「それにしても、おかしいな。体を投げ出せるほど?」
 目を細め――しかし、笑っていない――彼女は囁いた。
体を投げ出せるほどだなんて、ふふ、お前も浅はかね」
 これまでになく強い敵意を吐き出して彼女は立ち上がり、ニトロの対面に戻ると椅子にどかりと腰を下ろした。再びテーブルに両肘を突き、組んだ手の上に顎を乗せる。その余裕に満ちた様子には、どこか彼女の姉を思わせる景色があった。
 彼女は一つ呼吸を挟み、ニトロをめ上げ、
「わたしは全てを投げ出しているのよ」
 ニトロは気を引き締めた。
 ミリュウの気質が、一事を挟んでまた変わった。
「全て……ね。だから、体くらいどうでもいい?」
 わたしの与えた動揺などもう微塵も残さぬニトロの問いに、ミリュウは再び気味悪く微笑んだ。
「馬鹿ね。体など、いくらでも薪としてくべてやるわ」
 嘲りの言葉にもニトロは揺らがず、言葉を訂正した。
「そうかい。命くらい、どうでもいいのか」
 ミリュウは小さく首を傾げた。微笑み、そうする様子は一見可愛らしくも映るが――ニトロには、蝋人形がそう動いたような不気味さが感じられた。
 と、
「それにしても腹立たしくてたまらない」
 ミリュウが背もたれにぐっと体重をかけ、伸びをするように腕を差し上げ大きな吐息を吐いた。
「芝居はお姉様に叩き込まれていたのに……随分簡単に弾かれちゃった。いくら“つまらない手”でも、少しくらい“ひょっとしたら?”って思わせられる程度には自信があったのにな。
 ねえ? わたしの演技は、そんな簡単に“可能性”を捨て去れるくらい下手だった?」
 妙に明るく、妙に親しげにミリュウは問う。
「いやいや、演技は上々だったさ」
 ティディアに叩き込まれていたというミリュウの言葉に内心――自分も、ある意味で同じだと――苦笑しながら、ニトロは肩をすくめた。
「もし色仕掛けに『抗体』ができてなければ、危なかったかもしれないよ」
 その物言いにミリュウの眉がかすかにひそめられる。彼女はニトロとティディアの営みを想像したのだろう。が、それを思うニトロの内心の苦笑も深まるばかりだ。彼は一つ息を吐き、外と内の思いの齟齬を整え、そうして『敵』と正面から目を合わせて言った。
「といっても『抗体』が働いたから解ったわけじゃない。理由は単純だ」
 一拍の間を取る。
 ニトロにはもう四の五の遠回りをする気はなかった。相手に搦め手を選択する余裕がまだあったのなら、それもここで潰してしまおう。
「あなたは俺のことが嫌いなんだろう? いっそ殺してしまいたいくらいに」
 ミリュウは微笑んだ。初めて、本当に満足気に、とても『嫌』な目つきで。
「いいえ、嫌いなんかじゃない」
 彼女は言う。その唇を嫌悪で濡らして。
「それどころか、大嫌いよ。とても憎んでいる。いっそ殺してしまいたいんじゃない。どうしても消し去りたいくらいに」
 小細工抜きの言葉を投げつけられたニトロは、投げつけられた感情に対するには不自然な反応を胸に覚えていた。
 ミリュウの顔には嫌悪がある。それは彼女の言葉と符合する。
 そしてミリュウの瞳には、その『嫌』な気配の中には、今、ニトロは失望と侮蔑が色濃く存在していることを見止めていた。
 だが、ニトロは、彼女から失望と侮蔑を与えられているのに、一方でどうにも彼女に心底失望され、侮蔑されている気がしなかった。明確な言葉を投げつけられたというのに、その言葉を聞く耳にはどこか空虚な響きすら伴う。これは……一体何なのだろうか。ここに至るまで第二王位継承者から伝わってきた情感は、敵意の他にはどうにもまとまりがないようにも思える。様々な感情それぞれが無闇に自己主張し、それぞれが彼女自身の内側で激しく矛盾したまま、いや、矛盾しているからこそ成立しているかのようで、すぐにでも捕まえられそうなのに、どこにも掴み所がない。
(――ちょっと、参ったな)
 ニトロはこちらの反応を待つミリュウを見つめたまま、考えた。
 ミリュウの――おそらくは確かな本音を引き出すまでは成功したが、本音を引き出したところで彼女の目的の正体が見えたわけではない。推測してきた“可能性”のいくつかを潰せたのは良いが、まだ真の目的には辿り着けたと言うには程遠いだろう。
 難題は、本音を引き出せたこの後だろうが……さて、こうして小細工抜きの言葉を吐くようになったミリュウは、こちらの希望通りに目的までも吐き出してくれるだろうか。
(――うだうだ考えても仕方がない)
 相手は小細工抜きの言葉をやっと正面からぶつけてきてくれたのだ。ならば、
「正直、解らない。一体何故、俺はあなたに『どうしても消し去りたい』なんて思われなきゃいけないんだろう」
「解らない? 本当に?」
 率直な問いに、ミリュウは顎を軽く上向けて問い返す。嘲りを含めた眼差しだった。
「解りようもない」
 ニトロは嘲りを意に介さず、素直に肯定する。それがミリュウを刺激した。彼女は歯を剥き出し、
「誰が教えるものですか、お前なんかに。いいえ、当ててみなさい、ニトロ・ポルカト。お姉様の見初めた恋人様。次期王ともなられる御方ならば、それくらいできて当然でしょう?」
「そもそも、そこから間違ってるんだけどね」
 やはりミリュウの嘲りをまともに受け止めず、嘆息をつきながらニトロは言った。それは彼にとってほぼ反射的な反応であり、特に重要な事柄を口にしたわけではない。――が、
「?」
 ふと、ミリュウに怪訝の色が差した。様々な感情が掴み所なく渦巻く中で、一点、小さな色ではあったが、確かに。
「――?」
 ニトロもそこに怪訝を寄せた。
 何だろうか……異様に大きな齟齬を感じる。重大な亀裂が目の前に現れた気がしてならない。
「…………」
 初めて二人に共通した怪訝という感情を橋渡しに、ニトロはミリュウを見つめたまま考え――
「あ」
 と、声を上げた。
 ミリュウが眉根をひそめ、相手の気づきへの関心が表れる。
 ニトロはそこへ突きつけた。
「そうか。あなたは誤解しているんだ」
 何故、そのことに気を回さなかったのだろう。考えてみればさも馬鹿馬鹿しい話ではないか。
 ニトロは解決の糸口を見つけられたと思い込み、思わず声をあからめて言った。
「俺は、ティディアの『恋人』なんかじゃないんだ」
「――え?」
 ミリュウの口から疑念が、さも馬鹿馬鹿しい話を聞いたと言わんばかりに漏れ出す。
 当然だろう。何しろマードールでさえ信じ込んでいたのだ。その上、ミリュウは『伝説のティディア・マニア』であり、ティディアを盲信する――ティディアこと女神の言うことが絶対の、どこまでも女神の価値観に追従する『信徒』だ。女神が一度でも否を唱えた問題は以降いつまでも、否。もちろん彼女は一瞬たりとて疑いもしなかったことだろう
「だから、俺は、ティディアの恋人じゃないんだよ。ミリュウ様。それはあいつが言っているだけのことで、むしろ俺は迷惑しているんだ」
 ミリュウ姫がティディアの言うことを信じないはずがない、という大前提の思い込み。それがこの『大問題』をどこかへ疎外してしまっていた。
「……今更、ここで照れ隠しをするか」
 ミリュウがそう反応することを、ニトロは既にずっと前から知っていた。そう、明らかに腹を立てて彼女がそのように問いかけてくることも解り切っていたように、全てはこの『解り切ったこと』の相違から来る齟齬が両者に致命的な誤解を生んでいたのだ。
 ニトロは頭を振った。
「違う。照れ隠しなんかじゃない。本当のことだ」
 ニトロの声に偽りはない。態度にも。ミリュウの眉間の陰がますます深まる。
「だから、嫉妬だろうが女神を『奪われる』恐れだろうが、そんなものは気にしなくていい。いや、むしろ俺はミリュウ様の味方になれる。『ニトロ・ポルカト』っていう恋人の存在が気に食わないんならそれを公言してくれればいい。俺が協力する。ティディアの恋人なんかじゃないって、どこででもいくらでも言ってやる。俺はあいつが嫌いなんだ」
 ミリュウが、いくらか呆けた。眉間の陰がほどけて消える。双眸はぼんやりとして、ニトロの言い分を飲み込もうとしているように見える。
 だから、ニトロは、油断した。生涯最高に浮かれていたと言ってもいい。ティディアの身内に、ティディアの求愛とやらから逃れるための協力者を作れるかもしれない――それもあの『伝説のティディア・マニア』を!――という『希望』に浮き立ち、至極面倒だと思っていた事態が一転、思いがけず非常に大きな『希望』と変わったことへの感謝と興奮に取り憑かれて彼は平時の己を忘れるほど舞い上がっていた。
「本気で言っているの?」
 ミリュウの疑問に、ニトロは力強くうなずいた。

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