天啓の間から姉の部屋に戻り、パトネトが眠りにつくのを見届けたミリュウは、弟を起こさぬようバルコニーに出た。
 運び出した椅子に座り、縦横三窓ずつ宙映画面エア・モニターを表示させ、それからもう何時間も彼女はアデムメデスの喧騒を眺め続けていた。
 不思議と、眠気を感じない。疲れも感じない。
 心身の奥には、ニトロとその戦乙女に殺されるという死の体験が残した痺れがある。そして――息を吸う――そう、まさにそこから生き返ったのだという実感が心身を満たしている。
 ミリュウは生涯最高の冴えを感じていた。
 定期的に切り替わるモニター群の映像が、理解しようとしなくても理解できる。一言一句が鮮やかに記憶に焼きつき、一秒一分一時間前、その時々のモニター群の映像全てをはっきりと思い出せる。
 充実していた。
 やがて夜が明けて、東の果てから陽炎が立ち昇る。
 次第に明るさを増していく夏空の下、今朝の空気は柔らかく、ミリュウは絶えず微笑みを浮かべていた。
「お祭騒ぎ」
 ミリュウは呟いた。
 アデムメデスの喧騒は、朝が星を巡るに従い賑わいを増している。声は反響する間に音量を増し、大声で他者を起こして回る。
 プカマペ教団のサイトにはアクセスが殺到し、早々にサーバーが落ちてしまった。実に満足だ。
 メインの復旧はまだなされていない。しかし現状、複数のミラーサイトと“善意の”コピーサイトが殺到するリクエストに応えている。実に愉快だ。
 さらには『巨人ヌイグルミ』や『教団変身セット』なる商品も登場し、目ざとい商人の参入を見込んで権利をフリーにしておいた甲斐もあり、その市場はじわりと拡大を始めている。それに連れ立ってこの祭への参加者も止まることを知らない。実に素晴らしい!
 ミリュウは時間を見、宙映画面エア・モニターを一つとし、そこにプカマペ教団のミラーサイトを表示させた。
 サイトの動画ページでは、ちょうど今、映像の生中継が始められていた。
 画面にはミリュウが肉眼で見上げる空と同じ色の黎明と、それを背景にして、天を貫かんばかりに地に突き立つタワービルがある。不夜城たるその場所には、期待通りに多くの目と口があった。
 ミリュウは吐息を漏らして笑った。
 その『信徒』は、シェルリントン・タワーの前にいた。
 その姿を世界に伝えるのは乗っ取られた周囲の監視カメラだ。生中継の映像が三つに分かれる。すなわち、三つの監視カメラが多角的に信徒を映し上げる。
 信徒は一人、シェルリントン・タワーの前に跪いた。
 サイトに新しい情報が加わる。
 動画の下に、文章が浮かび上がる。
――プカマペ様よプルカマルペラ
  我らが導神よプルカマルペロ
  我にティディア様の御加護をア・ヴィンガ・ウ・ウォルバル・ティディア
  我らはティディア様を讃えますアー・ヴォンガ・ウ・ウォルバト・ティディア――
 記されたものは、唱え言葉。アデムメデスの古い古い古語を用いた祈りの詞。
 やがて信徒の前に警備アンドロイドが一体、立った。そのアイカメラもジャックされ、サイトの動画が一つ増える。アンドロイド視点の映像には信徒の発する『ミリュウ姫』の声も拾われていた。
<プルカマルペラ
 プルカマルペロ>
 信徒は、サイトに書かれた祈りの言葉を唱えていた。
<ア・ヴィンガ・ウ・ウォルバル・ティディア
 アー・ヴォンガ・ウ・ウォルバト・ティディア>
 それに合わせて、ミリュウも呟いた。
「プルカマルペラ
 プルカマルペロ」
 いつまでも空に残り、朝に抵抗せんとする夜を押しのけ強い光が、走る。
 日の出だ。
<ア・ヴィンガ・ウ・ウォルバル・ティディア
 アー・ヴォンガ・ウ・ウォルバト・ティディア>
 何度も繰り返される詠唱に呼び覚まされるように、朝の光が強さを増す。
<プルカマルペラ
 プルカマルペロ>
 声量を増していく祈りの言葉に比例して、信徒を包む光量も増す。不思議とそこだけスポットライトに照らされているように、日の光が信徒の周りだけ弥増いやましている。
「ア・ヴィンガ・ウ・ウォルバル・ティディア
 アー・ヴォンガ・ウ・ウォルバト・ティディア」
 熱を込め、真摯に、朗々と唱える信徒に合わせ、ミリュウも謳う。
「プルカマルペラ
 プルカマルペロ」
 信徒は、誠心誠意唱え続ける。
<ア・ヴィンガ・ウ・ウォルバル・ティディア
 アー・ヴォンガ・ウ・ウォルバト・ティディア>
 信徒は力強く祈り続けた。プルカマルペロ、プルカマルペラ……それをいくつ重ねた頃だろうか。太陽が夜を完全に払い終えた時、信徒が、祈りを止めた。
 信徒は立ち上がると、ローブを脱ぎ捨てた。
 信徒はやはり、ミリュウの姿をしていた。
 その首にはラクティフローラのイコンがあり――その者が神官アリンだと知れた。
 神官の周囲には人だかりができている。
 大勢が作る円陣の中心で、黒地に銀糸で刺繍を施した司祭服を着たアリンは瞳を燃やして言った。
<世に在りし、女神の真の御心に惹かれし清らかな眼を持つ者らよ。時は今、今を除いて希望の灯る時はない>
 アリンは祈るように重ねた手の内にイコンを納め、落ち着いた、しかし力強い声で、
<ティディア様の御心は、悪魔に犯されている。
 女神の真の御心に救われし清らかな心を持つ者らよ、気づいているはずだ。
 ティディア様を真に愛する者らよ、知っているはずだ。
 見よ! ニトロ・ポルカトは、ティディア様から光を奪う。
 ティディア様の、アデムメデスの女神がもたらす栄光の新世界を我らから奪う。
 ティディア様を心から愛する者は知っている。
 ティディア様の御心が、ただ一人の男に向けられていることを。
 見よ! 等しく我らに降り注がれていたあの眼差しが、もはやただ一人の男に奪われていることを。
 女神の畏怖、その真の威光を知る者は気づいている。
 神の威が薄れていることを。
 ニトロ・ポルカトの善を装う悪意に、女神の覇気が奪われつつあることを。
 ニトロ・ポルカトが善を装う悪意で女神を犯し、その聖なりし偉大なる御力を失わせようとしていることを!>
 アリンは、一つ息をついた。
 ミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナと同じ姿、同じ声を持つ神官の言葉には、ある特定の人間達への特別に強いメッセージが込められていた。
<共に祈ろう。我らがティディア様の真の神威を知る者らよ。共に祈ろう。ニトロ・ポルカトを、悪魔を、ティディア様のため、滅ぼすのだ>
 伝説のティディア・マニアたるミリュウの声を、全国のティディア・マニアは聞くだろう。
<時は今、今この時を逃せば、未来永劫悪魔の手からティディア様をお救いする機はない。そうだ、未来永劫だ>
 アリンは、ミリュウの顔で――伝説のティディア・マニアの顔で、繰り返し断言した。
<我らが力を持て。祈り、一つに束ねよ。共に唱えよう。
 我にティディア様の御加護をア・ヴィンガ・ウ・ウォルバル・ティディア
 我らはティディア様を讃えますアー・ヴォンガ・ウ・ウォルバト・ティディア
 さすればプカマペ様が、我らの願いを叶えてくださる。
 我らが憎むべき悪魔を、神の御業を以て打ち滅ぼしてくださる>
 アンドロイドのアイカメラに映る『ミリュウ』は、真っ直ぐ、それ以上無い澄み切った顔で、言った。
<そうして我らの頂に、ティディア様はお戻り下さるのだ>
 そこで、映像は切れた。
 ミリュウはエア・モニターを再び九分割し、それぞれに特に目をつけていた過激な――あるいは短絡的な『ティディア・マニア』のコミュニティ・サイトを表示させた。

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