はた、と、ミリュウは気づいた。
 パトネトの手を知らぬ間に強く握り締めていた。
 慌てて見れば、弟は痛そうにしながらも、逆に強く握り締め返してきている。
「……」
 ミリュウは手の力を緩め、そこで弟がどれほど懸命に自分の手を握ってくれていたのかを知り、歯をきつく噛み締めた。
 片膝を突いたままのニトロ・ポルカトを睨み、相手に動揺を悟られないように深呼吸しながら、崩れた心境に――いいや? 違う。崩れたのではなく、元に戻った心境に体勢を合わせる。
 そうして落ち着いてみれば、
(なんだ……)
 ミリュウは内心で笑った。心体のバランスを整えてみれば、なんだ、これが本当の『わたし』じゃないか。さっきまでの自分は、夜明けの青空の清々しさに酔い、勘違いで自惚れ、議場の喝采に舞い上がっていた愚かな『わたし』だ。
 そうと分かれば何も恐れることはない。
 夜が来た? いいや、違う。わたしは初めからずっと夜の中にいるのだ
 そうと解れば、奇妙なことだが、ミリュウは体が少し軽くなるのを感じた。反面、心は少し重くなったように思う。しかし、それはかえって重心が安定したとでも言えるもので、彼女は次に取るべき行動へ速やかに移ることができることを――やはり奇妙にも――実感していた。
「随分と畏まられるのですね」
 ミリュウは微笑み、言った。
「わたし達の間に、そのような遠慮はいらない……そうは思いませんこと? お義兄様
 ミリュウが『お義兄様』と口にした時、その眼に得体の知れない醜さが掠めた。ニトロはそれを見ながらも微笑み返し、
「そう仰るわりに、ミリュウ様こそ遠慮なさっている」
「あら」
 ミリュウは口元に手を当てた。失態とばかりに小首を傾げ、
「その通りね。では……これでいい?」
いいんじゃないかな?」
 同級生が会話をするような調子で受け答え、二人は再び笑顔を差し向けあった。
 異様な緊張感が場に漲り、セイラがつばを飲み込む音がやけに大きく響く。それを急いて誤魔化すように、ミリュウが言った。
「それにしても、女性の部屋に約束もなく、しかも無断で入り込むなんて、いくらなんでも失礼極まりないんじゃない?」
 ニトロは立ち上がり、先ほど座っていた椅子に腰を落とし、ひらりと左手を振った。
「『闇討ち』するよりは礼儀正しいと思うよ」
 まるで羽のように軽いものを扱うような物言いに、ミリュウは口をつぐまされた。
「そんなところに突っ立ってないで、座ったら?」
 己の対面の空席を示すニトロの誘いに、ミリュウはやや考え、
「そうね」
 うなずき、つないでいたパトネトの手を離す。彼女が一歩進み出そうとした時、ふいにフレアの繰るアンドロイドが横に並んできた。突然の行動を不審に思い、そちらを見る。と、そこで彼女は、ドア側の壁、死角であった所にアンドロイドが一体、音も無く佇んでいたことに気づいて小さく肩を振るわせた。
「ゴ尊顔ヲ拝シ、恐悦至極ニ存ジマス」
 ユカタ、だろうか、キモノ、だろうか……細かな違いは知らないが、遠い辺境の民族衣装をベースとしたらしいデザインの足首まで裾のある服を――おそらく着崩しているのだと思う――緩やかに纏う女性型アンドロイドが、主人マスターに則して最敬礼をする。
 ミリュウは、薄闇に翳っていたためにすぐには気づかなかったが、頭を垂れるアンドロイドの長い黒髪がポニーテールにまとめられており、その容姿は資料で見た『ニトロ・ポルカトの戦乙女』を想起させることに思い至り、
「芍薬ね?」
「御意」
 王女の呼びかけへの返答を改めて聞けば、やはりその声は資料で聞いた通りの凛とした声音。
(……新戦力か)
 資料にはまた、ニトロ・ポルカトがこのようなアンドロイドを有していないことが記されていた。きっとハラキリ・ジジから提供を受けたのだろう。
「会えて嬉しいな」
「光栄ノ至リニゴザイマス」
 言って、芍薬が立ち上がる。
 と、その時、芍薬に対し、フレアがミリュウの盾となるように改めて正対した。
 A.I.達は、対峙した瞬間、緊張の糸を極限まで張り詰めた。
 警備兵の制服に身を包む中性型のアンドロイド。
 くれないの地に金糸銀糸を織り交ぜ三種の花が咲き流れる艶やかな民族衣装を無数のポーチを連ねた太いベルトで留め――開かれた襟や裾の合わせから覗く下には微細な鎖で織られているらしい黒の上下を着るアンドロイド。
 明らかに戦闘用である機械人形達の目がぶつかり合う。
 電脳の世界から冷たい空気が悲鳴を上げながら吹き込んできているようだ。
 A.I.達の緊張に人間もつられて固唾を呑み、
「芍薬」
 その中で、ただ一人、ニトロが気楽な様子で声をかけた。
「ここには話しにきたんだ」
「御意」
 彼の言葉は何も己のA.I.を責めるものではない。争いを止め、かつ、『相手』に意思表示をする言葉であった。
 芍薬はフレアから視線を外し、淑やかな歩調でニトロの傍に歩み寄った。ニトロは身をわきまえるA.I.に労わりの眼差しを向けてから、
「フレア殿もそう屈辱に感じなくていいよ」
 芍薬から目を外したニトロは、無表情にこちらを見つめるアンドロイドの心をまるで見透かすように、言った。
「君が気づけなかったのも、君に伝えられなかったのも、無理はないんだ」
 ニトロは居住まいを正し、こちらのセリフに興味を覚えたらしいパトネトを少し気まずく見つつ、
「今、この城のA.I.達のマスター権限の一部は、俺のものなんだよ。だから“侵入者”への警報は鳴らないし、むしろ“侵入者”の手引きをするし、代理であろうが本物であろうがマスターへ俺の存在を報せることはできない
「どうして?」
 聞いてきたのはやはりパトネトだった。関心の強い話題であるだけでなく、ひょっとしたらこの分野への責は彼が負っていたのだろうか。顔には好奇心とプライドの色が現れている。
 ニトロは少し困り、しかし彼なら大丈夫だろうと無理に誤魔化すことをやめた。ミリュウに対しても、これは真実そのままを伝えたほうが『効果的』なのだから。
「ティディアが『夜のデート』をする時のために……って、俺が部分的にティディアマスター以上の権限を握れるよう命令していたんだ。『いつでも来てね』――いつ、どこからでも侵入可能なように、必要なだけ。セキュリティ崩壊の愚行だって拒絶したんだけどね、もし『あなたがテロリストと手を組んでも、あなたに殺されるなら構わない』とか抜かしやがる」
 ニトロは、ミリュウの眉間に表れている嫌悪感を一瞥し、
「あいつが俺に与えた権限は、バカほど“色々”だ」
「そうみたい」
 悪感情にかえって背中を押されたか、ミリュウがつかつかと早足に部屋に進み入る。ニトロの対面に立ち、優雅な曲線を描く椅子の背もたれに手を置いた彼女は流石に王女らしい佇まいを作った。
 彼女はどこまでも意図的な微笑みを浮かべ、
「警察用アンドロイドを乗っ取れるほどだもの」
「合法的な借用だよ」
 ニトロも応じて微笑みを返す。
 微笑み合い、しばし二人が黙すと、その沈黙を機に二人と一体が歩み寄ろうと足を踏み出した。
 一方で芍薬は動かない――それを視界の端に捉えたミリュウは、
「今夜は『眺望の間』で食べましょう。先に、行っておいて?」
 その言葉に、パトネトもセイラも耳を疑うような顔をした。
 言ったミリュウ自身、内心で自分の言葉に驚いていた。が、すぐに、これがニトロ・ポルカトへの対抗心から出たものだと理解する。
 セイラは、パトネトは、不安と心配に満ちた眼差しをしている。
 フレアはいつも通りの無表情で感情を掴ませないが、その背後、豊かに感情を表す『戦乙女』は余裕に満ちて穏やかにマスターを見守っている。
 ――ここは、この城は、この部屋は。
 例え部分的に『敵』に支配権を握られたとしても、わたしのホームだ。
 ニトロ・ポルカトもそれを絶対に理解している。
 理解した上で、敵陣内にこうしてやってきている。
 それなのにわたしが守勢に回るのは――執事と、弟と、弟のA.I.に囲まれていなければ、護衛と距離を保っている『敵』とすら相対できない、そういう構図を作ってしまうのは……残された最後のプライドが許さない。
 それに、この“流れ”も変えねばならなかった。
 現状、ペースをニトロ・ポルカトに完全に握られてしまっている。
 ニトロ・ポルカトは、強敵だ。わたしよりも強い、認めている、わたしよりもずっと強い。
 強敵を相手にしながら相手のペースで戦うことは愚行だと、姉から教わっている。どうにかして主導権を握るか、少なくとも拮抗させなくては、わたしはきっとここで止めを刺されてしまうだろう。それでは『望み』も何もなくなってしまう。
「……」
 しかし、セイラも、パトネトも眼差しに変化は無く、踵を返す気配どころか首肯の兆しすらもない。パトネトに付き従うフレアは無論何も反応を見せない。
 ミリュウは、瞳に願う意思の全てを集めた。
 口に出すわけにはいかない、意地。そんなに不安そうにしないでと、こんな自分に付き合ってくれている家族へ無言で訴えた。

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