「色々考えたけれどさ。
 結局どれも決定打がないんだ。考えついた事のどれもが正解な気がするし、いっそのこと全部違う気もする。大事おおごとだと思うよ。今回の『劣り姫の変』は世間に見られているような椿事じゃない。『劣り姫』が演出した『ショー』だなんて、とんでもない、もっと根本的にひどく大事だ。なのに、俺は当事者のはずであるらしいのに、どうにも実情からは疎外されている」
 肩をすくめ、ニトロは微動だにしないミリュウを見つめた。
「全く、これは一体どういうことなんだろうね」
 組んでいた腕を解き、
「勝手に人の体に異物を入れて」
 左手の甲をゆらりと示す。そのままテーブルの上に両腕を置き、
「ショーに見せかけた暴力行為を仕掛けてきて」
 強く、手を組む。
 そして上半身を前傾させてわずかにミリュウに近づき、
「芍薬にまで攻撃を及ばせてきた」
 その声は穏やかなれど、ミリュウの心を激しく震わせた。一瞬、かつ一端であったが、ニトロ・ポルカトは初めて怒りを表出させたのだ。ミリュウは努めて静かに息をした。その炎の欠片のただの一舐めで、それだけで鼓膜が爛れたように痛み出す。接近した瞳に見た熱光に網膜が締め付けられ、喉が渇きのあまりに引き攣れそうになる。
「それなのに、こっちはそっちの動機すら解らない。解らないことばかりなのに、それだけは解っているから余計に苛立ちもする
 ミリュウはニトロの圧力に飲まれないよう堪えるのに必死だった。さらに圧倒されるのは、これほどの激しい感情を抱え込みながらもニトロ・ポルカトは冷静を保てるという事実――その上、この期に及んで、腹に敵意と憤怒を抱えながらも敵に対してある程度の敬意を失うことなく示し続けている、その器の大きさだ。
 ……わたしでは、到底及ばない。
 ミリュウは思い知る。
 ニトロ・ポルカトに危害を加えてしまったわたしでは、もうどう足掻いても到底及ばない、その精神の高潔さ。
「ミリュウ様」
 ふいに敬称を付けられた呼びかけに、ミリュウは静かにうなずいた。熱に打たれた臆病な心が凝結し、うなずきという反応しかできなかったのだ――と、それに気がつき、彼女はきっと唇を結んでニトロを見据えた。
「何かしら」
 我ながら下手な促しだと思うが、それでもこれ以上会話の主導権を独占され続けるよりはましだ。
 王女の促しを受けたニトロは、彼女が虚勢を張っていることを察しているとはおくびにも出さず、
「教えてくれないかな。俺は、これほどの大事を引き起こすほど、あなたに何か恨まれるようなことをしたか?」
 そう問うた直後、ニトロはこれまでに出会ったことのない感情の渦に巻き込まれ、一瞬、呼吸を忘れた。
 問いかけられたミリュウは何も答えない。答えられないのか、答えを躊躇っているのか、それとも答えたくないのか。ニトロには、それのどれかを窺うこともできない、いや、窺い知ることは不可能だった。何故なら、ミリュウの瞳に、眉に、頬に、唇に、表情に顔色に姿勢に雰囲気に――およそ感情を表す要素の全てに、あまりにも多くの感情が表れていたからである。失望? 軽蔑? 落胆? 絶望? 敵意? 希望? 諦観? 熱意? 期待? 嘲弄? 悲愴? 恐怖? 疲労? 憤怒? 焦燥? 嫌悪? 憎悪?――親和性があり互いに結びつく感情にしろ、矛盾の関係にあり互いに反発し合う感情にしろ、何もかもが滅茶苦茶に放り込まれて、ミリュウというカンバスに奇怪なマーブル模様が描き出されていたのである。
 一人の人間が同時にこれだけの感情を表すことが出来るとは……それを現実に目の当たりにしてなお、ニトロは信じられない思いであった。
 ――『思っていたより複雑な人なのか』
 ミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナの人物像を改めている際に脳裏をよぎったこと。
(複雑?)
 ニトロは内心、己の感覚を嘲笑った。
 いいや、ここに表れた人間は――複雑に過ぎる。
 脳裏に描いていた第二王位継承者の人物像。
 ティディアの掌でうずくまるミリュウ姫は、今や複雑怪奇な色彩で染め上げられ、例えそこに何らかの真実色があるのだとしても、その内のどれを選べば正解なのか皆目見当がつかない。
『劣り姫』は未だ黙している。
(劣り姫?)
 ニトロは内心、その呼称を大きくわらった。自分にとっては、覇王の再来とも畏れられるクレイジー・プリンセスより、目の前にいるこの同い年の少女の方がよっぽど理解の及ばぬ怪物だ。
 しかし一方でニトロが自ら気づかぬところでは、彼が理解の及ばぬ『怪物』を前にしてもそれと正面から相対することを平然と受け入れている――という現実があった。それもまるで日常的な事柄として、あまりに当たり前のことのように。
 彼のその無自覚な度量は、ミリュウから見れば絶望的に手の届かぬ余裕に他ならない。今にも膝を砕きそうな重い心を抱え込み、気持ちの悪さに腹を嬲られ続けながら、なけなしのプライドを杖にして、ニトロ・ポルカトへの暗い感情を導灯と掲げて、そうしてようやくこの夜道を歩くことのできている『わたし』とは本当に雲泥の差だ。
(雲泥の差……)
 空に輝く太陽と共にあれる、雲と。
 太陽と雲を見上げて干からびていく、泥。
(……そうね)
 また、ミリュウの胸を、呪われた赤子の吐き出す汚泥の臭気が腐らせる。腐った胸の中で心臓が、濁っていく心に相応しい行為を求める。
 ミリュウは、微笑を増した。
 その微笑が混沌とした感情の中から一つをすくい上げる。
 それを見たニトロは、彼女が纏い続けている『嫌』な気配が強まるのを感じた。
 真正面から見つめあい、ぶつかり合う黒い彼の瞳と、黒紫色の彼女の瞳。
 やおらミリュウが弱々しく唇を震わせた。
 そして彼女は、微かに瞳をそむけた。
 それはほんの小さな変化だった。
 視線の交錯する地点から数ミリのずれ。
 ミリュウからはあの複雑怪奇な感情の渦が消えており……その顔は緊張に強張り、微笑みを作る唇はわずかに色褪せ……やがて彼女は、全身からどこか恥を忍ぼうという乙女のいじらしさを漂わせて頬を極薄い紅色に――もはや隠し切れないとばかりに恋の色彩に染め出した。
 無論、ニトロは彼女の変化を見逃さない。
 無論、ミリュウも相手に変化を悟られたことを感じ取る。
 すると少女は、ふっと微笑みを歪めた。寂しそうに
「恨まれるようなこと?」
 搾り出すような声は、間を大きく開けた問い返しだった。

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