それは、例の王女と前大使の会話の中に現れた古典文学の話だった。彼が持ち出したのはクロノウォレスへ向かう王女の道中の言動をやけに詳細に記載する報告書の話題であり、そこには読書狂である前大使が王女に「最近、何をお読みになりましたか?」と問いかけ、王女はチュニのそれとリーケインの『花園に来る』の比較をしていると語り、二人は熱い議論を交わした……と記されていたのだ。
 妹姫との件に際し、細部に至り“有益な情報”を引き出そうとするニトロの目は、そこにある微細な違和感を敏感に感じ取っていた。彼の顔には明らかな不審があった。
 とはいえ、なるほどあの報告書の中であの部分だけ異様に詳細であった(議論の要約まであった!)ことを加味しても、それだけでは彼女の言葉に違和を覚える理由にまではならない。そこを問うと彼は「あいつは話題作りのために自分が最近読んだ本は逐一報告して『読書感想会』をしようって言ってくる。それなのに『嘆き』も『花園に来る』も記憶にない。それどころかリーケインで覚えているのは『麦の穂』くらいなもんだよ。それに前大使は最近出版されたものの中で、って流れを作ってたろう? それをぶっちぎったのも、ちょっとらしくない」
 思わず声を上げて笑いそうになった。ニトロは本当に、何だかんだ言いながらも、ティディアに関しては実に強固で確かな意見を持っている。
 ハラキリは声を上げて笑う代わりに半ば感嘆、半ば苦笑を交えて答えた――「あれは拙者への符丁です」
「内容は?」という追求には「守秘義務があります」と答えた。
 もちろん、嘘は言っていない。極めて正直に答えた。それを、感覚を極めて研ぎ澄ませつつある親友は敏感に感じ取ってくれた。返ってきたのは一片の曇りもない「了解」だった。
 ハラキリは思う。ニトロがその守秘義務に追求もしてくれなくて良かったと。これにはきっと『VIPマードールの案内』という“事前の守秘義務”がうまく働いてくれたのだろう。彼はこちらの仕事に関することだと思ってくれたらしい。
 ハラキリは、思い出していた。
 あの本の話は、当然仕事に関わることではない。
 あの本の話は、雪降るヴェルアレインで彼女と話したことの一つだ。
 だからこそハラキリは思わずにはいられない。
 何故、彼女は、わざわざやけに詳細な報告書を作ることを命じてまで自分にあの酒席を思い出させようとしたのか。一つの『最悪の事態』を避けるための予防として取り繕ったあの席を。
 ……推測される結論は、一つしかない。
 あのバカ姫様は、この事態を、一つの『最悪の事態を避けるための予防』と考えているのだ。ヴィタの証言の通り、まず未来において小姑と婿の関係が不良とならないようにする手ということはあるだろうが――しかし、もちろん、それだけでは決してあるまい。それではあの酒席を比較にしてはどうにも天秤に釣り合いが取れない。昨夜の時点ではニトロとミリュウが互いに載せられていることに驚いたが、いいや、新たな『意思』を受けてからはそれだけでは絶対に説明も納得もつかない。
 ならば、愛しいニトロを載せた秤の対には、本当に……一体何が載っているのか。
(こちらが思いつかない根深い事情があるのでしょうがねぇ……)
 符丁の存在を知ってから頭の片隅に置き続けているが、それに関しては未だに腑に落ちる推測すら出せていない。
 ただ、一つだけ確信に確認を重ねられたのは、友達がこの件に――本当にヴィタの証言通りに――相当の覚悟をもって臨んでいるということだ。それだけの覚悟をもって、彼女は積極的な介入を放棄し半ば観客然と態度を決め込んでいるのだ。
 そこで、ふと、ハラキリは思いついた。
(……結局、これは甘えなんでしょうね)
 そう。きっとティディアは、ニトロに甘えている。
 よほど好意的な言い方にすれば、頼っている、とでも言えるのだろうが……彼女は、現状彼の身に降りかかっている問題の解決を、何の説明もなく、不誠実にもただ良い結果だけを求めて彼に丸投げしている。そして彼が自分の要望を叶えてくれることを身勝手に期待している。それが甘えでなくて何であろう。
 彼女がどこまで本気でどこまで冗談か分からない調子で常々語る言葉がある――『遠慮なく迷惑かけられるのが家族じゃない』――思えば今回、それを彼女はどこまでも真実誠実に実践してはいないか?
 もちろんニトロはティディアの『家族』ではない。
 だが、ティディアにとっては、もう、何を言っても家族なのだろう。
 唯一、彼女が心から頼れて、甘えられる存在、たった一人、甘えたい存在――ニトロ・ポルカト。
 それを思うと、あの銀河に跋扈する海千山千の連中を相手にしても無敵の王女様であるティディアが、随分可愛らしくなったものだと頬が緩みそうになる。
「――我が国としては『ニトロ・ポルカト』がアデムメデスの王とならぬ方が良いのかもしれないな」
 と、マードールがつぶやいた言葉が、ハラキリを急に現実に引き戻した。思わず緩みそうになっていた顔を無感動に引き締め、
「何故です?」
 ニトロの――正確には彼の両親の特製ブレンドの――ハーブティーを口に運びながら飄々と促す。
 同じくハーブティーを口にして、マードールは言った。
「頭が切れる上に何を言い出すか分からぬ女王と、冷静に相手を把握して的確にツッコミを入れてくる常識的な王が揃ってみろ。それは、正直、歓迎できない事態だよ」
 ハラキリは小首を傾げた。
「そうですかねぇ、そんなコンビならどこでもいるでしょうに。というより、むしろ組み合わせとしては常道の一つでは?」
 マードールはうなずき、
「しかし度が違い過ぎるだろう? 片翼は天才で、もう片翼は一夜足らずで格上がりしてくるような――強力な『難敵』だ」
「認めます、が」
「それに、だ。
 女王の方は勘定的に敵に回したくない。王といえば感情的に敵に回したくない。そういう人種であり、そういうコンビだ。理屈で計れぬ存在感で心に入り込んでくる怪物と、温かな親交で心に入り込んでくる人格者。特にニトロ君は素直な人柄のためかな、こちらも素直に友好を築きたいと思える。いや、ひょっとしたら、ティディアという猛威を前にすれば、己が“敵”である立場も忘れて『クレイジー・プリンセス・ホールダー』たる優しい彼に救いを求めてしまうかもしれない。妾には、交渉相手としての“ティディア”を知っているからだろう、救いを求めたいと彼に思わされてしまう自信すらあるよ。それなのに、だというのに、こちらは絶対に心を開けないのだぞ? もし心を彼に預ければそれこそティディアの思う壺。間違いなく、あちらの良い様に事を進められてしまうだろうさ」
「……なるほど」
 ハラキリは心の底から感心した。
 他国の王女が挙げる二人、そのどちらの友人でもあるからこそ考えたことは無かったが、言われてみれば確かにそうだ。あの二人が一緒になって攻撃してきたら、ちょっと想像しただけでも厄介すぎる。というか、
「そんなコンビとやりあえ? はっはっ、そうなれば妾はクラウチングスタートからの全力疾走で逃げ出してやるわ」
 そのセリフにハラキリは――王位を得たニトロとティディアが座る円卓から脱兎のごとくスプリンターダッシュで逃げ出すマードールの姿を想像してしまい――思わず噴いた。ちょうど口にしていたハーブティーも噴き出して、むせる。
「……」
 咳き込むハラキリをマードールは初めは何が起こったのかと怪訝に見つめていたが、すぐに事を理解すると瞳を輝かせた。
「おお」
 感動の吐息がその美しい唇を割って漏れる。
「もしやお前から、小細工無しに一本取れたかな?」
 疑問符を打ちながらも確信を得たマードールの声に、ようやく落ちついたハラキリはむすりとした目を向ける。彼の感情も露な眼差しにマードールは大きな満足を得て思い切り笑い、笑いすぎて咳き込み、そうしてぶり返ってきた二日酔いの頭痛に頭を抱えた。
 ちょうどその時、ぱっとピピンが姿を現した。
『要件』を済ませ、瞬間移動で部屋に戻ってきた彼女は、戻ってきた部屋に満面の笑みで苦悶する主人と、その腹と頭を抱える主人へ不機嫌な目を投げる曲者の姿があることに気づき、首を傾げた。
“何が?”――と二人に呼びかける。
「何も」
 と、ハラキリは言った。
 しかしそれにまた頬を緩ませるマードールは、細めた目の奥に一筋の黒を、
「聞け、ピピン。こいつの弱点が判った。さしものハラキリ・ジジも友達には弱いようだぞ。そうと分かれば、ピピン」
 むすりむすりとさらに不機嫌に目を伏せるハラキリに流し目を送り、マードールは声に年上の女性の余裕を含ませた。
「生意気なこいつも、随分可愛らしく見えてくるとは思わないか?」

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