ニトロ・ポルカト――出現。
 その報告を受けた時、ミリュウは本を読んでいた。
 板晶画面ボードスクリーンに表された本のタイトルは、『花園に来る』。
 アデマ・リーケインの著作で、アデムメデスを代表する古典作家の作品であるが故に名著として歴史に名を残しているが、読む人の間では駄作の評価も受けている長編小説。
 十二の時に読破し、姉との読書感想会で「本質的に全体で貫かれるテーマは私感に過ぎないのに、それをスカイニフルの『相対神化論』で表面的にどぎつくコーティングしたために駄作となってしまった。しかし、この作品をそうさせてしまった理由が存在する。この作品の真価は『プロローグ』にこそあり、本編は“クソ長いおまけ”に過ぎないのだ。リーケインは“文豪”という称号に屈して「深い思想と大いに意味のあるもの」という体裁を取り繕ってしまったのだろう。そうして結局、最も書きたい一心を自ら影に追いやってしまった。『プロローグ』を一掌編として見れば、この作品は傑作であるのに」と発表し、姉から「面白い感想ね」と返された――そう、お姉様をわたしが面白がらせた記念の本であり、もう何度読み返したか解らない愛読書。
 ロディアーナ宮殿の『正本の間』には初版本が収められていて、紙製の本の香りと手触りが好きで、さすがに貴重な本を何度も手に取るわけにもいかず、ついには自ら印刷会社に依頼して一冊作らせたほどに愛する本。その一冊も既に手垢で汚れてしまっている。今はいつでも持ち出せる鞄の中にしまってある。きっと彼女は折に触れて生涯読み返し、ぼろぼろになっても捨てることはないだろう。
 それが、ふと、クロノウォレスへの道中、姉の話題に上った。
 報告書を読んでいる時には、すわニトロ・ポルカトへの符丁か何かか――とも思ったが、考える限りそれはなさそうである。そう結論付ければまたこの本を読み返したくなり、無事に大役を果たし、ようやく取れた休息の中、ミリュウは「この一時だけ」と己に言い聞かせてニトロ・ポルカトのことからも離れ、静かに愛読書を読み返していたのだ。
 もちろん全て通読する暇はない。
 だからミリュウは読み進めることはせず、有名な冒頭を繰り返し読んでいた。
 もはや暗誦もできる印象的な場面。
 ――うずたかく積まれた薪が燃えていく。
 ――独りの僧が焚かれゆく。
 ――今、彼が叫ぶ。
 ――「神を愛することが罪でないように、神を憎むことも罪ではない。なぜなら、神は神を憎むものをも愛しておられるからだ!」
 ――彼の声は彼への憎しみの声に塗り潰される。彼と同じ神を信じる者達の憎悪の熱に身を焦がし、それでも彼は説く。
 ――「憎しみから生まれた愛が穢れていると誰が言う! 憎しみは! 愛を生んだ時にきよめられた!」
 ――罵倒の舌が彼を舐め、炎の勢いが増し、彼の足はもはや焼け爛れ、滴る血液は流れ出すそばから炎に巻かれて天を突く。
 ――僧衣を剥ぎ取られ、粗末な胴衣すら与えられず、屈辱にも裸体を晒し、殴り打たれてどす黒く変色した身を赤く染めながら、それでも彼は叫ぶ。愛する神のため、愛する神を貶める信徒への怒りを。
 ――「聞け、人よ! 神の祝福を受けし肉らよ! 愛が浄らかなものだけで出来ていると思うことこそが罪であり、傲慢であり、また人の真実の原罪なのだ!」
(真実の原罪なのだ……)
 敬虔なアデムメデス国教徒であったリーケインが何を思ってこの冒頭を書いたのか。
 この冒頭は主人公が幼き頃に見た火刑の光景であり、驚くべきことに、本編ではこれについての言及が一切されないという謎に満ちた『プロローグ』となっている。そのためアデマ・リーケインの七不思議の一つに数えられ、素人・玄人問わず研究者達はこぞってこの謎に取り組んできた。
 一般的には、この『プロローグ』は本作の要素を抽出した象徴的なエピソードであり、本編はここに込められた思想を『相対神化論』に基づいて詳細に解説する役割を担っている――とされている。単にこれは主人公の感性を前もって読者に報せることを目的としている、というのも有力だ。また、本編とはいっそ切り離し、リーケインが目撃したと記録の残る錯乱した僧を文筆において処刑しているという説もあれば、あるいは焼かれながらも神を愛する男の盲目さを自虐的に批判しているという説もある。これ以降続く、火刑の事細かな描写は読者を処刑場に臨ませる力があり、やがて肺を焼かれて息を止め、次第に焼け焦げていく人体を見る主人公の恐怖と悦楽と焦燥と感激は胸に迫る……これを以って処刑される人間への背徳的な情動を描いた物という見方もある。本編との直接的な関係性の無さから、リーケインが読者に与えた『悪ふざけ』に過ぎない、という説まであり、本文の解釈にまで手を広げれば十人十色の答えが出てくる掴み所のなさがまた謎を呼び続けている。
 さて、ここにこそ真価がある、そう考えたミリュウは――これは、リーケインの素直な想いであるのだろうと思っていた。僧の言葉をつなげるだけでは確かに論は飛躍しているが、逆につなげなければ、一つ一つの説法として読むことは可能だ。それとも、断片的なリーケインの神への想い……とも。
 その上で彼女は、
(愛は、それでも、浄らかなものだけでできているのだと思う)
 着陸に向けて機体が下降していく感覚に身を包み、炎に包まれ死んでいく僧を美しく思う主人公の胸中を指でなぞりながらリーケインに反駁し、一方で心の奥をざわめかせ――まさに、その時だった。
「ミリュウ様!」
 パイロットの緊迫した声がミリュウを現実に引き戻した。
 急を報せる通信に驚く執事とは対照的に、至極落ち着いて彼女は応える。
「何か」
「滑走路に――ッ」
 王軍に所属するパイロットは、特別に訓練された者らしからぬ動揺を表し、言葉を途切れさせている。
「落ち着きなさい」
 と、ミリュウが嗜めた時、パイロットが報告の続きを声にする代わりに宙映画面エア・モニターを王女の前に現した。
 瞬間――
 ミリュウの歯がガチリと鳴った。
 隣からはセイラの悲鳴にも似た声が上がった。
 機が降りようと向かう滑走路に、人がいた。
 黒い衣に身を包み、半身を引き、まるで「いつでもかかってこい」と挑発しているような態度で、まっすぐこちらへ顔を向ける男が。
 王軍のパイロットすらひどく慌てさせられ、驚愕のために執事に息をすることさえ忘れさせられる存在が。
 ニトロ・ポルカトが!
「このまま降りなさい」
 パイロットが一度上昇することを告げるより先に、ミリュウは命じた。
「ミリュウ様!?」
 セイラが半ば声を裏返らせ、抗議する。
 しかしミリュウはそれを無視し、
「轢いても構いません」
「ミリュウ様!」
「セイラ、わたしに逆らうの?」
 再度の抗議に対し、ミリュウは強烈な視線をセイラにぶつけた。今にも席を立ちこちらへ向かってきそうであった女執事は怯み、それでも何か言おうとして――適切な言葉を見つけられないことがもどかしそうに口を結ぶ。
「――大丈夫」
 そこでミリュウは、セイラに微笑みかけた。
 その言葉と、その表情が不思議で、執事は主人を呆然と見つめる。
「あのニトロ・ポルカトが、無策にもそこにいると思う?」
「……ですが、それなら攻撃を受ける恐れも……」
「その時はその時ね。どういう攻撃をしてくるか楽しみ」
 肩をすくめてミリュウは言う。とても気軽な様子でありながら、異様な自信がその表情にはある。
 セイラは、席に座り直した。彼女が視線を戻した先には宙映画面エア・モニターに映るニトロ・ポルカトの双眸があり、こちらも自信に満ちて挑戦的に光っている。
 ミリュウはくっと唇を結んだ執事から同じくニトロ・ポルカトの双眸へと目を戻し、
「これは命令よ。降りなさい」
 はっきりと下された命令に、『ティディアの恋人』への対応を迷っていたパイロットは即座に了解を返した。

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