「バツゥ!?」
女神像の体がいきなり前倒しに倒れた。
見れば女神像の右足が甲まで地に埋まっている。勢い良く駆け込んでいた最中のこと、走力の反動か右足首のアキレス腱が完全に切れ、かつ骨が粉砕したかのように甲と脛が合わさる角度にまで曲がっている。
「お返しだよ」
代わって、そう言いながらニトロが勢いよく立ち上がった。戦闘服に新しく追加されていた機能、
彼の無事を確認した周囲から安堵の息が漏れた。と、それもすぐに女神像の顔が輝き出す様を見て喚声に変わる。あの熱線――今度は芍薬がいない。直撃を受けては――!
だが、ニトロは逃げる素振りすら見せない。それどころかあさっての方向へ顔を向け、余所見をしている。
観客達の警告を聞きながら、それを無視してニトロはその場に佇み続けていた。
もう、避ける必要はないのだ。
それより彼には芍薬から任されたことを成し遂げる方が重要だった。
焦ったように、女神像の顔の輝きが一気に最大値へ向かう。
ニトロは逃げないが、悲鳴はない。
誰もが固唾を呑みながら、ニトロ・ポルカトの意図を悟り、決着の時が来たことを知っていた。
――芍薬が、女神像の傍らにいた。
マスターが撥ねられた際、呑気にも諸肌を脱いでいたアンドロイドが、キモノから抜き出した両腕を奇怪な形に変形させ、女神像を見下ろしていた。
女神像が芍薬に顔を向け――芍薬がシステムを発動させる。
悲鳴が上がった。
破壊的な威力を伴う爆音、それともその場に滞る衝撃波の檻――空間そのものが破裂しているかのような無茶苦茶な震動。周囲にも届く空気の揺れと、何よりその破滅的な音は凄まじく、周囲の誰もが耳を抑えながら……女神像が、凄まじい強度を誇っていた女神像がもろくも崩壊していく様を見た。
過去、ハラキリが『赤と青の魔女』に対しても用いた、現代技術最高峰の制圧装置。
女神の伏す周囲だけ、雨粒が侵入できずに空中で蒸発している。
その出力を限界まで上げ、制圧ではなく、粉砕装置と変えた芍薬の一撃。
瞬く間に女神像の翼が折れ、羽毛は宙に舞う前に粉々に千切れ、滑らかな背中が見るも無残に割れていく。その中から様々な機器が露出しては瞬時に壊れ、潰れ――それでも!
周囲に声にならないどよめきがあった。
崩壊しながらも、女神像が立ち上がろうとしたのだ。
肘から先のない右腕を地に突き立て、しかし右上腕が折れて顔から倒れる。
その顔は未だ輝いているが狙いを定められずに輝きを保つだけ保ち、やがて顔にヒビが入り、刹那、溜め込んだエネルギーを留めることができなくなったのだろう女神像の頭部が爆発した。爆発したが、その爆発すら一定の空間に閉じ込められて叩き伏せられる。叩き伏せられたエネルギーが翻って女神の両肩を爆砕する。
肩が消えたことで支えをなくした両腕は、振動の嵐の中、激しく痙攣するように震えながら粉々になっていった。両足はひしゃげて使い物にならない。使い物にならなくなったところは脆く、すぐに塵芥と化していく。胴体は辛うじて形を残しているが、もう、ほとんど石くれの山だ。
やおら、芍薬が両腕をだらりと垂らした。
それと同時に爆音も止み……
広場に、雨音が戻ってきた。
そして、誰かがいち早くそれに気づき、驚愕の声を上げた。
女神像の砕かれた胴体の中にフットボール大の卵状のものがあった。卵は見るからに頑丈な殻で包まれていたが、それもさすがに割れ、内に収められた赤い肉塊を覗かせている。
その肉塊は一定のリズムで収縮と拡張を繰り返していた。
ドクン、ドクンと……それを見るうちに、プカマペ教団の動画ページに流れていた心音が皆の脳裏に蘇る。
ドクン、ドクンと――収縮と拡張を繰り返しながら……それは、血管だろうか? 赤い肉塊、その女神像の心臓が周囲に管を伸ばし始め、触手のように蠢く管は礫と化した女神像を再び元に戻そうとしているように――いや、戻そうとしている!
芍薬はそれを黙って見つめていた。
無理もない。アンドロイドの身一つでここまで戦い続け、様々な『術』を駆使し、バリアを展開し、最後には壮絶な武器を発動させたのだ。バッテリー不足であろうことは容易に知れる。
女神像は、流石に完全に元通りとまではいかないだろう。心臓は石だけを集めている。これまでのような攻撃もできまい。が、石の拳を振るうくらいはできる程度には戻れるのかもしれない。果たして、石の拳は、アンドロイドを壊せるくらいの力を持つのであろうか。――おそらく持っているであろう。
その時、歌声が音を増した。
大広場に最後まで残った唯一の信徒が、もはや燃えカスのようになりながら青白い炎の中で声を張り上げていた。
何という執念――
何という……怨念じみた鬼気。
戦慄と衝撃に、誰もが息を詰め、言葉を失う。
美しい歌声は美しいが故に恐ろしく、最後に残った信徒を応援する他所の信徒の合唱は力強いが故に怖ろしい。
「そこまでいくと、どうにもそっちの方が『悪魔』みたいだ」
と、雨音と信徒の合唱を裂いて、ニトロの苦笑混じりの声がスピーカーを通して広場に響いた。
彼は芍薬の隣に立ち、心臓と血管をむき出しにした石像、といった風体を表し出した『それ』を見ながら、
「さっさとあっちに戻って信徒を労ってやりなよ」
芍薬を“お姫様抱っこ”に抱え上げ、震えながら立ち上がろうとする新たな像へ背を向ける。
「おやすみ」
ニトロは足を踏み出した。
像がニトロへ顔らしき塊を向ける。
ニトロは進む、一歩、二歩目――そして、三歩目を踏み込んだ時、空から
芍薬が“とっておき”を使うと決めた時、彼が託されたのは上空に停車させておいたスカイカーの遠隔操作だった。基本的な操作は車のプログラムに任せ、戦闘服を通じて、目線を元に落下地点を正確に伝える。簡単ではあるが重要な仕事。常に修正を与えて、念のためのトドメは、確実に。
――狙いは正確だった。
上空300mから一直線に落ちてきた合金と機械の塊は、あ、と言う間もなく像を潰した。凄まじい激突音に一度悲鳴が上がり、それから、再び沈黙。
信徒の歌声は、消えていた。
静けさの中の雨音が人の心を叩き、やがて……歓声が爆発する。
これまでにない強敵を、苛烈なミリュウ姫の試練を、まさにまさに真実命懸けで克服したニトロ・ポルカトと戦乙女へ猛烈な喝采が送られていた。
と、ニトロに抱えられた芍薬が(主電源に再度切り替えれば平常に戻れるが、それは用心のためにまだ行わない)緩慢に腕を動かした。その手には小さな銃があり、銃口はマスターの背後に向けられている。
勘の良い者は耳を塞いだ。
熱線が放たれ、ひしゃげ潰れた車から漏れ出していた燃料を発火させる。
爆発が起こり、これまでの神徒・信徒達とは違い燃えて消えることなくそこにあった女神像の屍を、赤い炎と黒煙が包み込む。
雨に
地を揺らす歓声に包まれて、覆面機能を解除しながらニトロは思う。
(さて――)
Webサイトにあった隠し玉、女神像は秘匿されてきただけの価値を示した。客観的に見ても、『ショー』の役者として見ても、ここが『組織戦』のピークだ。もし、これ以上『教団VSニトロ・ポルカト』の構図を続けるというならばそのシナリオは飽きを呼ぶ。劣勢に加えて隠し玉まで潰された『教団』は今や完全に死に体である。教団を率いる者には決断が迫られている。
潮目だった。
ここで大きな手を打たねば、ミリュウは、『妹姫の試練』の主催者としてだけでなく、エンターテイナーとしての『クレイジー・プリンセス』の薫陶を受ける者としても敗北を晒すことになるだろう。
(どう出てくるかな)
ニトロは火勢を背に思う。
願わくは、彼女には、ここで嘘偽りない本音を伴う手を打ってきてほしい。
そうでなければ徹底的に潰しにかかった甲斐もない。
何も卑怯な“闇討ち”を仕掛けてきたことへの怒りだけでここまで彼女を『潰そう』としてきたわけではないのだ。
何故なら、追いつめられた者は、逃避するにしても、反撃に出るにしても、その時に最も強い感情を働かさねば何も実行できない。その時に最も強い感情――生への渇望だろうが、恐怖の発露だろうが、経験談で語れば自分がティディアにしていたように怒りと拒絶の爆発だろうが――何でもいい! 姉の『愛』を愚弄する男に憤激を見舞ったように、憎い男を殺すための本物の
……そう、全ては問題解決のため。
全ては、突然何も語らずに襲いかかってきた敵が、今後二度と襲いかかってこないようにその原因を根本からなくすため。
「――」
ニトロは
そこには定例会見の演壇に立つ『信徒』がいた。
<先月懸案として浮上した――>
彼女はぼそぼそと覇気なくつぶやいている。
それはまさに敗残の将の様子であった。
ニトロは彼女を、じっと見つめた。
気の無い主催者を見る限りでは『ショー』も終わりとなりそうに感じる。
自然、周囲に『ショー』の終わりを予感する言葉が漏れ出す。観客の一人が勝者となるであろうニトロに近寄りながら気の早い賞賛をかける。が、彼が緊張を少しも解いていないことに気づき、気後れして去っていく。
<一部報道では決裂との憶測もありましたが、セスカニアン王国との協議の結果、本日、共に解決に向け協力し合うことで意見の一致を得ました>
ニトロはじっと、ぼそぼそと報告を続ける彼女を見つめ続けていた。
雨が強くなり出している。
その中でニトロの沈黙が周囲にも伝播していき、やがて、スライレンド王立公園大広場は、固唾を呑んで定例会見の様子を注視していった。