ニトロは口を閉ざした。頭の中がぐらぐらと揺れている。これまで自分は――彼女はどういうつもりなのか、どんな動機のためにこんなことを仕出かしたのか――それを、全て彼女の将来に繋がる形で考えていた。彼女は、つまり、彼女の未来をどういう形にしたいがためにこんなことをしているのかと。
 例えばついさっきの『止めてほしい』という説もそうだ。
 考え続けてきた過去の説に遡ってみても、ティディアと俺が結婚する未来が嫌だから、あるいは女神が悪魔に侵食され弱ることを見過ごせないから、さらには小姑の嫉妬も、姉が大好きな妹の単なる嫌がらせも、『伝説のティディア・マニア』の反抗も……それらは全て、彼女が認めたくない未来を否定し、彼女の認める未来を構築するための手段として考えていた。それがどんなに危険で、どんなに卑劣で、どんなに醜い手段だとしても、その先には彼女が一定の『未来を求めている』前提があった。
 実際、ミリュウと直接対決した時にも、彼女は言った。
 ――『お前を絶対に認めない』『お前をお姉様から引き離す』『とても憎んでいる。いっそ殺してしまいたいんじゃない。どうしても消し去りたいくらいに』……それらを成し遂げるためには、彼女は生きていなければならないではないか。もちろん『認めたくない未来』から逃げる――というのなら自殺も一つの手段となろう。だが、それで姉からどうして俺を引き離せる? どうしても消し去りたいと言いながら、自分が消えてどうするのだ? あるいは自分が消えることで逆説的に彼女の意識の中から『ニトロ・ポルカト』を消し去れるとでも言うのだろうか。馬鹿な! それこそティディアなんか関係ない。それこそ全くもって究極的な自己満足に過ぎないではないか。
 だが、ニトロは、理性と理屈ではセイラの証言を飲み込めずとも、感情と直感では飲み込めるところもあった。
 瞼に浮かぶのは、あの王女の笑顔。
 死臭のする微笑み。
 あの死の臭いはこちらへの死を呼ぶものではなく、己へ死を呼び込むものであった――そう思えてならず、また彼女が瞳の奥に抱えていた恐怖! それが、覚悟している死への感情だと思えば、彼女の矛盾していたものの幾つかが歪ながらも正常な動きとして理解できる
 しかし……しかし! 一方で、あの恐怖は彼女の『彼女を死に追い立てるもの』への感情だと考えれば、彼女は絶対に生きたいはずだ、生きたいからこそ恐怖しているはずだ!……そうであるならば、やはり理解できない
 解らない、解るようで解らない――彼女は一体、
「何故?」
 もう何度繰り返したか解らない疑念が、ニトロの口を突く。
「解りません。私にも、解りません」
 セイラが応える。
 ニトロは失望した。セイラが……十年来の付き合いのある人間がわからないものが、一体どうして俺に解るものか?
「ですがミリュウ様は仰っていました。『これでわたしはあのニトロ・ポルカトに勝てる』と」
 それを聞き、ニトロは思わず嘲笑を浮かべた。それは自分でもミリュウを嘲っているのか、それともセイラを嘲っているのか、そうではなく無理解な自分こそを嘲っているのか解らない……言うなれば、諦観がこの件の全てを嘲り出したかのような笑みであった。
「俺に勝てる? 死ぬことで? ルッド・ヒューラン様、今からでも遅くないから主人にカウンセラーを紹介するといいよ」
 ため息混じりにニトロは言った。皮肉、誹謗、忠告――そのどのつもりで言ったのか自分でも解らない。だが、もはや妄言としか思えないことを言う理解不能な人間に付き合いたくない……そういう思いが彼を支配し始めていた。
 そして、その感情は彼の声を聞くセイラにも伝わった。彼女は最後の希望が遠く離れようとしていることに気づき、慌てて顔を上げ、驚いた。ニトロの顔は予想よりもずっと下にあった。どうして彼がそうしているのか、その意図がすぐに解る。彼は、こんなにも不誠実な私を相手に、誠実にも頭の高さを合わせようとしてくれていたのだ。対等の位置で話せるように。それを理解するや、セイラの胸は恥ずかしさで一杯になった。主人と同い年の、私より八年も後に生まれた少年の、ふいに目の前に現れたその誠実さが彼女の心を縮こまらせる。
(……そうなのですね)
 この体験は、セイラにミリュウへの共感を生んだ。そして生まれた共感が、少しだけ、彼女に主人の苦悩を知らせる。
 ニトロ・ポルカトについての資料はセイラも穴の開くほどに読み込んでいた。そして彼女は、『ニトロ・ポルカト』はミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナと“同類”だと思っていた。善人、努力家で、真面目。一般的に評価されるような特別秀でた才能はなく、おおよそ凡人と呼ばれる範囲に属し、されど研鑽によって自らを底上げし、あるいはティディアのような才人にも追いつこうとする優等生――尊敬できる人種であり、事実、尊敬する人間。
 だが、もし? と思う。もし、彼がミリュウ様とは全く相容れない存在だったなら。例えば、もし、初めからティディア様にも並ぶ才人であったなら。
 もしそうであったのならば、ミリュウ様はきっと苦しむことはなかっただろう。
 嫉妬、羨望――それにより“自分と同じ”人間を疎ましく思うこともなく、またそう思ってしまう己を嫌悪することもなく、彼女が本来善人であるが故に、己の悪感情の全てに苦しむこともなかっただろう。『勝てる』などと自分の優位を欲することもなく……ひょっとしたら彼を誇らしい義兄として慕っていたかもしれない。
「……もう……遅いのです」
 ニトロが座しているからには立つことはできず、立て膝のまま、ふとつぶやくようにセイラは言った。
 先までの懇願の気配が消え、どこか晴れ晴れとしたところさえあるセイラの声に、ニトロは怪訝に眉を寄せた。
「『もう間に合わない。とっくの昔に、もう、間に合わなくなっていた』――ミリュウ様は、そうも仰っていました」
「……とっくの昔に?」
「きっと、大きなきっかけがあるはずですが……しかし、それ以前に、貴方様が『ニトロ・ポルカト』であり、あの方が『ミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナ』であった――その時点でもう間に合わなくなっていたのかもしれません」
「つまり……初めから衝突不可避だったと?」
「あるいは」
 セイラは哀しくうなずく。一つ、長い吐息を挟み、
「ミリュウ様は、ニトロ様に対し、大変好意的でした」
「……ええ、聞きました。本人からも。本当に『祝福していた』って」
「ですが、いつしか変わってきていました。はっきりと私がそれを知ったのは、ドロシーズサークルの一件です。もう、あの件がミリュウ様の手によるものであったと、ご存知でしょうか?」
「知っています。ヴィタさんから聞きました」
 ヴィタ――その名が出た時、セイラの目に小さな“弱気”が見えた。劣等感……だろうか。
「どうかしましたか?」
「いえ……」
 セイラは目を伏せ、それから彼に対しては何もかも曝け出していこうと――そうしなければ彼の信頼は決して得られないと、思い直して顔を上げた。
「私が、ヴィタ様のようであれば、主人をお救いできたのでは――と」
 後悔と自責と、無念。セイラは涙ぐんでおらず、またその声も懇願の時とは違い震えてはいない。存外に力強さも感じ、それだけに、ニトロは彼女の思いの強さを知った気がした。
 この女執事は、十年来の付き合いのある主人に対し、きっと誰が思うよりもひどい責任を感じているのだろう。だが、その責任の果たし方が解らず、また解ったところで果たすことのできない力不足も理解し――希代の王女と息の合ったさとい右腕としての地位を確立しているヴィタへのコンプレックスがその証明だろう――どうしようもなくてここに来たのだ。
 セイラは一つ息をつく。嘆息ではないが、限りなく嘆きに近い吐息を。

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