ニトロは芍薬と合わせ、後方に跳んだ。直前まで二人がいた場所へ信徒らの巨大な拳が振り下ろされ、獲物を捕らえられなかった剛拳は何とタイルで補強された地をやすやす砕く! 爆発にも似た破壊音。もし避けなければニトロの頭は卵のように潰されていたことだろう――その様が容易に想像でき、観客らの肝が一気に冷える。
「「チッ!」」
 地に拳をめり込ませたクロアとアロクは片腕で逆立ちしたまま舌打ちし、何の変化もない細身のままの手で互いを繋ぐと、
「「ハイ!」
 まさに合体!
「「ハイソイエイヤーーーイ!!」」
 肥大した右腕を右足に、左腕を左足と代え、クロアとアロクがニトロと芍薬を追う。曲技といえば曲技。されど奇怪な光景に今度は度肝を抜かれた観客がおかしな声を上げる。
 突撃してきたクロアとアロクを、ニトロは左に、芍薬は右に跳んでかわした。――と、
「「ヲーーーーーイ!?」」
 不意に、クロアとアロクがつんのめる。
 ニトロの手には芍薬の袖口から伸びる細いワイヤーがあった。
 クロアとアロクはそのまま顔面から地に突っ込み、ギャッと悲鳴を上げる。
 そこにニトロと芍薬が接近していた。ニトロは片手でクロアの足を、芍薬も片手でアロクの足を掴み、
「フッ!」
 ニトロが鋭い息を吐くのを合図にし、二人同時に信徒を引っこ抜くように振り上げ……力任せにそのまま地面に叩きつける!
 観客らはこれにも度肝を抜かれた。
 ニトロが芍薬アンドロイドと同じように――いや、まさに全く同じく片手で信徒アンドロイド(それも腕を異常に肥大させた)一体を振り回して見せたのだ。その腕力はおよそ人間のものではない。少なくともニトロ・ポルカトの体型からはありえない。すぐに戦闘服に細工があるのだろうと勘の良い者が察したとしても、その驚愕の一瞬は『観客と役者の差』を改めて明らかにする。
 そして、
「―ッ!」
 複数の声がニトロに危険を知らせるよりも早く、彼は身を縮めていた。そこに芍薬が身を詰め、盾として立ちはだかり、マスターに襲いかからんとしていた逆巻く炎を袖の中から取り出した扇――大風を起こす神技の民ドワーフ謹製――を振るって吹き散らす。
「イッ-」
 息をつく間もなく、一つ所に固まったニトロと芍薬へ向けて攻撃があった。今にも蹴りを放たんと持ち上げられたクロアの右足が、腕と同じく肥大する!
「-エィア!」
 巨大な右足はおよそ丸太であった。いかにアンドロイドといえど打ちつけられればひとたまりもあるまい。人間ならばなおのことだ。なのに、ニトロは避けるどころか向かっていた。それは刹那! 蹴りの威力が最大となる点に達する寸前!――悲鳴が上がる――しかしそれは観客がニトロの悲惨な結末を見てのものではない。悲鳴は、強い踏み込みと共に突き出されたニトロの肘が――芍薬の修正を受け、さらに戦闘服の硬化機能が働き――的確にクロアの脛を迎撃し、骨をへし折り、そのために沸き起こったものであった。
「ギャアア!」
 クロアがのた打ち回る。聞く者の脛が痛み出す絶叫が響き渡る。
 だが、それも長くは続かない。
 ニトロの振るった毀刃きじんのナイフが、クロアの――ミリュウの――観衆から何重もの甲声かんごえが上がる――傷だらけの少女の顔をした信徒の首を躊躇なくやすやすと刎ね飛ばしたのだ。
 一方では彼に、おそらくはクロアを犠牲おとりにして背後から襲いかかったアロクが、そうはいかないと割り込んできた芍薬の拳に顔面を潰され、返す動作で振り抜かれた“高熱の手刀”により胴を真っ二つにされて地に転がっていた。
――<<確カニ色々ト無駄ガナイネ。妙ナ“ノリ”トイイ、コッチノ方ガティディアニ近イヨ>>
『巨人』の時とは違い……と、過去に得られた情報から作った予測パターンに修正を加えつつ、芍薬はニトロへ言う。それと共に、ニトロには敵の機能停止の合図が送られていた。相手はアンドロイドだ、これで死ぬこともあるまいと倒れた敵への注意こころを残していた彼は少しばかり拍子抜けしたが、まあ、相手が信徒をある程度人間らしく演出するつもりであるならこのダメージでの『死』は妥当だろう。
 ニトロは脳内信号シグナル転送装置を介して芍薬へ同意を返し、それから、口から炎を吹き出した後、その場で佇んだままの信徒に向き直った。
 そこで彼は気づいた。
 どうやらその信徒は彼の気づかぬところで芍薬に攻撃されていたらしい。信徒の手には一本の刃物――クナイと言ったか――が握られている。クナイの柄からは千切られた鋼線が垂れていた。それを見れば、ただ避けるだけでは芍薬の攻撃から逃れられなかったことが容易に判る。
 その場に足止めされ、その一瞬の足止めの結果、目の前で仲間を失った信徒の手からクナイがこぼれ落ちた。
 クナイは石畳の上で一度甲高い音を立てカラカラと寂しい響きを残して横たわる。
 残響の後には、静寂があった。
 皆、息を飲んでいた。
 凄惨。
 そうとも言える光景が、再びこのケルゲ公園駅前に蘇っていた。
 殉教した信徒の体が青白い炎に包まれ、あの『巨人』と『信徒ルリル』と同じように静かに燃えて消えて逝く。アンドロイドと解っていても切断面のあまりのリアルさに、本当は――本当に人間が消えているのでは、と思えてしまう。
「……言っただろう? 手加減はしないって」
 頬に浴びた返り血をそのままにして、ニトロが残った信徒へ、ごく静かに、ごく穏やかに言う。
 しかしその言葉は、信徒ではなく、聴衆の心に鋭く突き刺さった。
 そこにいる少年は、本当にさっきまで巻き添えを気にして『ショー』への注意事項を語っていた少年と同じ人物だろうか。……そう疑わずにはいられない落差が、『ニトロ・ポルカト』へ底の知れない威を与える。
 その反面で、疑いようのない事実が一つ、以前からあった『ニトロ・ポルカト』へのイメージを鮮やかに彩色し、過去にも増してはっきりと観衆の目に見せつける。
 もはやそこにいるのは、温和で、平和主義者で、真面目なツッコミ役ではない。武勇として語られる狂戦士。あるいは異常能力者ミュータントとやりあったスライレンドの救世主――ティディアの恋人のもう一面――クレイジー・プリンセスをも恐れさせる『怖いニトロ』がまさに今、ここに顕現していた。
 民衆の心に細波が立つ。
 青白い炎に下から照らされるニトロ・ポルカトとその戦乙女。勇ましい黒衣と異国の艶やかな紅衣が妖しく色を放ち、やがて観衆の心の波が昂ぶり、その口々から音が溢れ出す。
 もう何度目かの大歓声がケルゲ公園駅前に轟いた。
 だが、それは今までのものとは毛色が違う。それは“役者”に向けられるものではなく“戦士”に向けられるものであった。今やこの場は劇場ではなく、闘技場へと変化していた。
「クロアよ、アロクよ、安らかにあれ。汝らに祝福のあらんことを」
 腹の前で手を組み涙を流す信徒の小さな声は歓声にかき消され、きっとこの場でそれを聞いたのは芍薬の中継を受けるニトロだけであっただろう。
 戦いの気にあてられ昂揚する人々の中、ニトロは問うた。
「一応、名前を聞いておくよ」
「貴様に問われて名乗る名はない」
 教科書通りの台詞回しに少々の工夫。ニトロは苦笑する。
「そうか。俺は悪魔だったな」
「そうだ。悪魔よ。汚らわしきケダモノよ。プカマペ様のご加護、女神ティディア様の奇跡を以て……クロアとアロクの仇! 見事討ってみせよう!」
 名乗らずの信徒が掌を上向け、そこに息を吹く。すると息は炎となって空を走り、どういう仕掛けか途中で三叉に分かれると、分かれた先で三頭の戯画化された炎の獅子となった。炎の獅子らは、ニトロに襲いかかろうと猛烈な勢いで地を駆ける。
 ニトロは大きく後退した。
 入れ代わって芍薬が獅子の前に立つ。手には扇を携え、それで一頭を吹き飛ばす。もう一頭の牙が芍薬をかすめ、纏う衣に耐火性がなければ燃えていたであろうことを芍薬はデータで知り、
――<<獅子ハ立体映像ホログラム、中ニ電熱ガ混ジル>>
 ニトロは戦闘服の機能を作動させた。襟の生地がアメーバのように伸び、彼の頭部を包んで覆面となる。
 二頭の獅子が芍薬を止める間に、壁を突破してきた最後の一頭が牙を向いて駆けてくる。その双眸に怒りを携え、その形相に……悲しみを携え?
――<<“核”ヲ>>
 ニトロの覆面の目出し部を覆う透明な防護膜に芍薬から送られてきたデータが反映され、獅子の体内、光学迷彩で姿を隠したクワガタようマシンが表示された。電熱はそれを司令塔にして飛ぶ、さらに小型の機械によるものだという。
 ナイフよりも手足の方が捕らえやすいだろうと判断したニトロは、脳内信号シグナルでプログラムを走らせた。戦闘服の自動制御に任せて素早くナイフを後ろ腰の鞘に収めて身構える。身を翻して飛びかってきた獅子の牙(電熱を発する小型機械)をかわし――そして視界の隅で彼は見た。獅子の片方を屠る芍薬の先で、名乗らずの神徒が両手に神水ネクタールを持ち、それを飲み干している様を。
 名乗らずの信徒の体が肥大した。横幅も縦幅も増し増しローブを引き裂きその肉体が!

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