「わたしだけが本当のお姉様を知っている」
 その言葉には異様な迫力があった。
「わたしだけは本当のお姉様を知っている。お姉様は……そうね、お前の言う通り、お前のことを当初は道具として愛していたでしょう」
 ニトロがこれまでに聞いたミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナの『演説』のどれよりも――襲撃の夜に聞いた開幕の口上は元より、あの西大陸で議会を掌握した王女の声よりも――そこには遥かに、重い力があった。ニトロの心を、ニトロの足を、深い海の底から伸びてきた無数の腕が引きずっていくような甚だしい力があった。
「だけど、違う」
 ミリュウは首を振る。髪が乱れてくうを掻き毟る。
「今はもう違う」
 ニトロはミリュウから目を離せないでいた。
「お姉様はお前を心から愛している。
 お前だけは、心から愛している。
 お前だけは。
 お前だけを!
 それなのに――ッ」
 ぎじりと、歯の削れる音が聞こえた。
「お前は! お姉様の純愛をどうしてそんなにも簡単に冒涜できる!」
 ミリュウの双眸からは再び涙が流れ出していた。
「それなのに……何でお姉様は? お前を愛し、弱くなられた? お姉様の愛を受けながらお姉様の愛を汚すお前なんかを!」
 ニトロは圧倒されていた。信じ難い驚異を目の当たりにしたかのように息を止め、ようやく声を作り出す。
「――弱く?」
「そうだ、弱くした! お前はそれにすら気づいていないのか?」
 ミリュウの眉目は吊り上がり、怒りのあまりに見開かれたその双眸は充血している。今にも滂沱の涙に血が混じりそうなほどに、赤く染まっている。
「無敵の王女、ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナ! お姉様は、お前のせいで弱くなられた。お前という弱みを持って、弱くなられたんだ。お姉様には敵がいる。たくさんの敵だ。今までは無敵だったから誰も攻められない。けれど、お前のせいで、お姉様はたった一つでも隙を生んでしまった。お前を守るため――そのために、お姉様はこれまで必要のなかったご心痛とご芳情を必要とする。知っているか? お前はマードール殿下に会っただろう。お姉様は殿下とお前を会わせたくなかった。ハラキリ・ジジを利用されること以上に、殿下にハラキリ・ジジを利用されればお前がどんな思いをすることになるか……それを知っていたから会わせたくなかったんだ!」
 衝撃的な指摘だった。そしてニトロは、反論することができなかった。
 確かに、ティディアがマードール殿下の件に関し、ハラキリを使いたくないと心を割いていたことは聞いている。それについてはハラキリへの配慮、またハラキリを介して相手の利になることを良しとしなかっただけと考えていたが、言われてみればミリュウの主張にも無理筋はない。……そう思える。そう思えるからこそ『まさか?』という思いが脳裏をよぎる。普段ならばそれでも「そんなことはないさ」と軽く笑うか、それとも「良いところを見せたいあいつのポーズだ」と軽んじることもできただろう。が、ミリュウの言葉の重みを前に、それができない。できないからこそ、また『まさか』と心に衝撃が縛り付ける。
「本当なら、お前なんか、いくらでも外交の道具だ」
 ミリュウは笑った。赤い目で、不気味に笑った。
「マードール殿下にも喜び会わせて、我が国の将来のために先方との親密さを増す道具にすべきものだ。そうれば我が国は主導権を常に握り続けられるのだから」
 確かに『ティディア姫』なら容易にそれを選択することだろう。
「だけど、それをあのお姉様がしたがらなかった。それがどんな意味を持つか、お前なら解るだろう?」
 ミリュウは、そこで大きなため息をついた。
 彼女はようやく涙を止めながら、唇を噛んでニトロを睨みつける。
 め据えられたニトロは動揺を抑えられずにいた。我知らず頬を固め、唇を引き結んでいた。
 ミリュウの言葉は、何故にこんなにも自分の心に突き立ってくるのだろうか。
 ティディアが俺を愛している?――誰に何と言われようが笑って軽く否定できていたことが、何故、ミリュウを前にしてはこんなにも重々しく喉を塞ぐのだ?
 小さな間が空いた。
 そのわずかな沈黙は重力よりも強く、ニトロの心身を圧迫する。
「お姉様は、お前を愛している」
 ミリュウは立ち上がった。彼女の視線を追うと、その先には一枚の絵画があった。質素な額の中ではリンゴが瑞々しい輝きを放っている。
「お前は知らないだろう。あの絵に傷がついた時、お姉様がどんなお顔で修復に心血を注がれていたか」
 次いで視線がベッド脇の小卓に向けられる。
「お前は知らないだろう。物にご執着されないお姉様が、お前との思い出の品をどんなに大切になさっているか。お前は知らないんだ。思い出を語られるお姉様がどれほど幸福に満ち、そのお顔が……どんなに、お美しいことかを」
 ティディアの部屋は、妹の言う通り、置かれている調度品の質とバランスからあまり意識はできないが、確かにどこか殺風景なものだ。この部屋の主の物への執着心の希薄さが表れている。その中にあってニトロがティディアの見舞いのために持ってきたリンゴを写し取った絵は、特別異彩を放つ『異物』に違いなかろう。この部屋の主人が枕元に思い出の品を置くなどとはそれこそ想像できない。
「それなのに……」
 しゃくりあげるように息を止め、ミリュウは拳を真っ赤になるほど握り込み、
「それなのにお前は、知らない、知らない、知らない! それどころか侮辱する! お姉様がどれだけお前との何でもない日々を大切にしていることか! お前との日常の繰り返しをどれだけ愛していることか! お前との間に犯した失敗を――お前も覚えているだろう? シゼモの失敗を悔いていたお姉様のお顔がどんなに、ああ、どんなにお辛そうだったか、叶うならばお前に叩きつけてやりたい。思い出すだけでも胸が痛む。代われるものなら代わって差し上げたい。お姉様にあんなお顔をさせられるのはお前だけだというのに、それでも、お前は……!」
 ミリュウは大きく震えながら息を吸った。そして、首を大きく左右に振る。それは諦めのようでもあり、嘆きのようでもあり、確信のようでもあった。
「お姉様はニトロ・ポルカトを愛している」
 小さな声で――しかしニトロにとっては破壊的に大きな声で、彼女は言う。
「心から、愛しておられるんだ」
 ニトロの心臓が、重く鳴る。
 やおらミリュウはニトロを見据え、言った。
「わたしは……お前を絶対に認めない」

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