋様を刻む不気味な笑顔が浮かび上がった。
ミリュウはローブを脱ぎ捨てた。その下から現れたのは、まるで胸の谷間まで延びる『聖痕』を見せつけるかのように襟の開いた粗末な黒い服であった。明らかに耐刃性はないだろう。上下共に黒く、その黒さが彼女の肌の白さと聖痕の淡く光る青を際立たせる。
「……」
ニトロは鞘を噛んで剣を口で持ち、戦闘服の上下連結を解くと素早く上着を脱いだ。耐刃性に優れた服をこちらだけ着ていては正々堂々とはいかない。彼女を叩き潰すのであれば装備面は可能な限り同条件の方がいい。彼は脱いだ上着を放ろうとして、芍薬が歩み寄ってきていたことに気づいてそれを手渡した。次いで手袋も外し、芍薬に預ける。上着と手袋を手にした芍薬は小さな目礼でマスターの意志に賛同を送り、そのまま踵を返して元の位置に戻っていく。
「悪魔らしく、身を縮めて“鎧”に守られていれば良いものを」
ニトロの行動を見てミリュウが愚弄する。が、自分と同じ黒の上下――上は長袖のシャツに下は戦闘服という姿となった彼を見る彼女の目には、口とは違い嘲りの色はない。
その演技がかった様子を見ながら、ニトロは手に持ち直した剣を示して応じた。
「これがあれば十分だ。――だろう?」
ミリュウが笑う。
ニトロの戦意にますます笑みを深める。
彼女は高らかに言った。
「ならば悪魔よ! ニトロ・ポルカトよ!」
彼女は剣を抜く。カンテラの光の中で白刃が閃く。彼女は鞘を捨て、刃の切れ味を確かめるかのようにそれを自らの首筋に当てた。刃は首に枷のように巻きつく青いチョーカーに触れている――聖痕と、また肌と一体化したそれを斬ってみろと挑発している。悪魔に、その、頚動脈の上にある彼女の命を縛る首輪を斬ってくれと。
そしてミリュウは剣の切っ先をニトロへ向けた。
「さあ、決着の時だ」
ニトロは何も言わずに剣を抜いた。ずしりとした重みが手に加わる。まるで、ここまで持ってきた剣が急に重くなったかのようであった。
(――よし)
ニトロは自分がそう感じることを歓迎し、内心でうなずいた。
この剣は、人の命を、今から切り結ぼうという少女の命を奪える物だ。そして自分の肩には知らぬ間に覆い被さってきた様々な思いがある。この剣を、これくらい重く感じられなければ自分の精神は緊張の余り正常を欠いていることになるだろう。そう、この剣を重く感じるのは、自分が正常であるためなのだ。
ニトロは剣を構えた。
剣は、相変わらず重い。
だが、腕にかかる質量は心にかかる『思さ』よりもずっと軽い。
ミリュウが一歩踏み出した。
ニトロも油断なく一歩踏み出す。
ミリュウが無造作に二歩目を進めながら、剣の腹を口に寄せる。
「プカマペ様が奇跡を」
つぶやき、彼女は言った。
「感謝いたします」
と、彼女の背後から、突如三人の『ミリュウ』が現れた。
「っと」
迫り来るミリュウに応じて進もうとしていたニトロは足を止めた。光学迷彩で姿を隠していた『ミリュウ』達はそれぞれ剣を携え、開襟の黒の上下を着、髪も短く切り揃え聖痕を肌に刻み――つまり『破滅神徒』と全く同じ姿をしていた。
しかし、それは想定内である。
どこかで残った信徒が出てくることは分かっていた。このパターンは芍薬のシミュレーションで予測済みであるし、先ほど芍薬が彼女を『ペテン師』と呼んだ時点でこう来ることは理解していたのだ。
ニトロは手にしていた鞘を四人のミリュウに向けて投げつけた。ただの牽制ではあるが、それに彼女らの足が緩んだ。そして――
「フッ!」
短く息を吐き、急転、ニトロは横に体を滑らせながら振り向き様に剣を薙いだ。
光は影を生む。何より、足音はここでは消せはしない。
ニトロの剣に嫌な感触があった。
彼は、腹を切られた『ミリュウ』が瞠目している顔を見た。
彼女には聖痕はなく、髪も長いままで、その細い首には花の
神官アリンであった。
彼女は振りかぶった剣を、腹を切られてなおニトロに振り下ろした。ニトロはそれを容易にかわす。断末魔の一太刀をかわされたアリンは振り下ろした殺意に引きずられるように倒れ、それきり動かなくなり、やおら静かに燃え出した。
――プカマペ教団の首領の、あまりにあっけない最期。
「「ニトロ・ポルカトォ!」」
怒号を上げ、ミリュウ達が駆けてくる。ニトロは振り返り、
(いや、尊き犠牲か)
内心で失態に気づきながら、ニトロは前後左右に入れ替わり迫ってくる全く同じ姿の四人に囲まれないよう動いた。
(くそっ、完全に目を離した)
覚悟はしていたにしろ、生身の人間、それも同い年の女子と切り結ぼうという状況は正常な判断力の中にも少しの狂いを生じさせていたらしい。
人の心の厄介さ――
――だから気をつけるつもりだったのに……
芍薬からの指示はない。例の『協定』のためだろう。
(……それなら――)
ニトロは先行してきた一人を迎え撃った。