ミリュウは努めて静かに息をしていた。
沈黙の中、改めて『ニトロ・ポルカト』と二人きりであることを自覚すれば、肉を内側から凍らせる緊張と骨を内側から焼く覚悟が体を縛る。どちらが優位かといえば、情けなくも前者だ。気を抜けば、わたしは立ち、ポルカトは座す――位置関係からしてわずかに見下ろす形なのに、不思議と見上げているような気さえしてしまう。
ミリュウは、ニトロ・ポルカトを努めて傲然と見下しながら間隔の長い深呼吸をし続け、そうして初めて生身の体で間近に見る仇敵をじっと観つめていた。
姉の『恋人』は憎いほど自然体で椅子に腰掛けている。
いつでも解けるくらいに軽く腕を組み、真っ直ぐに、こちらを観つめ返してきている。
「……」
思い返せば、初めて『映画』で見たニトロ・ポルカトの戦闘服姿は、制服を着始めたばかりの新兵といった有様だった。着慣れていない、服に着られている……意地悪く言えば、
それが、今はどうだ。
ニトロ・ポルカトは、姉の語るところによればあの
ここしばらく、わたしの生活のほとんどを占めていた存在。いくら見ても見飽きないほど憎い男。たった一年と少し前には、同い年の男子――年相応に大人と子ども半ばする空気を纏う運動不足で緊張感のない今時の高校生に過ぎず、ツッコミの他には取り得も無く、頼りない顔をしていた少年。
それが今は、どうだ。
たった一年と少しだ。
たったそれだけ。
それだけの期間で、ニトロ・ポルカトは急激な成長を果たし、今、わたしの目の前で泰然自若と構えている。鍛えられた肉体には揺らぎのない落ち着きがあり、頼りなかったはずの顔は人が違ったような精悍さを湛え、表情は穏やかだが……いいや、わたしには判る。穏やかなニトロ・ポルカトの皮膚のすぐ下にはマグマのように滾る怒りがある。それはニトロ・ポルカトがどうして未だに『
……恐ろしい人間には、これまでに何度も相対してきた。
清濁併せ呑む政治の世界に跋扈する古狸に妖狐。人を殺すことを何とも思わずにいられる戦士。人でなしの兄姉。あるいは、恐ろしい希代の王女、ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナ。
しかし、それでも、ミリュウは足が竦まぬよう堪えるのに懸命であった。
これまでに何度も相対してきた相手の誰とも違う迫力。
政治背景等様々な力学も打算も何もなく、ただ純粋に『わたし』だけに向けられる、その眼差し、ただただ純粋な怒り。
ふと、ミリュウの脳裏にリーケインの『花園に来る』の冒頭が浮かんだ。ニトロ・ポルカトの怒りが
(ああ)
改めて知る。
そこにいるのは、想定よりも想像よりも認識よりもずっとたくましく、力強く、何より迫力ある男だ。わたしと同じ人種であったはずなのに、その面影をいずこかの果てへ捨て去り、今や次期王たるに相応しい風格を備えつつある
飲まれそうになる。
真っ直ぐに、心の奥を見透かすような姉とはまた違い、心の奥の触られたくない
「――ッ」
だが、しかし、されど!
ミリュウは息を大きく吸い込んだ。
このまま睨み合い続けるのは分が悪い。
ミリュウは視線を落とした。
ニトロ・ポルカトから、目を逸らした。
小さな敗北に腹の底が疼くが、小さな勝利を求めて大局を見失うわけにはいかない。
視線を落とした流れでミリュウは椅子に座り、椅子に座る短い間に意気を立て直し、再びニトロ・ポルカトを見つめた。
「ショーを盛り上げてくれて、ありがとう」
両肘をテーブルに突き、両手の指を軽く絡ませ合い、ミリュウは沈黙を破った。
「もし、お姉様が帰ってくるまで逃げ隠れたままだったらどうしようかと思っていたわ」
「もし、ティディアが帰ってくるまで逃げ隠れていたら、これ幸いと『“あの程度”にも付き合えない小者』にできたのにね」
ミリュウは眉尻が引き上がるのを止められなかった。
ニトロ・ポルカトは、明らかにこちらの思惑の一つを見透かしていた。そうして極自然と、極めて的確なタイミングで、心の奥の柔らかな所へ素早く針を刺し込んできた。
「残念だったかな?」
続けられた問いには明らかな挑発がある。
挑発に、ミリュウの腹の底から気持ちの悪さが釣り上げられる。
彼女は息を一つ、吐き捨てた。
「いいえ、むしろ “その程度”でなくて、本当に良かった」
声のトーンを落とし、ミリュウは唸るように言った。
「もし“その程度”だったら、わたしは失望して死んでしまうところだったもの」
豹変した――というよりは着飾るのを止めたというべきか。顔に陰を落として睨んでくる少女の微かに震えた声を、ニトロはしかし軽い相槌で受け止めた。
と、その反応にミリュウは思わず声を張り上げそうになったのか、一瞬口を鋭く開き、直後に息を飲んで静かに間を取った。
数拍の時が置かれ、その間二人は目を合わせ続け、
「さすがは『ニトロ・ポルカト』。何も言われなくても全て解っているってご様子ね」
ふいに声のトーンを前に戻し、言ったミリュウの顔には明るい微笑が浮かんでいた。
もし『豹変』という形容を用いるならば、先のものよりも今にこそ付けるべきだろうとニトロは思う。崩れかけた吊り橋を渡っているような不安定感を耳と目の奥に覚えながら、彼は彼の調子を崩さずに切り返した。
「いやいや、解らないことばかりだよ」
ミリュウは微笑みを張り付かせたまま小首を傾げる。
「あら、そう? わたしが『ショー』にお誘いした――というわけではないことは、とっくにご存知のくせに」
「それはね。だけど、その程度だよ」
ニトロは軽く肩をすくめ、一つ、音を立てて息を吐いた。
「小姑の嫉妬? それとも嫌がらせ? それにしちゃあ規模が派手だ。まあ、どっかの星には嫉妬が理由で戦争が始まって数国傾いたって歴史もあるようだけど、とはいえ『ドロシーズサークル』のみみっちい可愛らしさに比べたら“同じ人間”のやることとは思えない。ある程度正面から来ている分、陰険さではあちらの方が上かもしれないけどね」
ミリュウの首筋に強張りが現れる。彼女が何かを言おうとしている気配を察し、それを圧し潰すようにニトロは続けた。
「女神様のためってのは『伝説のティディア・マニア』の行動とすれば筋も通るけど」
ニトロは、ハラキリ、芍薬、ヴィタ――それからマードールと交わしてきた会話を思い返しながら、効果のありそうな要点のみを抽出し、ミリュウに投げつけていった。
「それにしちゃ、私怨が入りすぎているだろう? あの『巨人』には機械の癖して人間みたいな殺気があったよ。もちろんそれは、きっと“操縦者”の意思に違いないんだろうけどさ」
ミリュウはニトロを凝視している。ニトロは続ける。
「なら、純粋にティディアのため?……そういう義憤から出た行動? なんて見方もできるけど。だけどあれだけの私怨を感じたからには、ひょっとして、私怨を義憤で正当化した行動だったりして――なんてことも思う」
ミリュウは唇の内側の肉を噛み締めていた。ニトロ・ポルカトは痛いところを的確に突いて来ている。それが彼だけの考えなのか、それともハラキリや芍薬らの入れ知恵なのかはともかく……その声は、やはり、心の一番触れられたくない柔らかな皮膚に直接牙を立ててくる。
「いやいや、でもまさか、姉を敬愛してやまないあなたが義憤で私怨を正当化なんてするわけはないよね」
ミリュウのコメカミがかすかに波打つ。ニトロは畳み掛ける。
「姉を崇拝するあまり本当にカルト教団を起こした、なんてギャグも考えられるけどねー。でも、それは逆にティディアに対して礼を失する。特に――ティディアの薫陶を受けてきたあなたが行うと特に恩を仇で返すというくらいの非礼になってしまう。なぜならあいつは盲信されることを好まないから。盲信する味方より、噛み応えのある『敵』を好むから。
ねえ?」
正否を促す問いかけに、ミリュウは沈黙を返した。否定を返せないがために。それは、わたしもよく知る事実であるために。
ニトロはミリュウの無言の返答を『沈黙という同意』として受け取ったことを示すために大きなうなずきを見せ、
「さてそれじゃあ何だろう。ティディアの命令か? ってのも当然疑ったけれど、ところがそれはどうも絶対になさそうだ。あいつの様子を見ても、あいつにしては隙だらけな『企画』にしても。――それに、あいつは破局をちらつかせてくることはないしね」
最後に付け加えたニトロの言葉はミリュウに明らかな変化を呼んだ。おそらく感情を読み取られまいとしてのことだろうが、全身を固めた彼女は、それ故にかえって『“姉の恋人”への感情』が心の中で大きな比重を持つことをニトロに報せた。
その確認が取れたところで、ニトロは一度大きく息をついた。