幼い王子は事の急転についてきているようではあるが、大きな反応は示していない。
「一体、どのようなことを!?」
「チョーカーと、ニトロ……ポルカトの『烙印』は、連動しているの」
「それで!?」
セイラのいつにない勢いに身を引きながら、それでもパトネトは懸命に答える。
「『破滅神徒』の命を、烙印を通して悪魔に注ぐ。――つまりね、二人分の命は一つの肉体には収まらない」
「ええ、それで?」
「だから、肉体が堪えられずに崩壊する。そういう『毒』が仕込まれている、そういう設定」
セイラは眩暈を覚えていた。
止まりそうになっていた心臓が、一転、血管を破りそうなほどに早鐘を打つ。蒼白となった顔に色は戻っていないのに、コメカミが熱くなる。
「……ミリュウ様」
セイラは、振り返った。
そして、鏡に映る、皮膚と一体化しているように見えるほど薄いチョーカーを撫でる主人の微笑を見て、震える。
彼女は、ようやく知った。ようやく知ることができた。
主人の……大切なミリュウ様のその微笑みの正体。
それは死臭のする笑みであった。
そしてその笑みは、ニトロ・ポルカトへ死を告げる臭いを放っているのではない。
彼女はようやく解った。
主人の本当の望みが、究極的にはどのような形を求めていたのかを。
「ミリュウ様!」
セイラは手を伸ばした。
「取っちゃだめ」
主人の首に巻きつく青いチョーカーに執事の指が触れる寸前、パトネトがいつになく厳しい声で――いいや、セイラが初めて聞く鋭い声で彼女を止めた。
「……お姉ちゃん。僕の設計を流用したんでしょ?」
何か思い当たることがあるのだろう弟の問いに、ミリュウはいつまでも答えない。が、その沈黙は肯定を意味していた。
「……なら、それを外せるのは、一人しかいないよ」
セイラは見た。チョーカーには留め具らしい部品が見えず、かつ生地と肌の接する箇所が癒着するように隙間を持っていないことを。これは……『皮膚と一体化しているように見える』――ではない、本当に一体化しているのだ。そして、直後、その姿がぶれ、ぶれた景色に周囲の光が吸い込まれるように見えた後、王子の生み出したチョーカーは、王子の意図にないものを抱えて姿を隠してしまった。
セイラは、しばし呼吸をするのを忘れていた。
脂汗が額に滲み、あまりの恐怖に膝が震える。
「……なりません」
辛うじて、やっと、怒気を込めて彼女は言うことができた。
だが、側近の叱責を受けてもミリュウは満足そうに鏡に映る自身を見つめている。
セイラは何の反応も返さぬ主人の肩を背後から掴み、叫んだ。
「なりません、ミリュウ様!」
それでもミリュウは応えない。
セイラはミリュウを揺さぶり、怒りでもなんでもいい、なんでもいいから自分に――ニトロ・ポルカトではなく自分に感情を向けさせようとした。
「お答えください、ミリュウ様!」
だが、ミリュウは応えてくれない。
セイラの双眸から大粒の涙が溢れ出す。
「何故ですか! 何故、そのようなことを!」
セイラの爪がミリュウの肌に食い込む。鏡に映る王女は、痛みすら感じなくなったように暗い目をしている。暗いのに、とても安らかな希望に満ちた瞳をしている。
「何故、あなたが死なねばならないのですか!」
とうとう、セイラは決定的な言葉を投げかけた。
「……お姉様のためよ」
ミリュウが、やっと口を開いた。
「お姉様は、わたしの命を以てお目をお醒ましになるの」
「いいえ!」
しかし、セイラは即座に否定した。
「違います! それはティディア様のためではありません。お目をお醒ましになる? そうかもしれません。ですが、ミリュウ様、それは、そんなことより全てはあなたのためでしょう!?」
セイラは、解っていたのだ。それくらいのことは。解っていながら、
「あなたは『自分のため』――ご自分の苦しみを消し去るために……!」
それを解っていながら、主人の苦しみを和らげる手立てすら考えつけずにここまで来てしまった。ニトロ・ポルカトへ理不尽な攻撃がされることを黙認し、それどころか――そう、それどころか心の奥底では、あのニトロ・ポルカトが主人の苦しみを壊してくれることに淡く期待を寄せて……そうしてここまで来させてしまった! 主人のことを言えた義理ではない。自分勝手で、あまりに愚かな己への怒りがセイラの胸を焼く。
「そのために死を選ぶなど、そのために彼を利用してまで死のうとするなど、それは卑劣にして恥知らずな卑怯者の行うことです!」
今更――と、自分をも責めながらのセイラの声は怒りの涙に震え、しかし怒りよりも強いミリュウを思い留まらせたい一心が言葉を搾り出す。
「ミリュウ様、おやめ下さい。そんなことはなりません、今ならまだ「いいえ」
ミリュウの静かな声が、セイラを抑え込んだ。
彼女の声はとても強く、そして恐ろしく冷たく、なのに、異様に熱い。
「もう間に合わない。とっくの昔に、もう、間に合わなくなっていたの」
ミリュウは微笑んでいた。不気味に、少女の死体が突然幸せそうに笑顔を浮かべたかのように、笑っていた。
「それにね、これでわたしはあのニトロ・ポルカトに勝てるのよ?」
その一方で、セイラには、主の声が泣き笑いに震えているように聞こえてならなかった。
「……何故ですか。何故、何が、あなたをそこまで思いつめさせるのです。ニトロ・ポルカトですか? とっくの昔に?……彼が何を、彼が、一体あなたにとって何だというのですか」
ミリュウは答えない。ただ、微笑む。
セイラは、ミリュウを背後から抱きしめた。七つの頃からお世話をしてきた優しくて努力家の王女。誰が貶めようと誰よりも誇らしい主人。誰よりも大切な、
「お願いです、ミリュウ様。ならば、どうか私を頼ってください。一言命じるだけでいいのです。そうすれば、あの人の好い彼のことです。私の手からは逃れられないでしょう。それであなたは勝てるのです」
自分が何を言っているのか、セイラは理解していた。どれほど浅ましいことを提案しているのか、はっきりと理解していた。
執事の本気は、王女に伝わる。
しかし応えはない。沈黙があり、周りからは、女神像がニトロ・ポルカトと戦う音が聞こえてくる。ニトロ・ポルカトの活躍に沸く歓声が聞こえてくる。
やおら、ミリュウは、そっとセイラの頭に手を触れた。
「あなたは……わたしの傍にいて。それだけでいいの」
セイラは弾かれたように顔を上げた。
鏡越しに主と向き合い、見つめ合う。
何秒、何十秒、瞳で語り合っただろうか……やがてセイラは絶望したように目を伏せ、その後、一歩退くと深々と頭を垂れた。
「…………ねえ、パティ」
セイラは部屋を出て行った。ドアの閉まる音が頭の中で反響している。もう何を捨ててもいいと覚悟していたのに、その覚悟の追いつかないほどに痛烈な喪失感を味わいながら、ミリュウは鏡越しにじっとそこに佇んでいる弟へ声をかけた。
「あなたも、いいのよ?」
パトネトは首を振る。首を振って、椅子に座り直し、モバイルを相手に何かを始める。
弟の可愛い指がキーを打つ音が、異常なまでに静かな部屋に響き渡る。
ミリュウはそれ以上――恐ろしくて――弟の姿を見ていることができず、目を鏡の中の自分に戻した。チョーカーはその機能を発揮し、この目で見ることはできない。が、触れると確かにそこにある。チョーカーに触れた指先から不思議と安心感が伝わってきて、空しくも、心安らぐ。
「……」
エア・モニターは未だ戦闘を伝えている。
「…………」
弟が一から十まで作った――信徒とは違いわたしの息のかかっていない女神像は、これまでで最もニトロ・ポルカトとその戦乙女を苦しめている。
……弟は、大きい。
あんなに小さな体をしているのにとてつもなく大きくて、すぐにでもわたしを潰してしまいそうだ。
「ッ――」
ミリュウは唇を噛んだ。血が滲んだ。だが、痛みは足りない。こんなわたしにずっと協力してくれて、今でも残ってくれている大好きな弟をそんな風に考えてしまう自分が憎くて、
「――ありがとう」
やっとのことで搾り出された姉の声を、パトネトは静かに受け止めうなずいていた。
しかし、弟の決意に満ちたその横顔を、きつく瞼を閉じたミリュウが見ることはなかった。