「……そうさ」
 ニトロは、ミリュウに応じて繰り返した。
「恨まれるようなことを、したかな?」
「したといえば、したわ。恨まれるようなことといえば、そう、恨まれること」
 言ってミリュウは立ち上がり、一歩横に動いた。
 彼女のスカートの裾がふわりと跳ねる。
 彼女の眼差しには熱があった。
 それはニトロの良く知る熱情であり、それゆえ彼の眉間には力が込められる。
「だって、わたしこそいつも疎外されていたんだもの」
 ミリュウは胸に左手を当て、ニトロへ一歩近づいた。
「お姉様は、これまでわたしをポルカト様に会わせてくださらなかったわ。何か深いお考えがあってのことだったのでしょうけど……わたしはね? ポルカト様。あなたがお姉様とお付き合いされていると知った時、歓迎したのよ」
「そのようだね」
 ニトロは少しずつにじり寄ってくる、少し目を潤ませた少女の顔を真っ直ぐ見つめ返した。そして、
「でも、本当は違った?」
 ニトロの受け返しに、ミリュウは首を左右に振った。腰まで伸びる彼女自慢の黒紫色の髪が駄々をこねるように波を打つ。
「いいえ、本当に歓迎したの。だって、あなたはわたしと同じ人だったから」
「そうかな」
「そうよ、ポルカト様。お姉様の恋人なんですもの、どのような方かと調べました。そうしたら、ニトロ・ポルカト様――未来のわたしのお義兄様。貴方はわたしと同じ、普通のお方」
 ミリュウの瞳には熱情が増している。潤んだ虹彩は揺らめいて、その言葉はニトロの心に――同じ普通のお方――やけに重く響く。
「そんな殿方があのお姉様の隣に並んだのです。恐れ多くも貴方様への共感を得たわたしは、震えました。貴方様とお姉様のお幸せそうなお姿は、我がことのように、心から嬉しゅうございましたのよ」
 徐々に変化していた彼女の口調がついに変わり切った時、彼女は崩れるように膝を突いた。座すニトロの側に跪き、胸を押さえる手とは逆の手で彼の左膝に触れる。甘い感触。膝から腿へかけて這う指の腹の柔らかさに、男性の感応が自然と誘われる。
「ですが、貴方様のご活躍を拝見し、貴方様のお話をお姉様からお聴きするうちに、わたしは……いつしか苦しくなってきたのです」
 ニトロを上目遣いに見つめ、唇を濡らし、ミリュウは片膝を立て彼にすがりつくように顔を近づける。
「この胸が、しだいに、時を経るにつれ、貴方様を思う度に締め付けられ、わたしはどうにかなりそうなほどに苦しくなってきたのです。どうしてでしょう、どうしてでしょうか? ニトロ様。わたしはそれが知りたく、考え、貴方様を思うと苦しいのですから、きっと貴方様に原因があるのだろうと思ったのです。寝ても覚めても貴方様のことを思い、考え、ついにわたしは知りました。
 何のことはありません。
 簡単なことだったのです」
 と、その時、ミリュウは両の手でニトロの左手を取った。
「恨みに思うことを、どうして避けられましょうか」
『烙印』の刻まれたそれを壊れやすい宝物を扱うように優しく、一方で情熱的に強く包み込む彼女が彼を見上げる瞳には――姉弟と同じ黒曜石のその瞳には、眼をたゆませる涙のヴェールでは隠しきれない複雑な感情がある。先には体全体に溢れていたものが、今はただそこに凝縮して先よりもずっと色濃く渦巻いている。
「ニトロ様……そうです、わたしは貴方様をお恨みしております。この想いをわたしに与えた貴方様を、どうして、お恨みせずにいられましょうか。この想いを知りもしない貴方様を恨まずにいられましょうか」
 ミリュウの手は、ニトロの手を己の左胸に引き込もうとしていた。
「ようやく……ようやく、こうしてお会いすることができました。
 手段は間違っていても――」
 と、その時、ニトロは今にも乳房に触れさせられようとしていた手をするりと――ミリュウが何故握り締めていたはずの彼の手に逃れられたのか解らないほど巧みに抜け出させ、そして、そのまま腕を伸ばして彼女のうなじに掌を添えた。
 大きな手に頭と首を支えられたミリュウは、ニトロが微笑を浮かべ、そして彼女を引き寄せようという力を感じた。
 口づけを?
 ミリュウは応じた。ニトロの唇を迎えようと目を細め、彼と瞳を合わせる。と、その時、彼女は彼の瞳の奥底を深く覗き込み――ふいに大きな恐怖を感じて背筋を凍らせた。
 ミリュウの背筋を凍らせた恐怖は彼女の首筋を通してニトロの掌にも伝わった。その瞬間、ニトロはその面から微笑を消し去り、彼を見つめたまま動けないミリュウにぐんと顔を近づけた。ミリュウの唇が震えた。
強姦犯になるのはごめんだ
 ひどく冷めた一言だった。
 ミリュウの潤んだ目が揺れる。
「それとも、わたしを抱かせてお姉様を裏切らせることを御所望だったかな?」
 ひどく心を虐げる声だった。
 ミリュウの心臓が、どぐん、これまでにない勢いで一度弾ける。
 彼女は完全に気圧されていた。思考もまとまらず、恋の告白をしていた女に対して手酷いセリフを吐く彼への反論を試みることさえできない。
「――え?」
 ようやく声に出せた一音は、果たして声と言えるものだったろうか。彼女の顔が紅潮する。それはまるで、極寒の中で皮膚が必死に熱を保とうとしているかのように。
 ニトロは目前にあるミリュウの眼を覗き込みながら、彼女を逃がぬために首の根を押さえていた手を動かし、その手で、そっと彼女の頭を撫でた。彼女の目が、見開かれた。
「一応言っておこうか。自分で服を破いて逃げ出しても無駄だよ。俺に濡れ衣を着せたいなら、少なくともピコ記憶をさせちゃいけない
 それはつまり、この部屋のA.I.の『何を記憶し、何を記憶しないか』という選択への権限は、ニトロが握っているということだ。
「……失望したよ」
 ニトロはあからさまに嘆息をついた。
「この期に及んでこんなにつまらない手段を取るだけじゃなく、その程度のことも推測せずに体を投げ出せるほど俺の『敵』は浅はかだったのか?」
 嘲笑を含んだ攻撃的な口調は、しかしニトロの思惑とは違う反応をミリュウに招いた。
 ミリュウは、極自然と笑ったのだ。
 薄く、それはまたしてもニトロの見たことのない種類の微笑で……何より気味の悪い笑顔だった。
「そうね……」
 ニトロの体温を髪の上に感じながら、ミリュウは肩を落とした。
 ミリュウはこの時、また一つ、体が軽くなったことに気づいていた。そして逆に心は重くなる――ニトロ・ポルカトの不意打ちの衝撃に打たれた後に感じた奇妙な感覚が、再びこの心身に現れていた。不思議な気持ちだった。それはやはりかえって重心が安定したと言えるもので、彼女は次に取るべき行動を、しかもこれまでの自分では考え付きようもなかった形で明瞭に思い描くことができていた。
「そうよね。この期に及んで……そうよ。つまらない手段だわ。情けない。馬鹿馬鹿しい。その通りよ、浅慮だった。認めるわ」
 長いため息をつくようにぶつぶつとつぶやき、ミリュウは己の頭に載るニトロの手を再び両手で包み取ると、その『烙印』に――舌を這わせた。
「!?」
 ニトロは頬が引きつるのを止められなかった。
 ミリュウの舌がひたりと“その花”を愛しそうに舐めたこと、そしてその間にも彼女が正体の解らぬ微笑を頬に張り付かせている姿を目に、彼はさすがに怖気を禁じえず背筋を凍らせた。
 ――が、しかし、彼は、怖気に怯みそれから逃れようとまではしなかった。
 何しろその怖気も、彼が腹の底に留めている熱を吹き飛ばすには到底及ばない。彼は動揺を一瞬にして鎮め、『敵』の奇行に際してそれ以上の当惑すら浮かべず、静かに、ミリュウの熱い手の中から左手を引き戻した。
 ミリュウはニトロの手を引き止めようとはせず、ニトロの前に跪いたまま、引き戻されていく手を追って彼を見上げた。上目遣いと言えば聞こえは悪くないが、その双眸は三白眼であり、顔には暗い喜びがあった。折角閃いたこれまでにない名案でもニトロ・ポルカトを慌てさせられたのは、たった一瞬だけ……その失望を得ながらも、しかし例え一瞬に過ぎなくともこのニトロ・ポルカトを、実際に、この手で、わたし独りの力で揺さぶれた。その事実がミリュウをとても悦ばせていたのだ。また、一方でミリュウは、今回の件において『立案』から『実行』に至り、そしてほんの少し前までずっと抱えていた複数の『希望』が一つ一つ、あっという間に、ニトロ・ポルカトの手によって愉快なほど軽々と剥ぎ取られていったことに一種の爽快感を覚えていたのである。
 彼女は堪え切れないようにクッと喉を鳴らした。

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