地上宮殿部のエントランスに描かれた天井画を満足いくまで観るとしたら、きっと一日あっても足りない。
ニトロがそれを察したのは、扉の閉められた後、暗闇に目が慣れてからのことだった。窓は外から見ると普通のガラス窓であったが、内から見ると遮光フィルムの張られたもので、それはどうやら天井画の保護の一環としてのものであるらしい。ロボットのライトも紫外線を出さぬものらしく、芍薬のホタルはできるだけ光量を落とし足元だけを照らすよう依頼されていた。
その中で、ようやく目が慣れたニトロは、天井画は実に細密な絵画であり、たった1m四方を“読み解く”だけでもかなりの情報量を相手にせねばならないことを知ったのだ。そしてそれを知ると同時に、自分の目が決闘に耐えられるだけの準備を整えたことも知った。
「解説をありがとう。それじゃあ、王女様の所へ案内してくれるかな」
「『了解イタシマシタ』」
芍薬が代返する。ロボットが衝撃吸収材で覆われた八つの足を使って慎重に方向転換し、転換し切ったところで柔らかなゴムを履いたタイヤを静かに絨毯の敷き詰められた床に下ろし、そろそろと走り出した。
ニトロと芍薬も、床材保護の絨毯が敷かれているにも関わらず、思わずロボットに倣って貴重な歴史的遺物に傷をつけないよう静かに歩いていく。
エントランスから奥に入ると、闇が濃くなった気がした。ロボットの頭にある淡い光と足元を照らすホタルの光が満月よりも明るいように思われるほど内部は暗く、とても静かで、涼しい。換気が行き届いているため湿気もない。そして何より、ここには静謐な空気があった。死者にまつわる不気味さは不思議となく、それなのに死者に捧げる哀悼の情は充満している。
ニトロは自然と思った。
(やっぱり……ここは『霊廟』なんだ……)
王に連なる人間でも滅多に入れず、大貴族や大政治家もほぼ入ることを許されず、一般人はまず間違いなく一生入ることのできない場所。近代になってからは墓守の仕事の大部分はロボットに任されるようになっているから、墓守の一族でもここまではそうそう入ってきていないだろう。史跡保護と学術的な研究のためにロボットのカメラが捉えた映像は常に専門機関に送られているものの、ここ百年で人間付きの調査が内部に入ったのは一度きりであるし、現在のようにドキュメンタリーチックに記録されているのは無論史上初のことだ。
ティディアも権威ある『玉座の間』をふざけた映画の撮影に使ってくれたものだが、
(ここに招待してくれたこと――この一点だけは姉を超えた『クレイジー』ぶりだよ)
ニトロは内心苦笑する。
すると、芍薬も苦笑していた。
「どうしたの?」
ロボットが立ち止まったのに合わせて足を止め、ニトロが問うと、芍薬は少し言いにくそうにして、
「『マタノゴ視察、オ待チシテイマス』」
「ああ……」
ロボットが随分丁寧な対応をしていたのは、てっきりミリュウの命令のためだと思っていたが……
「そういうことか」
自己判断の利くオリジナルA.I.なら、例え相手が『王族』として登録されていても“現状ではそのように扱わない”――ということができるが、入力された情報に忠実極まる汎用A.I.ではそうはいかない。つまり、ニトロはロボットに積まれた汎用A.I.において、『ニトロ・ポルカト』が既に王族として登録されていることに頬が引きつるのを止められなかった。
(ティディアめ)
絶対に登録情報を削除させてやる。そう心に刻みながらニトロは返事を待つロボットに向け、
「……まあ、機会があったらね」
ニトロが言うと、ロボットが会釈をするように“そこ”を指し示した。
ロボットの示したところには壁しかなかった。が、ロボットが道を開けた先で何やら操作をすると、壁の一部が重い音を立てて、しかし滑らかにスライドしていく。すると暗い地下へ通じる階段がニトロの目の前に現れた。
――と、
「!」
ニトロが階下から滲んだ光に気づくより先に、芍薬が一歩前に出た。
「敵意ハナイ」
その声は男とも女ともつかぬ声だった。一音一音にエッジが効いているような、はっきりとした物言い。
やがて階下から光源が上がってくる。オレンジ色の光は昔ながらのカンテラによるものだった。そして現れたのは、古めかしい灯りを片手に携えた――
――<<『フレア』ダヨ>>
パトネト王子のオリジナルA.I.であると芍薬に知らされ、ニトロは内心でうなずいた。
階段を上がりきったところで、フレアは言った。
「コレヲ受ケ取ッテ頂キタイ」
フレアは教団のローブに身を包んでいた。目が慣れたといってもさすがにこの光量ではフードの内側まで明瞭とはいかない。大柄な背格好からして『ミリュウ』の一体ではなさそうだが……まず、戦闘用アンドロイドであろう。それもあの王子のA.I.の繰るアンドロイド……あの『女神像』を下敷きにすればどれほどのものか想像もつかない。
「それは?」
ニトロは幾分腰を落とし――いつでも毀刃のナイフを抜けるよう戦闘服のプログラムをスタンバイさせながら、フレアの差し出したものを確認した。
「破滅神徒様モ、同ジ物ヲ」
それは鞘に入ったシンプルな剣だった。細身ではあるが、全長は1m弱。貴族が儀礼用に持つオーソドックスなタイプの長剣。ニトロは眉をひそめた。
「同じ剣を?」
「ハイ」
「長さも、重さも?」
「ハイ」
「それだと俺が有利だよ?」
「承知」
「……」
「オ腰ノ物ヲ相手取ルヨリハ、不利ニナク」
「……それは確かに」
ニトロは芍薬を促した。
芍薬はうなずくとフレアから剣を受け取り、素早くチェック機能を働かせた。
――<<材質ハ
つまり『映画』で姉が使っていた剣と同じ素材。
――<<切レ味モ良サソウダネ。バカ正直ナホドニ、タダ真剣ダヨ>>
「了解」
そう声に出しつつ、ニトロは芍薬から剣を受け取った。代わりに腰のナイフを芍薬に預けようとし、
「オ持チ頂イテ構イマセン」
「――正々堂々としてるもんだね」
ナイフを使われては不利だと言いながらフレアが静止してきたことの裏にあるものを感じ取り、ニトロはナイフを戻しながら言った。
が、フレアはそれ以上何かを応える代わりに、
「コチラヘ」
踵を返し、一つ下の段に足を下ろしながら言う。
ニトロと芍薬は、従った。芍薬がまず先にフレアを追い、ホタルが足元を照らすために間に入り、それにニトロが続く。
「王子様は?」
こつ、こつ、と硬い靴の底が大理石に下ろされる度に音を立てる中、ニトロは訪ねた。声は少し反響している。
「イラッシャル」
「どこに?」
「沈黙ヲ」
「……こっちを見てる?」
「イツデモ」
「近くにはいるんだ」
「ハイ」
「彼は、この件についてどう思っているのかな」
「沈黙ヲ」
「……」
ニトロは剣の柄の握り具合を確かめながら、
「彼は、お姉さんが好きかい?」
「ハイ」
肯定が返ってきた。ニトロは一度柄を強く握り込み、
「それじゃあ、ちょっと頑張らないとね」
「沈黙ヲ」
ニトロは小さく笑った。フレアは大真面目に応えたのだろうが、そこは言葉にせずの沈黙でいい。
一方、第三王位継承者のオリジナルA.I.の奇妙な愛嬌に背後でマスターが笑んでいるのとは対照的に、芍薬は硬く口を結んでいた。
――「観テロダッテ?」
アンドロイド間の通信帯を使って呼びかけてきたフレアへ、芍薬は険を返した。
――「随分ト御大層ナ指図ジャアナイカ」
すると、フレアは言う。
――「指図デハナイ。『協定』ダ。私モ手ヲ出サナイ。貴様ヲ牽制スルダケダ」
――「ツマリ、アンタモ観テイルダケダト?」
――「ココハ『霊廟』ダ。神聖ナ場所デアリ史跡トシテモ最重要ダ。ガ、私達ガ戦エバ、無事デハ済マナイ」
――「ソウナレバ互イノマスターノ不名誉トナル、カ」
――「貴様ガ動カナイ限リ、私モ動カナイ。約束シヨウ」
――「信用シテモラエルト思ウカイ?」
――「ナラバ」
――「!」
芍薬は驚愕した。送られてきたのは『起爆プログラム』であった。しかもそれはフレアの『
――「本物カイ?」
――「試シテミルガイイ」
――「……イヤ」
芍薬とフレアは一段下がる間にここまで会話し、もう一段下がるまで沈黙し、
――<<主様、あたしハ手ヲ出セナイ>>
ニトロは階段を下りながら、芍薬の言葉を驚きもせず受け止めた。
(ここを壊しちゃまずいもんね)
芍薬はまた驚いた。まさかマスターはA.I.間の会話を盗み聞きできるというのだろうか――そう思って、内心で苦笑いをする。違う。マスターは素直にそう理解したのだ。
(でも、あっちはどうかな)
――<<『協定』ハ成ッタヨ>>
その言葉にこそニトロは驚いたようだった。
(了解)
だが、すぐに返ってきた答えに芍薬はうなずきを見せ、それから
――「承諾シタ」
――「貴様ノマスターガ聡キ方デ助カル」
意外にも主を褒められたことを嬉しいと感じる自分が何だか悔しく、芍薬は言った。
――「タダシ、ソッチハ『内部分裂』ヲ起コシテイルヨウダカラネ。ミリュウ姫ノ行動イカンジャ、パトネト王子ガ何ヲ考エテイヨウガ知ッタコッチャナイ、あたしハアンタヲ殺シテ主様ヲ助ケルヨ」
――「覚悟シテイル」
――「……ドウモ解ラナイネ。アンタト王子様ハ、一体何ヲ考エテルンダイ?」
――「沈黙ヲ」
芍薬はそれ以上問い詰めようはしなかった。撫子のサポートA.I.として、またマスターと一緒に場数を踏んできた経験が、このまま泳がしておいた方が益となるだろうと告げていたのである。
以降、三人はただただ地下への長い階段を下り続けた。
一段下がるにつれ、霊廟の空気が濃くなっていく。
長い一本道をしばらく降りたところで、ようやく踊り場が現れた。踊り場は広く、久々の平地をぐるりと歩いて折り返した時、ニトロの視界にふっと新たな灯りが這い込んできた。折り返した後の階段はこれまでに比べて随分短く、三十段ほど下に地下宮殿の一階――初代覇王が殺される直前に息子と石像の出来栄えを語り合ったという『石像柱の間』の入り口が見える。ニトロの目に入ったオレンジがかった灯りは、そこから階段を這い登ってきていた。
ニトロは冷たい空気を一度大きく吸った。心身を引き締め、良い具合に集中力を高めながら階段を下りていく。
芍薬は、マスターの足音に力強さが加わったのを聞いた。
と、その時、
――「貴様ノマスターハ、負ケヌサ」
敵方のフレアが、突然そう言った。
芍薬は思わず立ち止まりそうになり、そのプログラムをすんでのところで回避し、
「……」
動揺させられたまま終わるのは癪だ。芍薬は言った。
――「当然。あたしノ自慢ノマスターダカラネ」