ケルゲ公園駅前で繰り広げられた再戦を、セイラはミリュウと共に見つめていた。
第一王位継承者の部屋で、主人と二人きり。弟王子は『準備』のためフレアと共に『天啓の間』に篭っている。
ケルゲ公園駅前で繰り広げられた教団と彼との二度目の戦いは、認めざるを得ない、『ニトロ・ポルカト』の独壇場であった。戦乙女に祝福された彼は、神と女神に祝福された者達を圧倒し、その圧倒的な存在感と共にこの『ショー』の主役である――そう宣言するに相応しい説得力を誇示してみせた。こうなってはもう、信徒は……ミリュウ様は、口惜しくも彼の引き立て役に他ならない。
平凡で、普通の少年であったはずの『ニトロ・ポルカト』。
彼は、もはや第二王位継承者にも勝る巨人であった。
今、メディアのどこを見ても、当然この話題が中心である。
そして話題の芯は彼である。
これからも彼が中心であり続けるであろう。
昨日までアデムメデスに語られていた第二王位継承者の雄姿は忘れ去られ、次代の王の雄姿が『希望』と共に語られることだろう。
「ミリュウ様」
セイラは、己の前で、こちらに背を向けて座っている主人に声をかけた。
ミリュウは振り返らない。
「ミリュウ様……」
セイラの呼びかけに、やはり彼女は応えない。
セイラはずっと考え続けていた。
――主人とニトロ・ポルカトとの話し合いは、一体何を主人にもたらしたのか!
夕食のために用意した席でミリュウから連絡を受け、その画面越しに主人の心乱された風体を見た時、一瞬、セイラは男女の間にある最悪の行為を考えずにはいられなかった。が、すぐに思い直した。主人は眼を真っ赤に充血させ顔に涙の汚れを残してはいるが、着衣に乱れはなく、それに、そもそもあのニトロ・ポルカトがどんなに怒りに任せようと報復として強姦に走るということは考えられない。いや、人の情動に関わることだ。それに因する行動の基準を、考えられない――という根拠に頼るのは危ういことであろう。しかしだとしても、彼は決してそういうことをする人間ではない……と、セイラは確信し、また信頼していた。
では、一体何故? 何故、ミリュウ様はこのようになってしまったのだろうか。
部屋に駆けつけた時に見た王女の顔色は、憑き物が落ちたと言うか、どこか生命力が殺がれたとでもいうような……濁った瞳の色と合わせて、不吉な方向への気配しか感じられぬものであった。いっそ、変わり果てた姿――そう言っても良いのかもしれない。
「ミリュウ様」
主人は、私の淹れたルッドランティーを飲んでいる。味わう様子もなく、されどそれを飲まねばならないと妄執にも似た決意を漂わせて機械的に飲み続けている。
図らずも、セイラの瞼の裏にロディアーナ宮殿の地下で見た主人の形相が浮かぶ。ああ、それは今や懐かしい。今は、あの時に恐ろしいと感じたものよりも恐ろしい形相が、主人の後ろ姿から伝わってくる。
セイラは堪らず言った。
「私に、できることはないのでしょうか。どんなことでもご命令下さい。私は、ミリュウ様のためならば命だって惜しくありません」
ミリュウは応えない。
セイラの声が震えた。
「どうか」
ミリュウは、やがて、肩を小さく揺らした。どうやら笑っているらしい。だが、声はない。
「馬鹿ね」
ついに返ってきた応えは、セイラを安堵させた。
その声にはいくらかの温かみがあり、ルッドランティーを頼まれた時に聞いた声――耳を疑った生気の無さは、そこにはない。
「前にも言ったでしょう? あなたはわたしの傍にいて。ただ傍にいて、わたしを支えて」
しかし、続けられた答えはセイラから望みを奪い去った。
微かに振り向けられたミリュウの視線は、有無を言わせぬ強制力でセイラを縛ろうとしている。
セイラには信じがたいことだった。主人からこんな圧迫を受けるのは、これまでにないことだった。
だが、これは現実である。
勘違いでも何でもなく、主人は人が変わってしまった。以前――たった数刻前にも増して、変わり果てられてしまった。
「本当に――」
セイラは失望を振り払い、食い下がった。
「それだけでよろしいのでしょうか」
セイラの瞼の裏に、つい先ほど、王女と同じ顔を持つ信徒の首がニトロ・ポルカトの手により刎ね飛ばされた時――その時に掠め見た主人の横顔が蘇る。見間違いだと思ったが、やはり見間違いではなかった表情が。殺される『自分』を目にした少女の頬に、薄く淡く浮かべられた笑顔が。
セイラは焦燥を胸に言う。
「私は、命じられれば……」
「ニトロ・ポルカトを殺す?」
ミリュウのあまりに嘲るような、それともあまりに無感動なのか、感情の掴み所のない声がセイラに突き刺さる。
セイラは唇を噛み、そして、
「ええ、殺してご覧にいれましょう」
執事の決意に満ちる声色に、ミリュウが振り返る。
セイラへ面と向けられた少女の顔には、驚くことに、セイラの大好きなミリュウ姫の和やかな笑顔が蘇っていた。
「馬鹿ね」
再びミリュウはそう言った。その声は仄かに明るい。
「でも、本当に、いいの。あなただけはわたしの傍にいて。ね?」
それは命令というよりも、どこか懇願のようにも聞こえた。
セイラは諦めた。いや、受け入れた。失望はもうない。主人はきっと心からそう望んでいるのだ。ならば、それに応えよう。
「かしこまりました」
セイラが頭を垂れる。
ミリュウは満足そうに(あるいは安堵したように)うなずくと、再び
「……」
……セイラは、知っていた。
ミリュウは報道をチェックしてはいるが、その背中には“これまで”にはあったはずの必死さや命懸けの真剣みが存在しない。主人は、どういうわけか、どうやら状況の推移などどうでもいいと思っている。それなのに目を吸い込まれるようにして、そのどうでもいい光景を見続けている。
<――……ここケルゲ公園にも多くの人が集まり――>
<ポルカトさんは特殊な護身術を学んでいるとのことでしたが、それこそが『クノゥイチニンポー』というものなのかもしれません>
<―ルカト氏は報道陣やファンの追跡を受ける最中、忽然と姿を消し、以降動向を見せていません。一方、この件について、ミリュウひ>
チャンネルが変わる――普段流行などどこ吹く風と硬派を貫く王立テレビ局でさえ、この大騒ぎを気色ばんで報道している。さらにチャンネルは変わり、変わり続ける、が、内容は変わらない。
――今、メディアの何を見ても、当然この話題が中心である。そして話題の芯は彼である。これからも彼が中心であり続けるであろう。昨日までアデムメデスに語られていた第二王位継承者の雄姿は忘れ去られ、次代の王の雄姿が『希望』と共に語られることだろう。――そんな予感が再びセイラの胸によぎる。
そして彼女の予感は、正しかった。