「この地、スライレンドでの出来事も、ミリュウ様はお気になさっていました。ニトロ様が巻き込まれた事件の後にティディア様が見せたご様子を、ミリュウ様は不思議と特に気になされていました。今思えば、ニトロ様とティディア様が並び開かれた事件に関する会見を見ていた際のミリュウ様のお顔は……あれは怯えたお顔だったのかもしれません」
 彼女は、過去を語る。
「ティディア様が生涯初のお風邪をお召しあそばされた時にも、ミリュウ様はひどく驚かれていました。それを私は、ただ、生涯初のお風邪をお召しあそばれたお姉様をひどく心配されているだけだと思っていました」
 セイラの声の裏に、激しい悔恨が滲む。
「ミリュウ様は本当にティディア様を愛しておられます。その愛するお方が体調を崩されたのですから、心配しないはずがありません。実際、心配されていました。ですが、今思えば、ミリュウ様はティディア様にお風邪をお召しあそばせた存在に驚かれていたのかもしれません」
 ニトロは、セイラの証言が、心に重くのしかかってくるのを知っていた。彼女は『確かなきっかけ』を語ってくれている。それは、間違いなく――ミリュウの痛烈な罵倒が耳に蘇る――ティディアが俺を愛してきた道程に違いない
 あのバカが、俺を……本当に……遡る時間が質量となって心に沈む。心に沈んだ錘はミリュウが――神を奪われた者が『神』を奪われていく過程をも目撃していたのだということを知覚させる。
「私は……私は、薄々気づいてはいたのです。ミリュウ様の変化を。しかしミリュウ様はそれでもずっとニトロ様とティディア様を祝福し続けていた。――私は! ミリュウ様の葛藤の深さを知ることもなく、その間ずっと……ただ、それは、単なる姉を慕う妹の嫉妬心だとばかりに思い込み、無礼ながら可愛らしいことだと、軽々しくも微笑ましく受け止めていたのです」
 ニトロは思う。
 もしかしたら、ミリュウも、初めはセイラと同じように思っていたのではないか? 姉の変化には薄々気づいていた。しかしそれをただの嫉妬だと思った。大好きなお姉様が男に奪われてしまったことへの嫉妬だと。
 ……ティディアが恋人の存在を示したことは『ニトロ・ポルカト』が初めてではない。
 最長でも一週間で破局確定、と、長続きした者がないために全ては謎に包まれているが――ハラキリが言うには「これまでの浮名の全ては、ああやって人の気を引いて、邪魔を消すための煙幕だったと踏んでますがねぇ。まず九割は実態無しですし」――実際ティディアとのキスシーンをパパラッチされた大貴族の息子はその後にティディアに手酷く振られ、その過程で過去のゴシップをほじくり返されて父親ごと息の根を止められた――とはいえ、『恋人自体』は初めてではないのだ。幾度目かの話を受けて、あの優等生のことだ、また嫉妬だ……と、そう考えてしまう可能性は非常に高い。そして一度そう思えば、そのような自己を“悪い子だ”と抑え込んでしまうだろう。そうして真実に気づいた時にはもう遅い。明確にティディアが変化したのは――ミリュウは言っていた『そうね、お前の言う通り、お前のことを当初は道具として愛していたでしょう』――“当初”は!――だから初めは絶対に違ったはずだ。初めはティディアは俺を道具としてアイシテイタに違いない。『だけど、違う』ミリュウはやがて気づいた。風邪の時か? スライレンドか? 明確な時期は解らない。けれど『今はもう違う』――“彼女”がそう確信した時には、もう遅かった。ミリュウは言っていた『あなたはわたしと同じ』だと。それは、きっと二人共に同じくティディアに道具としてアイサレテイタということも意味しているのだろう。だけど同じであったはずのもう一人はいつの間にか違ってしまった。それと同時に、彼女の世界の創造主すべてである『女神』までもが消え始めてしまった! それを知った時のミリュウの絶望はいかほどのものであったか――とっくの昔にもう間に合わなくなっていた――女神から『神』が奪われ続けていく過程を見続けさせられていた彼女の苦痛はいかほどのものであったか。
 となれば、全ての発端がここに明確となる。
 ニトロは苦々しく頬を固めた。
(結局、やっぱり、当たり前のように――お前が全ての元凶じゃないか)
 ティディア!
 ミリュウの実姉にして、教師であり、親でもあり、女神でもあり……そして、あいつ自身の言葉を借り、ヴィタとハラキリの言い回しも借りるなら『俺達』に『呪い』をかけた張本人。
 だとしたら、現在アデムメデスという器の中で行われているのは、蠱惑の美女の呪いを浴びた二匹が互いの生存を賭けて争っているようなものだ。
 ――あいつのことだ。張本人のことだ。ミリュウ姫を道具として育て上げてきた女神様のことだ。この騒動の本質は絶対に解っていたはずだ。きっと『呪い』の解き方も知っていることだろう。だが、あいつは、ふざけたことに何もかもに関わることを放棄し、俺に全てを丸投げして文字通り成層圏越えの高みの見物ときている。呪われたもう一方が――
(ああ、そうか)
 ニトロは気づいた。
 その、意味。
 死することで、勝てるという意味……。
 ミリュウの狙いがここにあるのかどうか……いいや、それが狙いの全てではなくとも大部分は占めているだろう。
 ミリュウが『自殺』すれば、その死は、間違いなく『ニトロ・ポルカト』の心にこびりつく。きっと自分は彼女の――それがどんなに身勝手な死であろうと、彼女がその“遺書”に『ニトロ・ポルカトの存在のため』と書くことがどんなに理不尽なことであろうと、自分は彼女の死に重みを感じてしまう。何故なら、俺は、そうだ、それを止めることをミリュウにも許された唯一の人間であるために
 そうしてミリュウの自死が成し遂げられた暁には、俺一人に『ティディアの呪い』が集中し、さらには『ミリュウの怨念』が肩に圧しかかるだろう。さすれば、例え時間はかかっても、『ニトロ・ポルカトを消し去りたい』……ミリュウ姫の認識する『ニトロ・ポルカト』は、彼女の念願の通りに“ミリュウの認識する世界”から退場することを余儀なくされるだろう。元より“自分の置かれている世界”から退場することを念願としている『俺』が、望まぬ形で退場することを強いられるだろう。
 ……ああ、何ということか。
 どうしても解らなかった彼女の本当の目的。
 ティディアと別れたいニトロ・ポルカトに協力しないと言いながら、ニトロ・ポルカトを姉から引き離すと言っていたミリュウ姫。あの矛盾極まりないと思っていた彼女の『思考』が、彼女の究極的な自己満足の中でここに矛盾なく成立した!
――<<トンデモナイ手段ダネ>>
 芍薬の声がニトロの鼓膜をか細く震わせる。ニトロの内心に戦闘服を通じて触れていた芍薬も、マスターと同じく戦慄していた。
 ニトロは芍薬に内心のうなずきを返しつつ、それでもまだ解せない大きな疑問と、新たな大きな疑問を胸に抱いていた。
 前者は、彼女の『お姉様のため』はどこにあるのかという疑問。元より存在しなかったのか? それとも、思わぬ形で入り込んでいるのだろうか。
 そして後者は……しかし“この事実”は……事実としたらだが、その半面に思わぬことを示している。やはり、ハラキリが正解だったのだろうか? 歪な姉妹喧嘩――ミリュウが、ティディアの呪いに対して少しでも“耐えられない”と思っていなければ、それをこちらに押しつけようなどという“反抗”は起こらないはずだ――ということ。
「……ミリュウ様は、きっと、『事故死』を装うのだと思います。あのチョーカーの爆発によって」
 やおらセイラが、嘆息と共に言う。
「ニトロ様が例え『試練』をクリアする条件を満たしたとしても、あの『聖痕』を消したとしても、それだけは必ず実行されるでしょう」
「爆発は、止められない?」
「はい。そしてその事故の原因はパトネト様の設計にミリュウ様が勝手に手を加えたこと――“調査”はそう締めくくられるはずです。あるいは貴方様との戦いで殺されるつもりなのかもしれません。その場合にも、おそらく、ミリュウ様の過失が認められることでしょう」
 ニトロは訝しんだ。
「何でそこまで……『事故死』にすると解るんです?」
「『自殺』ではティディア様の恥となってしまうからです。それはありえません。それを避けるために――」
 そこまで言って、そこまで言ったことでセイラは何か悟ったことがあったようだ。そして少し愕然とした様子で宙を見つめ、視線を泳がせるように目を伏せ、言う。
「……ミリュウ様は、もうこれ以上、王女であることに耐えられなかったのかもしれません」
 ニトロは思わず身を乗り出した。

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