脅威の去った部屋で、独り。
ミリュウは、怨敵の去った瞬間に膝を折り、床に座して打ちひしがれていた。
――何故?
ミリュウの全てを、その言葉が支配していた。
何故?
「お姉様」
もう何度目か解らぬ呼びかけに応える人は、無論、いない。
何故?
「お姉様」
貴女様は何故、あのような男を愛されているのですか。
何故?
そもそもあのお姉様から愛を受けて、それに応えぬ人間がいるなどとは。ミリュウには信じられなかった。今まで想像すらしなかった、いや、想像すらできないことだった。もしそれができる人間が――男がいるとするならば、きっとそれは人ではない。都市伝説に出てくる怪人、御伽噺に語られる妖魔、神話に語られるまさに悪魔だ。
ああ、お姉様は何故? あの女神様が、何故! 悪魔などに魅入ってしまったのだ!?
聡明で人知を超えた才覚、神聖にして神性の体現者であられるティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナが、何故あのような一介の男に、ツッコミという妙な特技しか持たぬ平凡な男に、何故……何故?
解らない。
ミリュウには解らない。
「お姉様」
答えを下賜する女神は現れない。
何故?
ミリュウは茫漠と繰り返し、考え続けていた。
あの男は、平凡で普通の――という形容から今は逃れていよう。だが、それでもあのティディアお姉様に釣り合うかと問われれば、答えは『否』だ。
相応しくない。
相応しくないどころか、そもそもお姉様に釣り合う人間などどこにも存在しない。例えどんなに恵まれた男が“恋人”となったとしても、それはお姉様のお情けを以て
なのに……それなのに、何故?
判らない。
何故、お姉様は、ご自身を愛していない下衆などを愛してしまったのだ。
理解できない。
何故、ニトロ・ポルカトは……あのお姉様の愛を一身に受けながら、あれほど気楽にしていられて、あれほど軽々と愛を否定できて、何故、あれほど軽々しく『嫌い』などと言い放てる。
「お姉様……」
つぶやくミリュウは、自身の体をとても軽く感じていた。
つぶやく度に肉体が1gずつ消滅していっているような気さえする。
そして、
「……お姉様」
つぶやき、それに対する応えがないことを知る度に、心が重くなっていくことを知る。
「お姉様、お姉様、お姉様――」
心は重くなり、体は軽くなる。
軽くなっていく体は、重くなっていく心に煽られるように逸り出す。
思えば。
本当に、『希望』は、あの男に攻撃するにあたってわたしが辛うじて掴めていた希望は、一つ一つ、あの男と顔を合わせてからあっという間にこぼれ落ちていった。希望が失われていく度に、希望の失われた隙間には絶望が入り込んできた。絶望は隙間に入り込む時、風穴の開いた心に鉛のような風を引き連れてくる。その風は、重く、強い。この身を舞い上がらせるほどに強い。今ならわたしは空も飛べるだろう。そうして、わたしの体は希望という重りを抱えていた体では叶わないほど速やかに空を舞う。そして絶望という重りを新たに得た体は、一度動き出した重い物体が簡単には止まらないように、
……たった一つ残っている希望に向けて?
「……」
いいや、違う。
ミリュウは哂った。力なく、その頬に微笑みが刻まれた。
たった一つ残っている……のではない。
思えば、わたしには元々そのたった一つの希望しかなかったのではないか?
わたしが抱いていたつもりの『希望』……例えば――もしニトロ・ポルカトが『ショー』の相手をしようとしないのなら“あの程度”にも臆病風を吹かす男と喧伝してやろう……という希望。あるいは――もしニトロ・ポルカトがわたしに遅れをとるようなら“この程度”のわたしにも敵わぬ資質を皆に疑うよう勧められるという希望。――ニトロ・ポルカトと直接顔を合わせたならば誘惑してみようか。もしそれに乗るのなら、それをお姉様に訴えよう。“わたし程度”の女に篭絡されるケダモノであり、あなたを裏切るような
わたしに残されていたのは、たった一つの希望だけ。
そうだ、わたしは知っていた。
わたしが胸に
「お姉様」
ミリュウはつぶやいた。
その声には、力が戻っていた。
彼女はここで初めて知った。希望が人の行動を妨げ、逆に、絶望が希望にも増して人を動かすこともあると。
「わたしの女神様」
重い心がごろりと動いていく。
質量は、それだけで力だ。力はわたしの心と体をどんどん押し進めていく。わたしは、目的地に、まだ向かえる。他の
「
と、そこでミリュウは戯れを思いついた。
「『侵入者』を捕らえなさい。抵抗するようなら、警告無く殺しなさい」
「『侵入者』ハ存在シマセン」
姉の部屋付きのオリジナルA.I.は平静に応えた。
ミリュウは小さく息をついた。そう返されることも解っていた。
「マタ、殺セマセン。殺セタトシテモ、殺シマセン」
「?」
ミリュウは声の主の姿を見るように宙に目をやった。
pは、淡白な性格をしている。弟のフレア以上に無口であり、命令に際しても淡々と必要最小限の受け答えをするだけで、余計な言葉を付け加えた場面はミリュウの記憶にはない。今のような蛇足は……少なくとも、ミリュウにとっては初めての経験だった。
何のために、そんなことをpは言ったのだろう。
「……そうよね。いけないことだもの」
ミリュウはpが王家のA.I.として自分を諌めようとしているのだろうと見当をつけた。
が、pは応えない。ただ、奇妙にもノイズに似た音が耳を掠める。
しかしミリュウにはもうpの反応はどうでもよく、また、分を越えて諫言を呈してきたA.I.への憤懣もなかった。
これはただ、戯れが終わっただけのことだ。
ミリュウは言った。
「パティに繋いで」
ミリュウの前に
「っお姉ちゃん?」
連絡を受けて通話先に現れたパトネトは、カメラが繋がるなり姉の顔を見て、ぎょっとしたような様子を見せた。
しかし、ミリュウがそれに気づくことはなかった。つい数十分前の彼女ならば気づいていたであろうことにも、彼女が気を遣うことはなくなっていた。
「パティ、ごめんね」
ミリュウは眉を垂れ、見た目だけは謝意を表す愛想笑いを浮かべているつもりなのだろう。しかし、彼女のそれは笑顔ではない。パトネトの後ろにある人影は震えているようだった。
「夕食を食べている暇がなくなっちゃった」
パトネトは、うなずく。その背後の人影がどうしてか慌てたように姿を消す。
「お姉ちゃん、負けちゃった」
ミリュウはやけにあっけらかんと言った。初対面、初対決。ニトロ・ポルカトが持ちかけてきた『会談』は形式的には決着せずの物別れで終わったが、真実は、ミリュウにとって、その結果は惨敗以外の何でもなかった。
「なかなか予定通りにはいかないね」
ミリュウの笑みに、パトネトが首を振る。
「大丈夫」
パトネトは、言う。
「お姉ちゃんはまだ負けてないよ。僕が、きっと負けさせないから」
ミリュウはその優しい弟の言葉に――
(変ね)
涙が出るくらい嬉しいと思える言葉なのに、ミリュウには、それをただ嬉しいと認識する以外に何も感じられなかった。
「僕がお姉ちゃんを助ける。だから、ニトロ・ポルカトが勝つことは、ないよ」
パトネトの力強い――本当に力強い。もう、彼は、わたしの保護なんていらない――励ましに、ミリュウは小さく首を振り、
「パティ」
かすれた声だった。
パトネトは口をつぐみ、画面越しの姉をじっと見つめた。
ミリュウは微笑み、言った。
「メインイベントを前倒しにする。『破滅神徒』降臨の舞台を整えてくれる?」