素直で和やかで家族思いで国民思いで――そんな分かりやすい優等生の人物像は、今や粒子の粗いモザイクに隠れている。ニトロはそのモザイクに白い無地の紙を被せた。白紙にはモザイクとその裏にあるこれまでの情報が透けて見える。白紙に新たな情報を上書きしながら、必要とあれば透け見える情報をトレースするに易い状態だ。これなら今後、好感を寄せていた第二王位継承者がどんなに豹変したところで、優しい姫君へ好感を寄せていた記憶のあるがために躓くこともないだろう。
 次にニトロの関心を強く引いたのは、テレビの生中継、そのカメラが彼の目に届けた西大陸へ赴く王権の代行者――王家専用超音速旅客機に乗り込む王女ミリュウの姿だった。
 タラップの上、朝日を浴びる王女の笑顔は昨夜にも増して輝いていた。その輝きはこれまでの彼女の笑顔をくすませてしまうほどに明るかった。……明るすぎて、彼女の笑顔の特質と言うべきものをそのまばゆさの影に隠してしまっているようにニトロには感じられた。そう、『劣り姫』の唯一誰からも褒められていた『和やかさ』が、その輝きの中には感じられなかったのだ。
 もちろん、これは自分が主観的に思う“印象”に過ぎないのかもしれない。その印象の違いを確認したい彼に対し、しかし、芍薬は――A.I.の弱点だとA.I.ら自身が語るように――その感覚的な違いを完全に理解できてはいないようだった。
「一晩でまた人が変わったようだよ。生まれ変わったよう、っていうのかな」
 何とかニトロが違和感を言語化しようとして口に出した言葉は――彼の“印象”を最も的確に表す言葉はそれだった。
「でも、一晩でそんなことってあるのかな」
 そして次の言葉が、それ。
 芍薬は呆気に取られた。ハラキリの『君は器が大きいのだか天然なのだか判らないことが時々あります』というセリフを思い出して苦笑し、それから、その反応に不思議そうな顔を向けてくるマスターに力強い肯定を返した。
 それがあまりに力強い肯定だったものだからニトロは思わず目を丸くし、とはいえ芍薬がそう言うならそうなのだろうと納得した。
 最後にニトロが特に気を引かれたのは、芍薬が以前にまとめてくれた――現在、自宅のデータはジジ家のサーバで保管してもらっている――ミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナの簡単な、しかし要所を押さえたプロフィールだった。
 簡単に要所を押さえるだけでもページが重ねられるティディアのプロフィールに対し、簡単に要所を押さえただけでは姉の一割にも満たない妹姫のそれは、ニトロに初めての、そして不思議な感覚を味わわせた。
 子どもの頃に読んだ本を、何年も経った後に読んだ時に感じるような読感の変化。
 3000字に収まるミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナのプロフィールは、300000字を超える物語が経年の後に読者に与えるものと同じ感覚をニトロに与えたのだ。
 ――世界観が、まず違った。
 彼女の好きなことには、大抵『お姉様との』という冠がつく。そこに以前は何の違和感もなかった。
 彼女の好きなものには、大抵『お姉様の』という冠がつくか、それとも家族に関わるものばかりだ。そこにも以前は何の疑問も持たなかったし、むしろ微笑ましく思っていた。
 彼女の大切なものには大抵『お姉様に』という冠があり、家族という繋がりがあり、ただ一つ“国民”という巨大な存在はあるものの、それは優等生の王女の模範解答に過ぎない。当然以前は何かひっかかりを感じるどころか感心していたし感嘆もしていた。
 だが、今は違う。
 ニトロには新たながあった。
 降って湧いたようなミリュウ姫の攻撃、それに関する複数人の理解と解釈とそれを生む視点を経て、彼自身も新たな側面からかの王女を観ることができるようになっていた。
 プロフィールを読み返す最中、彼は何度も違和を感じ、疑問を覚え、ひっかかった。
 ――ミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナの世界の、何と狭いことか!
 初めて気がついた。同い年で、同級生であるはずの彼女のプロフィールには年頃の少女の感性というものが一つたりとて存在してない事実に。
 もちろん、これは彼女の視野が狭いというわけではない。むしろ同い年で同級生とは思えないほど広い視野を持つことは『王女』としてのプロフィールの中に示されている。しかし『個人』としては、不相応なほどに狭い。いや、あえて狭められているというべきか。二度、三度と読み返してようやく“好きなもの”の中に姉も家族とも無関係にぽつりと“ルッドランティー”なる異物が唯一混入していることを確認できはしたが、それも結局は彼女の執事の作るものであり、つまり、唯一の異物すらもが彼女の身内に関わるものだった。身内に関わるものですら異物となるほどに、彼女は、彼女のアイデンティティは、彼女の持つあらゆる観念は『お姉様』に支配されていた。
 ――ニトロは思う。
 ……彼女の人生は。
 彼女の世界は城と宮殿と……――あの姉の掌の内に、美しく、根も深く、声高らかに完璧な完成度を誇るようにこぢんまりとうずくまっている。
 何となく、ハラキリが口にした『これはミリュウ姫の自立の一歩――見ようによっては反抗期の訪れ』という可能性が一番正しいような気さえした。そしてそれをティディアが歓迎している可能性を――それに無理矢理付き合わされることに反感を覚え、押し付けようという『女神』の身勝手さに憤りながらも――納得しそうにもなってしまった。
 ニトロが第二王位継承者の既存の人物像の上に被せた白紙には、いつしか、既存の人物像よりも一回りも二回りも小さな輪郭が描かれ出していた。彼の手によって薄くよれた線で走り描きされたミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナの肖像のためのラフ画は、やはり、背中を丸めてじっとうずくまっている。
 ニトロの目は何時間もうずくまる王女の姿に注がれ続けた。
 彼の視界は全てミリュウに向かって凝縮していた。
 耳は彼女の過去の発言を聞き、彼女の声だけを聞き、だから、彼はドアがノックされたことにも初めは気づけなかった。
「−−主様!」
 突然芍薬の大きな声に『耳』を破かれ、ニトロはびくりと肩を震わせた。まるで潜り込もうとするかのように宙映画面エア・モニターに近づけていた顔をハッと振り上げる。
「ハラキリ殿ガキタヨ」
 テーブルの上、携帯電話の上に映し出される芍薬は首を傾げて困ったように眉を垂れている。
「ソロソロ昼食モドウダイ?」
 時計を見れば、既に正午を過ぎ、短針が1に差し掛かっていた。
「……そうだね」
 気づけば目も乾いている。ニトロは一、二度強く瞬きをした後、ソファを立った。
 昼食には冷蔵庫の中の(自費では手を出しにくいほど)高いレトルトのハンバーグでも食べようかと考えながら、ようやくやってきた『殿下の使者』を迎えようとドアに向かい、開く。
 すると、
「――おや」
 ドアが開きこちらと目が合った瞬間、ハラキリが少し驚いたようにそう声を出して目を大きくした。
 ニトロは眉根に怪訝を刻んだ。それを見たハラキリはすぐに驚きを飲み込むように目を細め、言った。
「どうやら、よく眠れたようですね」
 ニトロはハラキリの態度にいくばくかの訝しみを残しながらもそこにはツッコミを入れず、また、彼の体に感じた小さな異変にもここでは触れず、
「お陰様で安心して眠れたよ。寝覚めはそう良くはなかったけどね」
「おや。それはまたどうして?」
「悪夢にツッコミ入れる自分の寝言で起きた」
 ニトロのセリフにハラキリは笑い、
「それはまた君らしい話で」
 親友の笑い声に含まれる臭いにニトロは確信を寄せ、内心ふむと息を落としていた。とはいえ、まあ、それを咎め立てするのはきっと無粋だろう。そう判断し、彼はドアノブから手を離すと替わって肩でドアを支え、訊ねた。
「それで?」
 その促しに、ハラキリはこれはうっかりとばかりに言った。
「アシュリーが、もし昼食がまだだったら一緒に食べようと。『お願い』はその時に聞くそうです」
「了解」
 ニトロはうなずき、続けた。
「こっちもちょうど昼食をとろうって思ってたところだよ」
 そこで彼は服が昨夜のままであることを気にしたが、気にしたところで替えを用意する時間はない。クリーニングに出して間もないことでもあるし、ハラキリもスーツのままだ。このままで構わないだろう。
 ニトロは一度部屋内に戻って芍薬のいる携帯端末をポケットにいれ、そして案内人の背を追った。

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