ハラキリへ連絡を入れ、セイラをピピンに連れて行ってもらった後――
ニトロは戦闘服を脱いでベッドに腰掛け、ぼんやりと天井を見上げていた。
傍らにはピピンが運んできてくれたケースがある。芍薬のキモノの替えと、これから地下のトレーニングルームで使う必要なデータ等。
――ニトロの目には、セイラの眼差しが残っていた。
ミリュウ姫の元執事は別れ際、互いに交わす言葉ももはやなく、ただ、彼女は謝意の深さをそのまま表すかのように深く頭を下げ、その姿勢のままピピンと共に姿を消した。
ニトロの目に焼きついたのは、セイラが頭を下げる直前に垣間見えた瞳だった。
何か胸に迫るものがあったらしく芍薬のクリームシチューを食べている最中にぽろぽろと涙を落とし、泣きながら食べ、そして先の涙もあって完全に泣き腫れた彼女の眼には、まず迷惑をかけ続けている少年への謝罪の気持ちがあり、感謝があり、その下に、どうしようもないほどの希望があった。
彼女はそれを言葉にするつもりは微塵もなかったはずだし、もしかしたらその気持ちがあることにも気づいていないのかもしれない。
ニトロ・ポルカトなら、きっと大切な『妹』を救ってくれる――いいや、救える。
(希望……か)
ニトロは思う。
それにしても、国の未来に人の未来、挙句の果てには『敵』の未来まで……いつの間にか自分の肩には色々なものが圧し掛かり、またしがみついてくるようになっていたものだ。
(そんなに大きな肩じゃないと思うんだけどな)
今、その肩には芍薬の手が触れている。
骨や筋肉に異常はないか、『決闘』に向けて万全を期すために精密に調べてくれている。
ニトロは思う。今の自分に、この大切な家族と親友がいてくれなかったら――そう考えるだけでとても恐ろしくなる。もし今に至るまで二人と、特に四六時中支えてくれている芍薬と厚い絆を結べていなかったらと思うと……
「もしかしたらミリュウ姫は、ありえたかもしれない未来、なのかもな……」
「主様ノ?」
肩から腕に検査を移しながら、芍薬が促す。ニトロはうなずき、
「ほら、覚えてる? 芍薬が俺のA.I.としてやってきてくれた日、俺は精神的に追いつめられてノイローゼ寸前だった」
少しおどけるように洒落めかせるニトロの声を聞き、しかし、芍薬は調子を合わせず平静に返した。
「ソノ原因トハ、話ガチョット違ウンジャナイカイ?」
「ん、まあね。だけど、ノイローゼになってたら俺は絶対にティディアに『コントロール』されて、うまいこと夫にされてたと思うんだ。気が完全に弱っているから抵抗力もないしね。もしかしたら、身も心もティディアに溺れさせられて、いずれはあいつに愛されることこそ喜びとして感じるようになるように操られてたんじゃないかな。例えばノイローゼになったのは“ティディアのせい”じゃなく“ティディアの愛を受け入れないせい”だからだって思わされてさ……そうして俺は思うんだ『なんだ、悪いのは自分じゃないか、それなら悪い自分を悔い改めよう』。そして実際に改めてみたら――俺の認識はその時大転倒するから、結果的に精神的な苦悩から“本当に”解放されたと思うようになる。自らティディアの『愛』を受け入れるからには、当然、あいつが愛してくれることを幸せに感じる。そうなれば間違いなく苦悩から解放してくださったティディア様に感謝もしていたはずだよ。感謝して……恩義に応えるためにも愛する彼女の期待に応えることを決意するんだ。女神にも匹敵する王女の愛を独占的に授かる光栄に心を奮わせ、張り切ってツッコミもしまくっただろうね」
「ソリャホトンド洗脳ダネェ。ソレトモ『愛』ッテイウ名前ノ薬漬ケニシテ、ッテヤツカナ」
愛、故の幸福は麻酔、愛、故の慰みは麻薬――文化史に必ず出てくる大昔の詩人の言葉を意識した芍薬のセリフに、ニトロは笑った。その言葉が含められた一編のタイトルこそ、
「うん。まさに『悪魔』だよ」
「違イナイ」
ニトロの肘を調べながら、芍薬はマスターが自分の期待した通りの応えをくれたことに喉を鳴らして笑う。ニトロも笑み、すぐに笑みを消し、
「そしてその後、悪魔に唆された俺は……ティディアは折角手に入れた『ツッコミ役』っていう道具がパフォーマンスを落とさないようにメンテナンスをしたはずだから、“王”になってからもうまいこと『王の責任』から意識をそらされ続けていたかもしれないけどさ……だけど、ふと俺がそのことに気がついちゃったら――」
「主様ハ、キット気ヅイタロウネ」
ニトロの手を調べながら、芍薬は確信的に言う。ニトロは少し苦笑し、“その時”の自分の心には二本の強力な支柱が絶対に無いことを想像し、
「うん。で、きっと重責に耐えられなくて潰れたと思う。そして潰れた道具は使い物にならなくなって、傍若無人なティディア姫に無慈悲にゴミ箱に捨てられたよ。その後はどうなるものか、解ったもんじゃないや」
今のティディアがどうかはともかく『自分の知るティディア』は間違いなくそうしていたはずだ。ある程度の“失業保険”はあっても、以降、使えない道具には見向きもしない。身も心も王女様に奪われきった男は、叶わぬ想いに身を焦がし、さて?
と、確信的に言うマスターの言葉を聞いていた芍薬は、ふいにため息をつくように笑った。
「ヤッパリ、主様ハ“オ人好シ”ダネ」
「?――……」
ニトロは芍薬が何を思ってそう言ったのかに気づき、空笑みを刻んだ。
「そうかもね」
「
「……うん、そうだね」
両腕を調べ終えた芍薬の手が背に触れる。背部と腰部を調べ、じんわりと温かな手は数時間前には肋骨にヒビが入り酷い内出血もあった脇腹へと滑っていく。
「聞ク耳スラ持タナクテ良イノニ」
ぽつりとこぼすように、芍薬は言った。
「……その方がやっぱり普通かな」
「カモネ」
「…………その方が良かったかな」
脇腹の傷は完治している。ニトロの体内に打ち込まれている薬剤と、芍薬の体にある治療装置の賜物であった。
芍薬は、いつの間にか広くなったマスターの背中を見つめ、もしかしたらこの人は――王とならずとも――ここに今よりももっと色々な物を負うことになるのかもしれないと思いながら、言った。
「“ソノ方”ジャナイノガ主様ラシクテあたしハ良イト思ウナ」
「――ありがとう」
ニトロが笑っているのが背後からでも分かる。芍薬も笑顔となり、そしてふと笑みを消し、
「……デモ、複雑ダネ」
「うん。こうなるとさすがに複雑だよ」
「違ウヨ?」
「ん?」
「ミリュウ姫ニ対シテジャナク――主様ノコトダヨ」
ニトロは身をよじり、肩越しに振り返った。
芍薬は、驚くほど真剣な眼をしていた。
「アノバカノコトサ」
「――ああ」
と、ニトロはうなずき、苦笑しながら前に向き直った。
「元凶はあいつだって、絶対確実なんだけどねー」
ニトロはため息をつくように言う。
「けどねぇ」
諸問題の根源は、間違いなく、誰がどう言おうとティディアのせいだ。そこは譲れない。
しかし――ティディアが元凶となるに定まったのは、ミリュウの言葉が真実だとして、それは
ティディアに愛されている実感など微塵もないしそれが事実だとは未だに認めたくないが、それでも人が人を愛することを『悪』だとはしたくない。なるほど、ティディアが俺を愛さなければミリュウ姫はきっと気楽でいられた。同じ道具として、ティディアの操る人形同士として仲良くやっていけた――それはそうかもしれないが、だからといって妹に配慮して「お前は人間を愛すな」とは言えない。
その点においては――例えあいつが事の全てを把握しているのだとしても――不慮だ。それはとても、責められない。
ニトロは渋面を刻んだまま、んーと唸る。
芍薬は笑った。
「ヤッパリ主様ハオ人好シダ」
ニトロも、笑った。
「駄目かな?」
「ウウン、ソウイウ主様ダカラあたしモ命ヲ張レルッテモンサ。イツデモイクラデモ“オ助ケ”シテミセルヨ」
少しおどけるように洒落めかせる芍薬の声を聞き、ニトロは、ふと宙を見つめた。
背に触れる芍薬の手をはっきりと感じながら――ここに勝る機会はない――いつか言おう、いつ言おうと思っていたことを思い切って口にする。
「俺はまだ死ぬ気はないし、ミリュウ姫に殺されるつもりももちろんないんだけどさ」
「ン?」
「俺が死んだら、芍薬も来てね」
ニトロの体に触れる芍薬の手が、小さく、震えた。
マスターの言葉は――その『命令』は、オリジナルA.I.にとっての最大の幸福。
人間にすればまさに神の祝福と等しいであろう『幸せな死』の約束。
一時……人間よりずっとずっと思考速度の早いA.I.にしてはおそろしく長い間、芍薬は一つの言葉も発せなかった。言葉にならない――という人間の感情表現を、本当に、本物の痛覚が生まれたのではないかと錯覚するほどに痛感する。掌のセンサーから伝わってくるマスターの鼓動が、嗚呼、あたしの
――やがて芍薬は、小さくうなずいた。
「承諾」
その声は手と同様に震えていた。
その震えは、涙を流せる肉体を持たないオリジナルA.I.の、歓喜の涙であった。
背中から伝わってくるその温かな涙に、ニトロは、暖かな微笑みを浮かべていた。