ニトロの声には滲む怒りがある。
 セイラは彼の怒りはもっともな感情だと目を落とした。
「そこまでミリュウ姫のことを理解し、想いながら、何を」
「いいえ、理解していませんでした。私は全てが手遅れになってからようやく理解できたのです。ここで貴方様に気づかされたことすらあるほどに、私は理解していなかった」
 恥を忍びながら、さらに恥を上塗りするように――それが罰だとでも言うように――セイラは言った。
「私はミリュウ様を愛しています。主人としてではなく、家族として。この想いはティディア様にも負けません。しかし、私は――優秀ではない。妹を諌めることもできぬ駄目な姉で、主人が間違った道に進んでいることにも気づかぬ愚かな従者です。ですが、きっと……だから私はティディア様に選ばれた
 過去、何故私を選ばれたのかという問いに対し、美しい姉姫は言った――『ミリュウには、貴女くらいの人間が良いのよ』――貴女“くらいの”。今ならその言葉に含まれていた真の意味が解る、今になってようやく判る――そしてそれは、図らずもティディアの言葉が正しかったことをとてもとても強く証明する!
「私はヴィタ様のような執事でありたかった。けれど、もしそうであったなら、私もミリュウ様を追いつめていたのでしょう」
 セイラの顔は泣き顔であった。涙を流さぬまま、彼女は泣いていた。
「ミリュウ様は今回の件にあたり私に命じました。『傍にいるように』と。それしか命じてくださいませんでした。――ニトロ様! 告白します。私は、貴方様を私の手で殺すことも提案しました。私なら、貴方様を油断させ、刃にかけられると!」
 ニトロは黙ってセイラを見つめていた。責めず、怒りもなく、呆れもなく、ただ純粋に彼女の言葉を受け止めていた。それが彼女の涙を誘った。血を吐くような思いを『敵』に赦され、彼女の双眸から涙がぽろぽろとこぼれた。
「ミリュウ様は、それでも私に傍にいることだけを命じたのです」
「そして、それがあなたにしかできないことだった」
 セイラは手で顔を覆い、何度もうなずいた。
 ニトロは黙し、しばらく考え……心を鬼とし、責めた。
「それなのに、どうしてここに? あなたが、あなただけが、ミリュウ姫の最後の支えだったはずなのに」
「わたしわミリュウ様に生ぐてぃで欲しいのです!」
 セイラは叫んだ。一瞬、そこには彼女の故郷のものであろう訛りが現れていた。それは彼女の嘘偽りない悲鳴であった。彼女は一度息を飲み、震えながら言う。
「ミリュウ様からすれば余計なことでありましょう。あれほど嬉々として『死』に臨んでいるのです。それを邪魔されたくはないでしょう。解っています、私の自己満足です。しかし私はミリュウ様に死なれたくない。あの方はまだ17です。貴方様と同じ、まだそれだけしか生きていない。まだまだ多くのことができるのです、多くのことを知れるのです、多くの喜びも味わえるのです! それなのに、あの方の世界の全てはあまりに狭く終わろうとしている! 世界はあの方を包んで余りあるほど広いのに! 本当の空の広さも知らずに死なれるのはあまりに哀れでなりません! もしかしたら私は、ミリュウ様に死ぬよりつらい余生を与えようとしているのかもしれません。もしかしたらミリュウ様は本当に壊れてしまうかもしれません。だとしても、私はミリュウ様のお世話をしたい。療養のためならばせめて王位継承権保持者の座からは退けましょう。そうして私の故郷の山で、静かに暮らさせて差し上げたい……我が儘にも、そう思うのです」
 セイラは泣きながら、涙と鼻水で顔を汚しながら、ニトロに笑いかけた。
「あの方はお笑いになると、本当にかわいらしいのですよ?」
 ニトロは何も言わず……何も言えず、セイラの震える声を聞いていた。
「ですが、私にはミリュウ様を救えません。今はパトネト様がミリュウ様を支えてくださっていますが、パトネト様でも無理でしょう。ティディア様も……今となってはミリュウ様にとって雷を下すだけの鬼神となりましょう。
 ニトロ様。
 貴方様だけなのです。『悪魔』しかあの方を救えない。人の心を惑わす悪魔しか……人の心を惑わし、価値観を変えられる悪魔しか……心を変えさせられる悪魔しか――ニトロ・ポルカトしかいないのです」
「難題ですね」
 ニトロの脳裏にハラキリの示した道が蘇る。『神を奪われ怒れる者を、その神から解き放て』――それをティディアが望んでいる。形は微妙に違ったが、どうやら難易度としては変わらぬ道。
 本当に、なんという『試練』だ。
「正直、そこまで言われても、どうすればミリュウ姫を助けられるのか……俺には見当がつきません」
 セイラの顔に一瞬失望がよぎり、それがすぐに諦めと変わる。その諦めはニトロに託そうという希望に対するものではなく、ニトロの答えを否定し彼を説得することへの諦めだった。彼女自身『どうすれば?』――それを解らないでいるのだ。それなのに、それ以上の要求を突きつけることは非道である。彼女の顔色の変化は、そう語っていた。
 ニトロは深く息をついた。
「芍薬、シチューは残ってる?」
「残ッテルヨ」
 立ち上がるニトロを、セイラが化粧も完全に崩れた顔で見上げる。
 芍薬がやってきて、彼女にハンカチを渡す。
 受け取ったハンカチをぼんやりと眺めた後、セイラはニトロに目を戻した。
「芍薬のシチューは美味しいんです」
 微笑むニトロへ、セイラはぼんやりとうなずく。
「その様子だと晩の食事はとっていないでしょう? でしたらそれを食べて、少しでも心を落ち着けて、そうしたらお帰りください。あなたの頼みを聞き届けるとは言えません。ですが、想いは十分に分かりました」
 芍薬に手を取られ、セイラも立ち上がる。膝に力が入らないのであろうか、その様子はよろよろとしていた。
「ひとまずここで言えることは、あなたのお陰で少しの迷いも残さず晴れた――俺は、ミリュウ姫を徹底的に叩き潰します。それを今、心に決めました。その結果、彼女を救えるのかどうかは分かりませんが、少なくとも真正面から全力で相手をします
 セイラはニトロの意志を理解した。
 彼は、身勝手な自分の――そして身勝手な主人の想いを軽んじないと言ってくれている。
 期待しても良いのなら――主人の死への意志も、叩き潰せるなら叩き潰してみようと。
「申し訳ありませんが、それでよろしいですか?」
 セイラは、背筋を伸ばし、真摯な瞳を向ける『悪魔』へ深々と頭を垂れた。
「よろしくお願いいたします。全力で、徹底的に叩き潰して差し上げてください」

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