<だが……わたしは知っているよ。ニトロ・ポルカト。確かにお前は優しい“だけ”ではない。もちろんそれを知っている。皆も知っている>
 誰も何も言えない中、『破滅神徒』は次第に熱を増して言う。
<勇敢なお前のことだ。人を思い遣れるお前のことだ。であればお前は、むしろ人の苦しみを進んで背負っていくのかもしれない。だが、かもしれない――では済まない時がお前にもやってくる。
 いや、もうやってきている。
 今だ
 ミリュウの顔がふいに脱力し、眉の険と三白眼が消え、下半分は不気味な笑みのままに上半分が“和やかな笑顔”に変わる。異様な陰影を刻む『聖痕』の青い紋様が飾り立て、それはまさに怪物の笑顔だった。
 ニトロは、未だこれほど恐ろしい顔を見たことはない――そう思った。
<戦いましょう。ニトロ・ポルカト>
 まるで人が変わったかのように柔らかに、ミリュウは言う。
<最後の試練。わたしと、剣を交えて戦いましょう>
 スライレンドの大広場が狼狽する。ミリュウの背後からも声が聞こえてくる。
 ニトロには動揺はなかった。話の流れからしてそれは自然であるし、それに、女神像を倒された今、教団側に残る“戦う価値のある戦力”は彼女の他にない。
 ミリュウの瞳には確認の意図が伺える。それはこれから言うことを、『敵』よ、よく聞けと呼びかける眼差しであった。
<お前の体には、毒がある>
 さらにスライレンドの大広場が騒ぎを増し、ミリュウの背後からも大声が聞こえてくる。
<わたしとお前は繋がっている。この『聖痕』と『烙印』が>
 愛しげにチョーカーに指を這わせながら、彼女はさらに得意気に言う。
<明日と明後日の狭間――それがタイムリミット。真夜中の鐘が鳴る時、わたしの『聖痕』は燃え上がる。神より賜った聖痕が女神の世に『刻』を告げる爆発を起こし、わたしはわたしの命を最小にして最強の眷族に与え、そうしてお前の体を朽ちらせる>
 その発言にニトロは、さすがに総毛立った。周囲も戸惑いながら凍りついている。きっと会見場も困惑の中で息を止めている。彼女の言葉はそれだけ重大な意味を孕んでいた。それなのに、彼女は、笑顔を浮かべ続けている。
<解除方法は三つ>
「『悪魔の血によって贖うか、聖痕の血で浄化するか、あるいは神の赦しを得ねばならない』」
 ニトロが小さくつぶやくのに合わせて、ミリュウも同じことを言った。
<――解ったでしょう?>
 つまり、ニトロが死ぬか、ミリュウを殺すか、それともティディアに泣きつくか。……ここにきて、最後の一つは意味があるまい。可能性はゼロではないにしても、当事者として、それが問題を根本から解決できるとはどうしても思えない。
<でも、わたしを殺せ、とまでは言わない>
 と、ミリュウがまた前言をひっくり返した。良いように弄ばれる人心が泣きたい気持ちを表すようにさんざめく。
<未来の王を、未来の夫を、人殺しにしてはお姉様にも申し訳が立たないもの。
 だから、わたしの血を手に入れてみせなさい。わたし達は血で贖い、血で清める。そう、『聖痕』を傷つけ、そうしてわたしの生き血でお前の穢れた口と腹をそそげば、わたしを殺さずとも『烙印』は消える。烙印が消えれば、烙印と繋がるわたしの聖痕も――消える>
 難度を下げたとはいえミリュウの要求はそれでも強烈なものであった。彼女を殺したくなければ、女性の体を、それも胸元から顔にかけての何処かを傷つけ、そしてその血を飲め……
「どういうプレイだ」
 思わず、ニトロが苦々しくつぶやく。間近にいた数人が、ニトロの心情察して余りあり、彼につられて渋面を作っていた。
<だけど、お前はもちろん気づいているな? お前が助かる道は一つではない。そうだ、わたしの挑戦を受けなければいい。烙印がどのようなものか判ったとなれば対処もできよう? いや、お前のことだ、きっともう手を講じているだろう。万全を期するならば協力を惜しまぬ味方も大勢いよう。助けを借りればお前に危険はない。そしてお前は助けを借りることのできる人間だろう。ならばやはりお前は、大事に至らず事を乗り切れる>
 ――大事に至らず? ニトロは歯噛んだ。
(嘘をつくな)
 その挑戦を受けないということは、すなわち『破滅神徒』を見殺しにするということではないか。もちろん聖痕が燃えるだの爆発するだのはハッタリかもしれない。しかし、ハッタリのはずがない。そっちはいつだって本気だ。解っている。そしてあなたはこちらがそれを理解していることを理解した上で言っているのだろう?
 ニトロが問いかけていることを判っているように、ミリュウは大きくうなずいた。
<お前が“わたしの挑戦から逃れる選択”を採ることを、わたしは卑怯だとは思わない>
 彼女は堂々と言う。
<わたしと戦うことは、それだけでリスクのあることだ。お前にとってわたしなど雑魚以外の何者でもなかろうが、それでもリスクはある。“失敗”した時のことまで考えれば――わたしが敗北から逃げることもありうるのだからな――より安全な手立てを確保することは、リスク管理として当然のことだ。
 為政者は時として、リスクを避けるために犠牲を強いることもある。
 だから、お前がリスクを避けることを、わたしは決して責めはしない。それどころか、お前はお前の身を守るために犠牲を看過することができるのだ、と、わたしに証立ててみせたのだと“かの世”から褒め称えよう>
――<<伊達ニ“政治”ヲ学ンデキタワケジャナイネ>>
 芍薬が素直にミリュウへ賛辞を送る。
 ニトロも同意見だった。
 彼女は……第二王位継承者は、相手が採れる道を説明し、それを支持しながらも『わたしを犠牲にしてお前は(それを理解しながら)保身に走るのだ』という意味をきつく刻み込んでいる。そしてその意味はこれまでニトロが“勇敢な姿”を示していただけに威力を増す。もし、こちらが『戦わず』の選択を取れば……彼女が今構築してみせた価値観を覆すのは容易ではない。『ニトロ・ポルカト』に対して勇敢なイメージを抱く観客達はその主役の“裏切り”に――さて、どういう反応を見せるだろうか?
 戦わなかった自分達の選択は、ミリュウが保証した以上、それを根拠として正当であると広く認められはするだろう。
 しかし、だからこそ、それをミリュウの刻み込んだ価値観で評価されるからこそ、認定の裏ではより“卑怯な人間”として定着してしまうだろう。
 周囲には、“ニトロが取り合わない”道をミリュウが認めたことで、彼女の『聖痕』のもたらす悲劇的な結末はハッタリ、もしくはそういう演出だろうという空気も流れて出している。一方、これまでの彼女の行為からそれも本気だろうと信じている様子もある。ハッタリだ演出だと考えている者達は、その安堵を彼女の血飛沫に塗り潰された後、凄まじい反動を見せるだろう。一方、彼女の本気を信じている者達はある程度の覚悟を持ってその時を迎えられるだろうが、それだけに“そんなことにも気づかない”次期王を責めるだろう。
 なるほど、さらにその上で『栄光の女神様』とどうにかして別れてみようか? その後、ニトロ・ポルカトという卑怯者が、穏やかにこのくにで暮らすことは決してできまい。
(いい手だね)
――<<実ニ“政治的”サ>>
 芍薬は苦々しい感嘆でミリュウを評価する。そして、
――<<ダケドオカシイコトニ、コレジャアマルデ主様ヲバカ姉ト別レサセタクナイミタイダ>>
(うん、それは、俺もおかしいと思う)
 こちらの疑惑の目の先で、ミリュウはどこか晴れやかな姿をしている。
 と、ニトロは、疑惑とは別の疑念をふいに抱いた。晴れやかな姿?
<ニトロ・ポルカト>
 こちらへ呼びかけるその姿は……そうだ、ニトロはようやくそのことに気づいた。彼の心に電撃にも似た衝撃が走る。彼女は、事ここに及んで――何故、そんなにも?――実に希望に満ちている
<優しいあなたは、きっとわたしと戦いたくなんかないでしょう。しかしその『安全』を放棄してでもわたしの挑戦を受けるというのなら、わたしは嬉しい>
 熱を帯びていた口調を急に和らげ、彼女は告げる。その口元には不気味極まりないあの死臭のする微笑があった。それも死臭が増している。ニトロの傍で誰かが息を飲む音が聞こえる。が、ニトロは、少女の死体が笑っているような恐ろしいその顔よりも、再びその微笑の下に現れた彼女の感情に目を奪われていた。
<嬉しくて、嬉しさの余り、お前を返り討ちにしたくてたまらなくなるでしょう>
 笑みを浮かべるミリュウの瞳は、笑みを浮かべる者が表す色を持っていない。ニトロは先の衝撃を上回る困惑を味わっていた。彼女の瞳はあの時と全く同じであったのだ。それは、そう、王城で見た彼女の瞳、『巨人』にも滲んでいた感情――そこにはまた、あの『恐怖』があった。体は実に希望に満ちているのに、それでも彼女は未だに強烈な恐怖を湛え続けているのだ。理解できない彼女の心情が、またしてもそこにある。
だから戦いましょう? ニトロ・ポルカト>
 彼女の恐怖は訴えている。それは彼女の戦いを恐れる内向きの心ではない。その恐怖は、あくまで攻撃的なまでに心をこちらに向けている。そうして彼女の意志を伝えようとしてくる。気づいて、と。受け入れて、と。そしてその意志とは……覚悟?――違う。ニトロは彼女の瞳の中で恐怖と混在する別の感情に気づいた。その感情の色はこれまでに何度も見たことがある。それどころか、それは現実に今も周囲にある。それこそは『期待』という。だが、彼女の訴えは『期待』というレベルでは追いつかない。これは、願望――いや、懇願だ。それもただの懇願ではない。気づいて! と、受け入れて! と、恐怖にせっつかれるように願いながら、どうしても「そうしろ!」と恫喝するように縋りついてくるこの上なく脅迫的な意志だ。
 ニトロは困惑するしかなかった。
(懇願?)
 敵が、敵に? 死臭と希望を漂わせながら、恐怖と脅迫に濁りながら!?
<もちろん、わたしはお前に敵わないでしょう>
 微笑で面を塗り固める怪物は、晴れやかな希望の下に激烈な情動を振りかざし、嬉々として言い続ける。
<だけど、わたしはお前を認めないから、抵抗します。お前を認めているからこそ、全力で剣を振るいます。
 戦いましょう、ニトロ・ポルカト。
 黄金時代を手の届くところに置いたこの栄光あるアデムメデスの王ともなるならば、戦って、わたしに打ち克ちお前の未来を勝ち取ってみせなさい。わたしは命は惜しくない。わたしは、お姉様のためにならないのなら、王に連なる一員としてお前を『粛清』する覚悟も決めている。
 ニトロ・ポルカト、わたしの優しいお義兄様?
 わたしは……『霊廟』で待っています>
 そしてミリュウは身を翻し、定例会見場から颯爽と去っていった。
 慌てて記者らが王女に事の真意をもっと深くただそうと追いかけるが、それも警備アンドロイドの壁によって妨げられる。
 大型宙映画面ヒュージ・エア・モニターの映像が切り替わった。

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