「どういうことです?」
 セイラはニトロの視線から逃れるようにうつむいた。そこには逡巡がある。おそらく彼女は、それがミリュウへの悪口になりかねないことを知っている。――が、
「ミリュウ様は『王女』に向いていません」
 目をきつく閉じ、懸命にセイラは吐き出した。
「本来の性格は、王女という重責に耐えられないほど繊細で、また、お人好しです。ニトロ様、ミリュウ様ご自身が仰っていた通りです。人徳は、一方で時に為政者に最も相応しくないものとなる、それはミリュウ様にこそ言えることなのです。ミリュウ様はティディア様には似ていない、ご両親に似ています。争いを好まず、争いにあっては腰が引けてしまう。人を傷つけることを好まず、できうることなら皆で幸せになりたい。素晴らしい優しさを持つ方です」
「でも、西大陸ではとても立派だった」
 セイラがニトロを見、その瞳が輝く。主人を褒められたことがそんなにも嬉しいのか。だが、それもすぐに沈み、
「はい、その通りです、ご立派でした、しかし、あれは、ティディア様の妹だからこそ成し遂げられたのです。お姉様のため。お姉様の妹として相応しい王女でなければならない。それがミリュウ様の第一のお心です。そう思い、そのために努力し、そうしてあの立派なお姿を見せてくださいました。
 全てはお姉様のためなのです。……そうでなければ、ミリュウ様はとっくの昔に王女の地位から逃げ出したがっていたかもしれません」
「でも、それは許されない」
 ニトロはその刹那、次の言葉を吐こうとしながら、これを言うことは果たして“正義”なのだろうかと疑問に思った。今の自分がこれを言うのは、ある意味でとても身勝手で、またある意味で自分の首を絞めることなのでは? と。しかし止められない。これは、何故なら、事実であり現実なのだから。
「彼女は、王女です」
「そうです!」
 セイラは叫んだ。
「ミリュウ様は王女です。けしてそのお立場から逃れることはできません。逃れることが許されるとしても、自ら志願してやめることはなりません。よほどの事情があるなら認められましょう。ですが、向いていないから、やりたくないからでは通じません。何故ならそのような前例はなく、また先駆けとなるにも多くの者と争わなければならない。争いを好まぬミリュウ様が、自己の満足を押し通すためにその争いに勝てることはなかったでしょう。そして、いずれ、ミリュウ様のお心は壊れていったことでしょう」
 そうしてその先には、彼女の破滅的な未来がある。例えば酒や男や薬物に溺れる? いや、真面目な彼女はそれをし得ない。ならば『希望』として残るのは――
「…………自殺することは、家族の恥になるのかな。まして、罪に?」
 ニトロの言葉を、セイラは微笑んで受け止めた。
 少年の言葉を、貴方の優しい疑問は正しいと肯定しながら、彼女はそれでも否定する。首を左右に振り、哀しげに言う。
「そう見る向きは、世間には顕然として存在します」
「でも」
「例えば、ニトロ様。トレーニングの過程で生徒に死者が出た時、その時、果たしてトレーナーに責任を問う声がないと思われますか?」
 ニトロは口をつぐんだ。
 ミリュウの師は、ティディアだ。
 過去に薫陶を受け、現在も進行形で寵愛を受けるティディアの一番の生徒だ。
「子の自殺の予兆に気がつけなかった親を、責めない者は果たして皆無でしょうか」
 ミリュウの実の両親は現王と王妃だ。
 けれど、実質的な“両親”は、ティディアだ。
「ミリュウ様の抱くティディア様のイメージは、女神です。神です。そこに傷をつけてはならない、特に自らが傷をつけることは決してならない……そう思われるのは当然のことです。そしてそれが『事故死』ならば、むしろティディア様に悲劇性を与えることのできる最善の手でもあるでしょう」
 ニトロは背筋に寒いものを感じた。
 それは、死ぬ対象が違うとはいえ、こちらが考えた筋書きとも合致する。
 ニトロの中の疑問が、一つ消える。『お姉様のため』――あくまで、お姉様のため。自分の命、自分の死の意味すらも。
「……二つ、聞いてもいいですか?」
「なんなりと」
 ニトロの問いに、セイラは居住まいを正した。
「ミリュウは……ミリュウ姫は、そのお姉様を疎ましく思っている――そんなことはありませんか?」
「あり得ません」
 セイラは即答し、答え切ったところで口を引き結んだ。
「……いいえ」
 と、彼女は重々しく、うめく。
「もしかしたら、ミリュウ様が――もう王女であることに耐えられないと、そう思われたとしたならば」
「ティディアの期待が重荷になった?」
「…………いいえ、重荷と思う間もなく、それに潰されてしまったのかもしれません」
 セイラの言葉には含みがある。ニトロはそれを敏感に感じ取っていた。彼女がこちらに向ける瞳の中に――彼女はそれを言うのは非礼だと思ったのだろう――しかし隠し切れない『考え』がある。
 ――ニトロ・ポルカトの存在が、それまで彼女を支えていたものを折ってしまった。
 むしろそう思わないほうが無理というものだろう!
 何しろ、ニトロも、きっとそうなのだろうと思うのだから。それも今だけではない。彼女の最後の演説を聞いていた時にも、それは、もしやそうだからなのか? と、思ったことなのだ。そしてその時、自分は、そうであれば納得はできずとも恨む筋は理解できると……彼女に同情していたのだ
(そういえばマードール殿下も、あの姉の下でよくやっていたって言ってたっけ)
 それは裏を返せば、マードールはミリュウがやっていけると評価していなかったということだ。何から何までティディアの言いなりで、そうしてようやく『よくやっていけていた』王女を。
 だとしたら、巨人の眼にあった『恐怖』――ミリュウの目にもあったあの恐怖は、ひょっとしたら心折れながらもまだ王女である己に対するものであったのかもしれない。心折れながらも、そして王女であることに恐怖しながらも立派に王女の務めを果たしていたのに――ニトロは思い出す。思い出そうとせずとも思い出される。ミリュウが最も感情を露とし、最も心を乱した場面を。『ニトロ・ポルカトは姉を愛していない』――その事実を突きつけられた彼女の怒りを。今となっては彼女の怒りの激しさも当たり前だと思う。愛する姉を侮辱された、だけではない。姉が人を愛したことで様々なものを奪われたと思っている人間に、その愛を受ける当事者が逆に「嫌いだ、愛していない」と平然と言い放てば激昂もするだろう。「なんてこと……なんてこと……」そうだ、本当に、何てことだ。
 人の心は多くの矛盾を抱えながらもそれらを両立させることができる。
 しかし、多くの矛盾が生み出す軋轢は、苦しみを生む。矛盾を両立させるために必要な捩れは、痛みを生む。
 自分も含め、ヴィタやマードール、ハラキリやリットルから見た人物像。そのどれとも当てはまりながら、そのどれからも乖離しようというミリュウという人物の今回の言動――複雑怪奇で矛盾の塊であった彼女は、それらが生む苦しみをどれほど抱えてきたのだろう。メビウスの輪のように裏返るほど捩れた心は、どれだけの痛みをずっとずっと引きずっていたのだろう。
 そして彼女の中にあった苦痛と苦悩は、苦痛と苦悩に耐えてきた彼女に対して“現実”が裏切りを見せたことで、彼女の心ではついに抑えきれないものに深化した。
 そうして産み出されたのが……破滅神徒。
 そういうことなのだろう。
 ――だが!
「もう一つ」
 ニトロは、セイラに訊ねた。
 女神像を倒した後に見たミリュウは、幽鬼のようであった。
 けれど王城の別れ際に――この流れで言えば“トドメ”を刺された瞬間であるはずの彼女の顔には、まだ生気があった。『お姉様のため』――その妄執が彼女をあの時も、今でさえも支えているのは間違いないだろう。しかし、それだけではないはずだ。
 ルッドランティー。
 ティディアに占められたミリュウの中にあった、たった一つの異物。
「あなたは、何をしていたのですか? 何をしているのですか?」

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