「綺麗なところだね」
 眼下に広がる景色を見てニトロはつぶやいた。低い山々の隆起が作る陰影が緑の濃淡を生み、日の傾きが濃淡の中にさらに濃い影を生み、その影の底には早くも夜の片鱗が見える。反面、山の頂は明るい夏の夕日を目一杯に浴びて輝いており、その対比はダイナミックな自然の美を描き出す。山間にぽつんと唐突に存在する小さく美しい湖の、宝石のようなキラめきにニトロがため息をつく横で、芍薬は同意を示しうなずいていた。
 今、芍薬の操作する飛行車スカイカーの周囲には警察も王軍もいない。もちろんメディアの姿も影一つない。
 既に二人は広大な陵地内に入っており、普段から立ち入りも上空の飛行も禁止されているここにまで追いかけてこられる者はいないのだ。例え無理に追いかけてきたとしても、普段からの警備に加え、王軍親衛隊まで加わった厳重警戒体勢の中を掻い潜ってこようという愚か者はニトロ達の影を見ることもなくただ後悔を見ることとなるだろう。
 陵地の空をただ一台きりで飛ぶ車は、やがてゆっくりと降下を始めた。
 降下する先にはニトロの見惚れた湖がある。
 そして、その湖を見下ろす山の斜面を切り開いた土地に、小ぶりな宮殿があった。
 青い屋根を頂き、白と茶系の大理石で作られたその瀟洒な宮殿は元の名を『リデアルディアナ宮殿』という。古語で『愛する小さなディアナ』という意味だ。ディアナは、覇王が最後の妻、ロディアーナを呼ぶ時の愛称である。
 初代覇王は、三十数歳離れた最後の妻を溺愛していた。
 初代王妃も、覇王を愛してはいた――妻の役目として
 そもそもロディアーナは、覇王の唯一の子……というよりは、唯一父に殺されなかった子息、レイアンの婚約者であった。
 覇王は武勇優れる戦士であったと同時に、アデムメデスの技術力を千年早めた科学者でもあった。覇王は戦乱の世、東大陸最大の帝国の従属国に王子として生まれた。彼にとって幸いであったのは、その国は小さくとも、彼にとって必要な『資源』が豊富に蓄えていたことだ。父の早世により幼くして戴冠した覇王は軍事力(表向きは科学技術)の発展に狂気的な執着を見せ、自ら陣頭指揮に当たりながら、自らも研究者として開発に没頭した。そして驚くべきことに、ようやく火薬式の大砲が実現段階に入った時代にバズーカ砲や機関銃、騎兵に対し装甲車と飛行機を完成させ、さらにはガスマスクの発明により当時『黒魔術』と恐れられた毒ガスによる一方的な殲滅戦を成立せしめ、彼は瞬く間に星を蹂躙していったのである。
 ――それは、星の統一が視野に入った頃に起こった。
 それまで同盟を結んでいたロディアーナの父が治める大国を、覇王は突然攻めたのだ。宣戦布告の理由は戦国の世の常、ほとんど難癖に近い「敵対の意思有り」という大儀のため。大国は世界でも有数の国力を持っていたが、しかし覇王の軍との圧倒的な戦力差の前に抵抗空しく三日後に降伏した。覇王は大国の王に関係する者を老若男女問わず、遠縁、養子に至るまで皆殺しにした。唯一生き延びたのはロディアーナのみであり、故国の滅亡の二日後、彼女は“昨夜不慮の事故で死んだ王妃の代わりに”王妃に迎えられた。
 誰の目にも明らかだった。覇王は息子の婚約者を奪うために国一つを滅ぼしたのだ。そして故国に残る民の――大国の王に関係する者達の命乞いのため、まだ二十に満たない王女は覇王に身を委ねたのだと。
 彼女は美しく、可憐で、優しく……また哀しいかな『王女』として秀でていた。戦略婚は当たり前の時代でもある。これは王女たる自分の運命、と覚悟する少女は、一族を虐殺した男に対しても心を殺して献身的に振舞った。
 そしてまた覇王の息子――最も父の才を引いた男――希代の軍師であると同時にアデムメデスの医学を大いに発展させた天才でありながら、そうでありながら父の完全なる傀儡であり、愛し合っていた婚約者を手酷いやり方で奪われた後も笑顔で父に協力する道化者も(その不甲斐なさ故に影では覇王に対する憎悪以上に罵られながら)引き続きアデムメデス統一のため大いに働いた。
 ――ある歴史家は、覇王がロディアーナを奪ったのは息子の忠心を試すためだったと語る。覇王はあまりに優秀な息子を内心では恐れていたのだと。他の息子や娘を、折に触れて無残に『処理』してきた覇王がついぞ彼を殺せなかったのは、もし彼を殺そうとしようものなら返り討ちにされると予感していたのだと。
 一方である歴史家は、覇王がロディアーナを娶ったのは確かに息子の忠心を試す意味があっただろう。しかし、彼は初代アデムメデス国王妃を心から愛していたと語る。そして、その愛こそがアデムメデス統一後の恐怖の嵐を呼んだのだと。
 星が統一されたのは、ロディアーナが王妃となって五年後のことだった。最後の覇権を争った百の国の同盟を打ち破った覇王は国名を『アデムメデス』、王朝名を『ロディアーナ』と改め、千年の栄華を謳い統治を開始した。
 ロディアーナ朝には二つの顔があった。覇王の恐怖と、悲劇的な王妃の慈愛。国民は為政者として優れながらも暴虐極まる王に震えながら、時に王に柔らかく意見し、その暴威を和らげてくれる王妃の美しさに心を打たれていた。
 覇王は、年を経るごとにますます美しくなる王妃を愛した。
 王妃も、年を経て子を身ごもりながら夫を愛した――妻として、母の務めとして。
 覇王は王妃の愛の裏側を知っていたのだろう。だから余計に王妃を愛した。統一から二年後に王子が生まれ、その子にレイアンが第一王位継承権を譲渡した頃から、覇王の暴威はさらに狂っていった。
 ある時、王は公費横領を“疑われた”貴族を突如公開拷問にかけて殺した。累は家族にまで及びかけ、それを知った王妃が夫を咎めると、彼は嬉しそうに彼女の言うことを聞き入れ、その貴族の家族を赦免したという。
 また覇王は王妃のために大量の国費を浪費して豪華な宮殿を建てたようとした。それは宮殿建築に動員された人数の四割が様々な理由で死亡した過酷にして非道な事業でもあった。それを知った王妃が咎めると、覇王は反省を示すように完成間近の宮殿を破壊した。宮殿と宮殿にまつわる死がまさに無駄となったのである。そのあまりに惨い結果に悲しむ王妃を、覇王は自分にそうさせたのはお前だと責めながら、一方で優しく慰めたという。
 謀反の準備を進めていた者を発見した時の覇王の顔は残忍に輝き、謀反を企てていたからには王妃も止めきれない。その者の一族郎党は見せしめとして惨殺された。さらにはその者の領地の民まで殺し始めてようやく王妃の言葉は覇王に届き、そんな時、王妃は覇王の残忍性を民の代わりに受け続けたという。そしてそれをこそ求めて覇王は謀反者を――時に難癖すらなく適当な理由で“生み出し”続けていたという。
 悲惨な人生を歩みながら、それでも笑顔で国民を守ろうとする王妃を、皆が哀れみながら愛していた。彼女が愛されるにつれ、皆が愛する王妃を独占したい覇王は、さらに暴虐の度を増していった。
 統一から十二年後のことだ。
 それも突然だった。
 覇王は、ロディアーナが愛していた湖の近くに宮殿を建てることを決めた。
 その宮殿が完成間近となり、覇王は盲信的な手駒として働く第二王位継承者レイアンを供に連れて様子を見に来た。それは、地上部の宮殿とは別に、夫が妻を驚かせようと設えた“地下宮殿”に入った時のことだった。供として連れてきたレイアンの手によって、覇王は亡国の乱賊として『粛清』されたのである。
 レイアンはずっと待ち続けていたのだ。父が油断するその時を。猜疑心の強い父が、古老の域にあってなお壮健な偉丈夫である武人が、護衛として自分一人を連れるその時を。
 その機会を作り上げた者こそが、ロディアーナだった。彼女が覇王にレイアンを供にすることを何度も提案していたのだ。覇王はしぶしぶ何度かレイアンを供にして、その時々に何事もなかったために、覇王はとうとう油断したのだ。他の機会では常に身の回りに付けていた親衛隊の一人も用意せず、建設責任者を伴い父子二人で地下に下り、そうして冷たい石床で星を統べた暴虐の超人はその生涯を閉じたのである。
 後世に『道化の剣』として伝わる劇の題材ともなった王妃と王子の忍耐の末、アデムメデスは覇王の恐怖から解放された。その後、国は何度か分裂の危機も迎えたが、それをこれ以上の惨禍を望まぬ女王ロディアーナの尽力と果断で乗り越えた。
 覇王が統べ、礎を築いたアデムメデス。
 全ての悲劇を背負って立ち続けた『聖母王』がその礎を固め、育み、安定させ、柱を立て、屋根を作り、その後、実はロディアーナとレイアンの息子とも噂される三代王が国を継ぎ……ロディアーナ朝は現在に至る。
(かくて長い時を経て、覇王の血とロディアーナの血と名を継ぐ者がここで死のうとしている――か)
 父討ち後は英雄として讃えられ、女王の夫として、つまり王として立つことを強く望まれたレイアンはついに冠を抱かなかった。ただひたすらに女王の手足となり身を砕き、彼はアデムメデスの平和な未来に向けて死力を尽くした。そして父の死の八年後に、ロディアーナに看取られ病のためにこの世を去った。
(『嗚呼、君を、君に全ての重荷を残して死んでいくのが無念でならない』)
 道化の剣――いつか両親にシェルリントン・タワー内の劇場で演じ続けられている名作中の名作を見せたいと思っていたニトロは、その劇の中での王子のセリフを思い出しながら、千年どころか三千年を視野に入れてなお輝き続ける大理石の宮殿を見上げた。背後では飛行車のエンジンが止められている。
(『幸せに。君よ、どうか、どうか幸せに』)
 史実としてレイアンがどんな言葉をロディアーナに遺したのかは記録に残っていない。劇作の中では愛する女性の涙を唇に乗せて死んだ彼は、史実として残る遺言に従い、父の眠る地下宮殿に葬られた。
 以降、覇王への畏れと英雄への敬意を込めて『無冠王墓』と名を改められた宮殿の重く大きな石扉が、今、ゆっくりと開き出している。

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