「――かしこまりました」
 やおら、息も苦しげにセイラが言った。
 その返答に安堵したミリュウは目が潤みそうになるのを感じ、慌てて目頭に力を込めた。
「さ、パトネト様」
 セイラに促されたパトネトは姉をじっと見つめる。姉は、微笑む。
「……」
 パトネトはふいにニトロを見た。
 静かに『敵方』のやり取りを観察していたニトロは、少女よりも少女らしい王子の突然の視線に少し驚き、そして、その黒曜石の瞳の奥に何かを訴えるような情を感じて胸をざわめかせた。幼い王子の真剣な眼差しには、何か幼い者が湛えるには不相応な切実さがある。ニトロは、刹那、目を合わせて王子の真情を探った。だが、一体自分に、彼が何を訴えるというのだろう?
「……」
 ニトロはパトネトの胸中を掴めぬまま、
「芍薬」
 ひとまず言うべきことを言った。
 ミリュウが護りを解こうとするならば、
「門で待っていて」
「承諾」
 元より、ニトロはミリュウと一対一で話すことを最も希望していた。それを聞いた芍薬は始めに快くない顔をしたものの、しかし――『話をしてみなくちゃ解らないことが多過ぎる。まずはそれをできるだけ解消して、そこで終われるなら良し、終わらず続くのなら何から何まで受けて立ち……その上で潰そうと思う』という珍しく攻撃的な言葉――『ほら、悪魔って配役をされたからには、ちょっとはそれらしくさ』と洒落めかせて浮かべられた笑顔――マスターは強い怒りを抱えながら、一方で理性と余裕を失っていない。その上での決断ならば、リスクよりも誇らしいマスターへの期待が優位となり、なれば特別芍薬が反対する理由もない。もちろん相手の出方しだいでは臨機応変に対処するつもりだったが、この“流れ”は実際大歓迎である。敵方から提案されるならなおさらだ。
 そのため芍薬の返答は躊躇いも何もなく、敵の前にあって平然と交わされた『護衛解除』のやり取りはミリュウらのものとは比較にならない重さがあった。
 ミリュウは、ニトロに頬の強張りを悟られないことに懸命だった。
 知っていた、知ってはいたが、ニトロ・ポルカトとその戦乙女の結ぶ圧倒的な信頼関係を目の当たりにし、否、見せつけられて、セイラの首肯に得た感動が悔しさに潰されてしまった。それがまた悔しくて、それを悔しいと思う自分がまた悔しくて、悔しさに悔しさが重なって段々泣きたくなってくる。
「わかった」
 と、そこにパトネトが了解を返した。
 幼い彼の答えは力強く、また、それは場に走った“上下関係を決定付ける瞬間”を切り崩す絶妙なタイミングであった。
(――なるほどね)
 ミリュウの体に現れていた別種の緊張が解けるのを視界の隅に置きながら、ニトロはパトネトを称する呼び名の一つを思い出していた。
(『秘蔵っ子様』か)
 じわりと、彼への警戒心が強まる。
 ドロシーズサークルでも思ったが、本当に賢く、とても良い子だ。もしかしたら先ほど真剣な眼差しの中に感じたものは、全力で姉を守ろうとする彼の親愛おもい、それ故の強い敵意だったのかもしれない。
 あの『巨人』といい、アンドロイドだと分かってなお未だに生身の人間に思えてならない『ミリュウ達』といい、それらのエンジニアを引き受けているであろうパトネト・フォン・アデムメデス・ロディアーナ。
 ミリュウ姫とは違い、傑出した才能と華のある容姿から、ティディアと比べても『劣る』と言われたことのない弟王子。
 ティディアを太陽とすれば、ミリュウは惑星の陰側にある月。
 ティディアを太陽とすれば、パトネトは幼き恒星。
 偽りのない彼の姿を改めて目にしてみれば、希代の王女たる姉の面影が本当によく現れている。そしてティディアと彼に挟まれているミリュウを思い浮かべれば、彼女が、『劣り姫』が沈んで見えてしまうのも無理からぬことだ。
「待ってるからね」
 姉に歩み寄り、確かめるように彼女の袖に触れ、パトネトは言う。
「ええ」
 うなずくミリュウを見れば、それが彼女らのいつもの光景なのだろう、傍に控える従者二人をひっくるめてそこに『平常』が戻っていた。そしてそれを取り戻したのは、間違いなく弟王子の振る舞いである。ニトロには、彼の存在感に肌で触れられただけでもここに乗り込んできた価値があると思えた。
 ニトロが見つめる中、弟が離れ、執事が頭を主人に垂れる。追ってフレアも頭を垂れ、静かに部屋から出て行く。
 最後に芍薬がミリュウに辞儀をして――それを見たミリュウに微かな感情の揺れが、開いたドアの向こうの女執事には明らかな動揺が浮かぶ――ドアが閉められた。
(さて……)
 ニトロはミリュウを見つめた。ドアに向けられた王女の横顔には影が濃い。
 太陽は、もう沈む。
 未練がましく残る陽光は夜闇に飲まれつつあり、代わって辺りを照らすのは、こんな時でもいつも通りに王城をライトアップする照明の小漏こもだけ――
ピコ
 と、ミリュウが部屋付きのA.I.に言った。
「明かりを」
 即座に部屋は柔らかで明るい光に満たされた。
 影の中から明らかとなった彼女の顔にはある程度の得心がいった感がある。どうやら、今のはニトロの『部分的な』権限の範囲への探りでもあったらしい。点灯の可否を決められたことで、少なくとも、pがミリュウの命令コマンドを聞かないことはないことが証明された。
 そして、彼女が振り向く。
 ニトロは感じ取った。
(こちらも、油断はできないな)
 直前のやり取りでは隙を見せていた『劣り姫』だが、くにを騒がせるほどに変化を見せた王女の“程度”はまだ測れていない。
 一人となった彼女の顔には再びの微笑みと、その裏に、強固な意志が表れていた。あるいは、それは、一人となったからこその覚悟だろうか。
 それから、それにしても……
(……嫌な感じだ)
 ニトロは未だ席につかず、こちらを見つめて佇むティディアの実妹を明るい光の下で改めて観、内心でそうつぶやいた。
 膝下から裾にかけて軽いプリーツの入るラインの綺麗な藍と白のチェック柄のロングスカートに、白を基調としフリルでアクセントが付けられた品の良いブラウス。背に流れる自慢のロングヘアーは黒紫に艶めき、柔らかく落とされた前髪の下にある顔色は――数日前に見たクマのある目元とは打って変わり、一面に、外見だけは、健康的な薄紅を白い肌に透く年相応の美しさを誇っている。
 その見た目だけは、見覚えに違わず、第二王位継承者と一片の相違もない。
 しかし、カメラという他人の視野を通さず、初めて肉眼で間近に見るミリュウから受ける印象の何と悪いことか。
 これは『攻撃』を仕掛けられたことに対する怒りのあるがためにそう思うのではない。
 彼の感じる『嫌』は嫌悪のそれではなく、言わば悪寒に近かった。見ている内に何か悪いことが起こりそうな――そういったものに対する『嫌』が、見慣れたはずの第二王位継承者の全身に漂っている。
 特に、眼だ。
 とにかく目つきが心に爪を立ててくる。
 先ほど彼女の瞳に見た、得体の知れない醜さ。それが目尻のラインからまるで涙が伝うように頬にかけて流れ落ち、今や彼女の微笑までをも侵している。侵された笑みには、また一つ得も言われぬ何か――恐ろしさだろうか?――がある。
 それら全ては、ニトロにとっては初めて接する気配であった。
 何故、自分にあのような危険な行為を働きかけ、芍薬にまで手を出し……何故、何故とその動機への疑問ばかりを与えてくれる彼女はまた一つ彼に難題を提起しつつあり、それ故に、未知から来る不気味さをも纏い出している。
「……座ったら?」
 椅子の傍らにありながらも立ち続けるミリュウに、ニトロは勧めた。
「いつ座るかは、わたしが決める」
 それに対しミリュウは和やかに、しかしあからさまに断じた。先ほど席を勧められた時には素直に応じていたのに、完全に一変していた。
「お茶でもいかが? 良い葉があるの」
 和やかな口調を声に貼り付けたまま言う彼女の視線は、部屋の片隅に向けられている。そこには見たところ何もなく、白い壁だけがある。
 この部屋に足を踏み入れたことは滅多にないニトロではあるが、しかし、そこに何があるのかは知っていた。そここそは、自分でやれることは自分で事を済ませたがるティディアが第一王女になってから改装された場所――側仕えであるか、第一王位継承者に部屋に呼ばれるほど極々親しい人間でなければ知らぬ場所。普段は視覚的な問題で隠されているが、継ぎ目も何も見えない壁の中には簡易な流し台があるのだ。電映話ビデ-フォンを用いた『漫才』の練習中、ティディアが何度もコーヒーを淹れに行き、一服後には台本の修正を言い出してきたものだった。
 ミリュウの微笑みの裏には、もちろん知っているだろう? という試しがある。
 ニトロは左手を軽く振り、その甲に浮かぶ『烙印』をこれ見よがしに示し、
「遠慮するよ。また何かを入れられたら堪らないからね」
「ひどい言い方」
「そうかな? ああ……でも。ルッドランティーなら飲みたいかな」
 ミリュウの柳眉が微かに動く。
「あいにくカロルヤギの乳を切らしているの」
「そりゃ残念。なら、いつかヒューランさんにでも淹れてもらうよ」
「ルッド・ヒューラン様、でしょう?」
「おっと、これはご無礼を。失礼いたしました」
 ニトロが頭を下げ、目を上げた時、ミリュウは目の動きで彼の失態へ許しを与えた。
 ニトロは、微笑んだ。
 ミリュウも微笑み続けていた。
 微笑みに挟まれた空気が張り詰めていく。
 いずこで巨大な鴉が鳴いているかのように、耳鳴りがした。

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