彼の美技に酔っていた観客の意識が取り戻され、彼の手にある白い楕円がいくつものエア・モニターに映る。
 その正体を皆が知った時、ドーブが牙をむいて一方を睨みつけた。獣人の本物の怒りを初めて身に浴びたのであろう、彼の視線の先でプカマペ教徒――『マニア』達がびくりと震える。飛来してきた方向は判っても、この獣人は誰が投げたのかは判っていまい。であれば、犯人が明らかとなるまでに誰もがその牙の餌食となるかもしれない。まさに本能的な恐怖が発生し、集団の中を伝播する。ドーブが一歩踏み出そうとし、恐慌が起こりかける。
 と、そこへ、ニトロが身を割り込ませた。
 怒りを露とした獣人より先に足を踏み出すことでその怒気をなだめ、それと共に進攻をも自然と止めさせたニトロは、そのまま卵を見つめながら歩を――ドーブが見つめていた方向へ進めた。
 親衛隊隊長の怒りの矛先はいずこかへ逸れたが、代わって向かってきたのは『敵』の大将その人である。『マニア』達の間に動揺が走った。
 ニトロは人の作る壁に真っ直ぐ向かう。止まる気配はない。彼の足の勢いは踏み出された時のまま鋭く――彼は行く先を一瞥した。彼の目には意思があり、すると、誰に命じられるわけでもなく、彼の前に道が出来ていった。
――<<ソノママ真ッ直グ……少シ右>>
 ニトロが外耳内に着けた超小型マイクを通して、彼にだけ芍薬の声が届く。彼は忠実に従い歩き、やがて首を吊られてぼろぼろの人形ひとがたを掲げる集団のほぼ中央、ローブのフードを目深に被った一人の教徒の前で止まった。男性であるらしい教徒は体を固め、フードの奥の奥に顔を隠そうとうつむいている。
 卵を差し出し、彼は言った。
「沸騰したお湯に冷蔵庫から出したばかりのものを入れて、七分」
 あまりに意表を突かれ、教徒が顔を上げる。薄影の中にニトロとそう歳の変わらない青年の顔があった。
「すぐにお湯から出して、余熱で大体三分間火を通す。黄身が半熟と固ゆでのちょうど中間になっていたら大成功。少々の塩とたっぷりの荒挽き黒胡椒をつけて……これが、あいつの好きなゆで卵のレシピ」
 ぽかんとして、青年はニトロから差し返された卵を受け取った。いや、不思議と受け取らされた。
 ニトロはにこりと笑い、
「腐ってないなら、お試しあれ」
 それからニトロは無残にも首を吊られた分身ひとがたに目をやった。周囲に幾ばくかの緊張が走る。それだけ人形は手酷い作りであり、侮辱であった。が、
「それにしても面白くもなんともないな。工夫もないし、品もない。効果と言えばあなた達の格を下げるだけだ。憚り無くもティディアのためと言うんなら、もっと粋にこなしてみせなよ」
 怒りもなく、呆れもなく、ただ純粋な酷評だけを述べ、それ以上は何も言わず、責めず、ニトロは踵を返した。足を踏み出す度に再び開いていく道を辿り、颯爽とドーブと芍薬の立つ場へ戻る。
「ちなみに俺はかりかりベーコンの粉末ふりかけをつけて食べるのが好きなんだけどね」
 悪戯っぽく笑って言うニトロに、ドーブのみならず、皆、気を呑まれていた。
「さて、それでどうかな?
 俺を信頼してくれる?」
 ニトロの真意――信頼して、守らないでいてくれるか――そう問いかける彼に、ドーブのみならず、皆、圧倒されていた。
 神技的な動きを見せられ、直後、誰の仕業と問うこともなく犯人(追求がなくとも誰もが真犯人と確信していた)と向き合い、その上で実に彼らしい度量も重ねて見せつけられては……どうにもこうにも……従わぬわけにはいくまい。
 ドーブは思わずくっと喉を鳴らし、満面の笑みを浮かべた。
「また逞しくおなりになられた」
「ありがとう」
 礼を受け、ドーブは光栄とばかりに頭を垂れる。同時にそれは恭順の意思表示でもあった。
 その光景に異論を挟む声はない。
 逆に賛意を示す歓声が上がった。
 先のニトロの美芸に遅れて賛辞を送ろうという意思も加わり、それは大きな喝采となる。ライトなノリでやってきた『プカマペ教徒』はもちろん手を打ち囃し立て、過激な『ティディア&ニトロ・マニア』は格の違いに出番の無さを思い知らされ、明確に敵方であるはずの狂信的な――ニトロへ殺意にも近い視線を送っていた『ティディア・マニア』らは、今や猛毒を抜かれて悔しさだけを顔に滲ませている。
 完全に、この場における人心はニトロの掌中にあった。
 彼はこの時――これは『ショー』なのである。だが、単なる『ショー』ではない。極めて重大な『ショー』だ――そして自分こそが、その重大性に見合うだけの主役足りえると、敵味方問わず皆に改めて完璧に認めさせたのである。
 ……ここまでは順調だった。
 万雷の拍手と歓声を浴びながら、ニトロは待っていた。
 あと一手……あと一手で、理想が完成する。
「ところで、一つお聞かせ願えますか?」
 ふいに喝采の中、ドーブが問うた。ニトロは随分真剣な彼の眼差しに小首を傾げ、
「何?」
「後学のために。ニトロ様とティディア様が現在最もお気に召しているお菓子は」
「ここで聞いたら商売に活かせないんじゃない?」
「商売ではありません。オフ会のためです」
 はっきりと言い切られ、ニトロは思わず笑った。深読みすれば、隊長はお菓子でも食べながら観劇に徹することを約束してもくれたのだろう。
「そうだね、最もって言われるとなかなか難しいけど……俺はウロット社の『もっちり蒸しケーキ』が最近のヘビーローテ。贅沢にいくならミ・レモンナのパルフェパフェかな。ティディアは――」
 と、言った時、
――<<2時、上10>>
 芍薬の鋭い声がニトロの目を“2時方向10度上向き”へ走らせる。
「ミ・レモンナのチョコレートケーキ」
 ニトロが待望のあと一手』 を視認するや否や、ロータリー中央にある街頭宙映画面パブリック・エア・モニターのものであろうスピーカーから女の声が流れた。
「クレ・ド・ランのアップドフィーネも供物に最適と、プカマペ様は仰っている」
 ニトロの視線を追って、皆が、あらゆる所へ中継するカメラ達が、ケルゲ公園駅舎の出入り口に張り出す庇の上、そこに佇む三人の『信徒』を見た。
「あとは……やっぱり元側仕えさんのパウンドケーキが外せないかな」
 言いながら、ニトロはドーブに目を送った。
 ドーブはうなずき、号令を発した。
「邪魔をせぬこと、お気を煩わせぬことこそが最大の忠義である! さあ、皆、舞台を整えよ!」

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