雨がニトロの頬を伝う。
 色々思い返せばちょっとだけ泣きたい気分にもなるが、既に天が泣いているのなら、涙はそちらに任せてニトロはただただ苦笑する。
「ドウスル? 、ッテ考エルノガ定石ダヨ」
「そうだね……ひとまず一晩、考えてみようか」
 それを聞いた周囲の人間がため息のような息を漏らし、まごつく。人づてに彼の発言が伝わっていき、どうにも落としどころのない感情が溢れていく。
 やがて煮え切らないざわめきが生まれ――中には即断を下さないニトロへの失望のため息もある――騒ぐ人々の中、ニトロはとにかく休息を得るために歩き出した。
 ニトロが進む先、人海が割れていく。
 周囲はまごついているし、ところどころでため息も漏れ続けているが、それでも即座に期待に応えない彼を責める明確な言葉はどこにもない。いや、責められないのだ。芍薬のあえて示した『罠』という考えが、ニトロ・ポルカトは臆病風に吹かれているのではなく『急転した事態にあっても思慮深さを失わない』という形を作り出し、またそれを強調しつつ補強している。敵の罠を見抜くのも王の資質として求められるものではあろう。さらに他所にいる者ならばいざ知らず、この場にいる者達は女神像の脅威を実際に目の当たりにしている。あの『兵器』の恐ろしさに外野とはいえ肌で触れた者が、彼の判断を(それでも即断即決の英雄的な態度を期待してしまうのだろうが)間違いだと言えるわけもない。考慮する時間はあるのだ。急ぐ必要はない。一晩――ミリュウ姫の定めた期限を鑑みればちょうどいい時間でもある。となれば、彼の態度を責めることこそ単に考えなしの愚か者であろう。……そして、この空気を生んだのも、芍薬がマスターのための猶予を得るために講じた一つの“政治”だった。
「……」
 ニトロは割れた人海の底を歩き続ける。
 周囲には、戸惑いも溢れていた。
 ニトロ・ポルカトの顔は、いつになく険しい。これまでになく険しい。
 その険しさが喚起するものは、無論ニトロの苦悩への理解ではなく、ミリュウ姫の言葉はやはり本気であるのかという不安であった
 皆、ニトロを信頼していた。皮肉なことに、それが事の重大さを皆に知らしめていたのである。
 皆も理解はしているのだ。王女の提案した最後の挑戦は、第一に『本当に彼女の命が懸かっている』ということを前提にしなければ成り立たないことを。
 その上で、それが本気だと思う者がいて、それはハッタリ・演出だという者がいた。
 それが今、彼女は本気だと、ニトロの表情によって誰もがそう思い知らされ始めていた。
 しかし反面、人の感情は確実であることにも疑惑を抱くものだ。あるいは、確実であればあるほど反射的に疑惑を抱く。ここでも自然とそれが起こっていた。ニトロを信頼するが故に、そしてまたミリュウ姫という優等生への信頼もあるがために疑惑が沸き起こり、そうして皆の心は乱れ出していた。そんな、まさか? それは本当なのか? そこまで姫君はやろうとしているのか? しかし何故? まさかそんな――だが、真実を確定する材料は姫君の言動と未来の王の反応しかない。いや、まさか……だがまさか
 当惑の渦巻く人海をニトロは芍薬を抱えて歩く。
(――)
 そして、内心で、ため息をつく。
 道を開ける皆々の中から聞こえてくる本当に様々な声。目の前で小学校高学年くらいの男の子が応援してくれていた。その親も拳を握って励ましてくれている。
(――なかなか、なかなか……)
 教団のローブを着た女性がそっと肩に触れて慰めのような笑顔を贈ってくれる。
 どこかから、姫君がどういうつもりでも彼に任せておけば大丈夫だという雑談が届いてくる。
「…………」
 ニトロは……彼ら彼女らの示す敵意のない心を、重く感じていた。
 そして重く感じるだけでは済まず、いつしか疎ましく思う心さえある自己を、彼ら彼女らに敵意がないからこそ嫌悪してもいた。
 周囲を支配する戸惑いの裏には常に『ニトロ・ポルカト』に対する“期待”がある。しかしこの状況を作り出した責任は自分にもある。自分には、この状況に至ることを避ける手立てがあった。『劣り姫の変』を徹底的に無視するという選択肢が。そうすれば失望こそ買えど、こんな大きな期待は勝ち得なかった。ドーブや他の誰かが暴走する『ティディア・マニア』と乱闘騒ぎを起こしたり、各地で教団派・次期王派の衝突が起きたりする可能性を黙認し、マードールの庇護の下に留まっていればきっと今も安穏としていられた。
 ミリュウの言ったことは正しい。
『烙印』という“枷”だって、その気になればどうとでもできたのだ。例えば毒が仕込まれていたならば仮死状態になって解毒・除毒を待てば良い。既にそのための薬を体内に打ち込んであるし、毒で破壊された部位の再生医療の手配もハラキリに頼んである。爆発物であれば体ごと凍結して除去に臨めばいい。これも既にハラキリに用意を依頼してあるし、凍結のための手段は芍薬が持っている。究極的にはティディアに責任を取れと迫り、『女神様』という絶対安全圏に逃げ込むことだってできただろう。だが、それを自分は選ばなかった。いや、選べなかった、と言えば格好もつくだろうか? ドーブや『親衛隊』――あの活力を取り戻した中年男性とその妻や、名も知らぬ誰かがこんな騒動で傷つくことを黙認する……そういう犠牲を厭わなければ……そんなこと、できるものか! そうだ、これもミリュウの言うことは正しいのだろう。だからこそ期待を寄せている皆々に対して悪感情を抱く自分が嫌で、だからこそ――だからこそ……だけど、自分のこの胸中を悪だと言える者はどこにいるだろう。今、このような自己嫌悪を抱いている自分こそ、正直に語れば優等生的な態度も極まるむしろ悪しき善徳というものではないか? 周囲の期待はいつでも勝手なものだ。しかしその期待が生まれることもいつでも自然なことだ。どちらにも罪はない。罪と言えるものではない。だが! そうやって理解してしまうからこそ、その理解こそが無邪気に己を苦しめてくる。
 ミリュウに思い出させられた『重圧』が、時を追うに連れて重みを増していた。
 雨の中、喉が渇く。
 雨の流れる先に暗い深淵が見え、生き地獄にびっしりと生え並ぶ失望と絶望が手招きをしている。
 ニトロは、歩く。
 雨は暑気をいずこかへ押し流し、夏であることが嘘のような涼気をもたらしている。もはや大雨だった。その中で、いつしか、まるで彼ら彼女らが自分達の戸惑いを振り払うように湧き上らせていた声援が、雨の落ちる音を凌駕していた。
 皆、王女に大いなる難問を課された少年を励まそうとしてくれている。
 しかし、その声は全てを地へ叩き込む巨大な滝の音に聞こえる。
 あまりに激しい音に耳鳴りがする中、ニトロは、ただ二つの声を欲していた。
 一つは、今は傍にない。
 が、
――<<晩御飯ハあたしガ作ルネ。コノ体ナラ何ダッテ作レルカラ、ドンナリクエストニモ応エルヨ>>
 今も傍にある心強く、また優しい声がニトロの心に響く。
 喉の渇きが、和らぐ。和らぎ消える。耳鳴りも治まり、周囲の轟音がちゃんと声援として聞こえてくる。
(クリームシチューがいいな。大きなジャガイモがごろりと入ったやつ)
――<<承諾>>
 ニトロは割れる人海の底を歩き続ける。
 周囲の感情の波に飲まれず、力強く。
 そして群集の真っ只中を、自分の目的地に向けて真っ直ぐ進んでいった。

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