ニトロはピピンが客以外の者を……ハラキリとマードールを連れてこなかったことにも驚いたが、それ以上に、連れてこられた顔色の悪い女性の姿を実際に目で確認した後も、彼女が本当にやってきたことが信じられなかった。
 セイラ・ルッド・ヒューラン。
 ミリュウ姫最大の側近――今は解雇された、元執事。
 ブランド『ラクティフローラ』のスーツを着た彼女は、どんな顔を向ければ良いのか判らないように、こちらに何度も目を向けながら、何度も目を向ける度に顔を苦渋と謝意で歪め、そして言葉を搾り出せずに立ちすくんでいた。
 その内に、ピピンが動いた。
 ニトロは、『一度帰ります』『話が終わったら迎えに呼んで下さい』とピピンが考えていることを理解する。それはまた思わぬ申し出だった。ニトロが戸惑っていると、ピピンは伝言を伝えてきた。
 理解させられるに、マードール曰く『折角のクライマックスだ。舞台裏は観劇の後に知る方が良い』――続けて曰く『お兄ちゃんの解説は、実に饒舌だったぞ』――最後に『どうあろうと君の思うがままに。お兄ちゃんも、そう言いたいようだ』
 ニトロは笑った。了解と感謝の意を脳裏に描くと、ピピンがうなずき、頭を垂れるや瞬く間に姿を消した。
 そして――
 ホテル・フィメックの最も奥まった小部屋には、ニトロと芍薬、二人に対峙するセイラが残された。
(――さて)
 ニトロは、眼前に頼りなく佇むセイラを見つめた。彼女も、弱々しく、しかし瞳には異様な力を備えて、意を決したようにこちらを見返してくる。
 彼女がハラキリを経由してきた理由は聞かずとも判る。確かにここに来るためには、『王女の執事』の知る限りでは彼が最適な仲介者だ。問題は……いくら“元”とはいえ、敵方の女性を仲介することに対し、あのハラキリが了解を返したことである。疑えば、彼女は、本当は“元”などではなく、今も王女の側近であるのかもしれない。それなのにハラキリがこうして送ってきたということは、それだけの価値があるという判断があったのだろう。それこそ『情報源』と言い切れるだけの確信とともに。
「……」
 ニトロは、黙していた。そうして、瞳だけには力がありながら、怯えているように頼りない姿のセイラが口を開くのを待っていた。正直、彼女の元主人について聞きたいことは山ほどある。だが、それをこちらから求めることはしない。彼女が自分に会いに来た――それだけで重要な事案だ。そこに彼女がどんな思惑を抱えてきたのか、まず、それを相手が開陳するまでこちらは動かない。
 ニトロは歓迎の意志も拒絶の意図も表さず、ひたすらそこにいた。
 一方、セイラは、ただそこに立っているだけの少年から強烈なプレッシャーを受けていた。
 ニトロ・ポルカト。背後に控えるオリジナルA.I.と共に、大切なあの人を追いつめた男。
 やがて彼女は、ニトロへ向けていた頼りない眼差しを伏せた。これから自分が行う事がどのような結末を生むか解らない。が、やらねばならない。それしかない。
 セイラは突如として膝を突き、両の掌を上向けニトロへ――敵意も隠す心もないと――差し出し、深々と頭を垂れた。そして声を出そうとして一度失敗し、そこであまりの緊張に喉を動かせないでいる自分を情けなく思うと同時に叱咤し、今度こそ声を絞り出す。
「この度の主人の狼藉、心よりお詫び申し上げます」
 アデムメデスにおいて最上級の……いや、最低級の礼と言うべきか。強い屈辱を伴う『屈服の伏礼』をする貴族の女性は、突然の、それも初めて受ける伏礼に動揺するニトロへ向けて、ようやく声に出せた思いを爆発させ、さらにほとんど金切り声で続けた。
「その上で、失礼ながら……浅ましく卑怯ながら――! ニトロ・ポルカト様にお聞き届け願いたい儀があり、こうして恥知らずにも御前に参上仕りました!」
 金切り声は涙に濡れている。またその声は恐怖に慄いてもいる。そこにはニトロに対する数々の無礼――また突如『屈服の伏礼』をする非礼への謝意も含まれているであろう。しかし何より、それでも頭を下げずにはいられないのであろう必死さに彼女は震えている。
「どうか! どうかお聞き届けを!」
 曲がりなりにも一国の王女の元執事が、恥も外聞もなく懇願している。
 ニトロは芍薬を一瞥した。芍薬は何の反応も見せない。全てをこちらへ一任している。
「……」
 ニトロは惑った。
 女性が――立派な大人がこうして頭を下げる姿に対する不快感を感じる。頭を下げればいいもんじゃない――そういう憤りも浮かぶ。とはいえ、彼女は自身の行為に対して既に『浅ましく卑怯』と告白している。それを理解しながらも彼女はそうしている。――『それでも頭を下げずにはいられないのであろう必死さ』――彼女の願いに、ニトロは関心を持った。
 そして関心を持つと同時に、彼の胸はさんざめいてもいた。
 悪い予感があった。
 彼女は第二王位継承者の懇願の真意を携えてきているという予感。聞けば必ず頭を抱えるだろうという悪い予感。
 されど第二王位継承者の懇願の真意を、今、聞かねばならない。そして聞かなければあの怪物の真意に遅れを取るだろう――悪い予感の裏ではそうも思えた。
 きっと、ハラキリも同じことを感じたのではないだろうか。
「……」
 ニトロは、その場に座った。セイラにそんな恥ずかしい真似をやめさせようという思いがあり、やめさせねばならないという価値観も動いているが、彼女は聞くまい。それならおおよそ同じ高さに頭を下ろし、
「聞き届けるかどうかは、話を聞いた後で決めます。それでも構いませんか?」
「はい」
 セイラは頭を下げたまま、返事をする。
 ニトロはうなずき、
「話を」
「はい」
 セイラは息を飲むように少しの間を空け、意を決したように叫んだ。
「どうか、どうかミリュウ様をお止めください。あの方は死を覚悟しているのです!」
 ニトロは困惑した。
「……彼女が命を懸けてきているのは知っています」
 困惑したまま、ニトロは問うた。するとセイラは激しく否定した。
「いいえ、いいえ、違うのですニトロ様! ミリュウ様は……命を懸けているのではありません! 命を捨てているのです! ただ、死ぬおつもりなのです!」
 ニトロは息を飲んだ。
 セイラの証言は、あらゆる意味で彼の予想を裏切るものであった。
「死ぬ、つもり?」
 思わずつぶやく。
「はい、そうです、その通りです!」
 セイラは激しく肯定する。

→7-2-cへ
←7-2-aへ

メニューへ