ニトロは顔をそちらに向けた。
 テーブルの上、離れた場所にいる芍薬は、肩をすぼめてニトロを見つめていた。
「怒ラセタラ御免ヨ。デモネ主様、コレハネ、主様ガソレダケ期待サレテイルコトハネ、あたしニハ――自慢ナンダ」
 言い切ったことで腹を括ったのか、芍薬は縮こまっていた肩をすとんと落とした。
「主様ノA.I.ニナッテカラ、あたしハ主様ヲズット見テキタ。最初ハヤッパリ頼リナイトコロハアッタシ、覚エテル? 主様ノA.I.トシテヤッテキタ日、主様ハ精神的ニ追イ詰メラレテテノイローゼ寸前ダッタ」
 芍薬は思い出し笑いを堪えるように口に手をあて、口に当てた手をすっと頭のカンザシに触れ、
「デモ、主様ハ、ソレカラドンドン見違エテイッタ。頑張ッテ、頑張ッテキテ、今モ頑張ッテイテ、ソウシテトウトウ無敵ダッタハズノ王女ノ相手トシテ多クノ人ニ認メラレルホドニナッタンダ。モチロン『バカ姫ノ相手トシテ』ッテノハあたしモ面白クナイケドネ、デモ、ソレハ主様ガ間違イナク自分ノ実力デ出シタ結果サ。恥ジルコトモ、悔イルコトモナイ。あたしノ大事ナ主様ノ栄誉ダ。ハラキリ殿モ言ッテタダロウ? 『それだけの人になった』――あたしモソウ思ウ。ダカラあたしハ……」
 そこで芍薬は首を振り、言い直す。
「ダカラ主様ハ、あたしノ誇リダ」
 ニトロは思い出していた。
 ハラキリの言葉。
 ――『どんな時も拙者は君の変わらぬ友達です』
 彼はきっと、マードールとの会話を経て後、自分がこの“自覚したが故の思い”を味わうことを知っていたのだろう。だから、あの時、照れ臭さから逃げるようにしながらも、それでもああ言ってくれたのだ。
「コレカラドンナコトガ主様ヲ取リ巻イテモ、大丈夫」
 そして今、すぐ傍にいる芍薬の言葉が心を温めてくれる。
 芍薬はしゃんと背を伸ばし、力強く言う。
「あたしハズット変ワラズ主様ノ『戦乙女』ダヨ。ソシテ主様ハイツダッテ『ニトロ・ポルカト』サ。王女ノ恋人デモ狂戦士デモ救世主デモナク、あたしノ優シイマスターダ」
 ニトロの耳に、芍薬の声が反響する。
 芍薬の力強さが伝える思いの形、また厚い信頼も伝わる温かい眼差し。何よりその強い意志が――大丈夫と確信させようとする芍薬の心が、彼に圧し掛かろうとする数え切れないほど多くの他者の『期待』、そしてそこに深く根をはる“大丈夫”を洗い流していく。
 先ほどまであった喉の渇きは嘘のように消えていた。
 深い水底にいるようにあらゆる方向から感じられた重さもない。
 喉を締めつけられていた感覚までも、芍薬の明るい声に吹き飛ばされている。
 ニトロは知った。
『……いやもうマジで、どうしろと?』
 少し前に感じた疑問、いや、嘆き。しかしその嘆きはもはやどうとしなくてもいいものなのだと、彼は知った。
 国民の期待を裏切れば、間違いなく責められるだろう。例え自分に責められるいわれがなくとも、人は生きているだけでも『生きている者の責任』を問う生き物だ。きっと無秩序にあらゆる言葉を投げつけられ、その猛威が生む暴風に吹き飛ばされ、その圧力が作る荒波に飲み込まれもしよう。
 だが、自分には、着地点がある。どれだけ大嵐の荒海の中で方角を見失おうとも、お前の戻る場所はここだと引っ張ってくれる存在がある。
 変わらぬ友でいてくれると約束してくれた親友。
 そして、自分のことを誇りにしてくれる、家族。
 それがあるなら――そうだ、マードールの宣告の衝撃に暗んだ目を元に戻してくれたように、この二人があるなら何がどうなろうとも『ニトロ・ポルカト』は己を見失わずに立っていける。例え望む平穏な暮らしは得られなくとも、望まぬ未来ばかりであろうとも、しかしこの幸運と幸福がある限り、ただ嘆きが人生に勝ることなどありえない。
 それなのに、嘆きのあるがために嘆く必要なんか、決してない。
 嘆くのは嘆きが訪れた時、その時に涙するので十分だ。それなのに遠方にある嘆きに向けて声を上げるのは、それは嘆きではなく、嘆きへの耽溺というものだろう。そしてその耽溺に陥れば、きっと嘆くことでしか自己を慰めることができなくなり、最後には慰めを求めるために嘆きを探すようになってしまう。そうなればいつしか絶望に目を奪われ何も見えなくなってしまうだろう。見えなくなって、落とし穴に気づかず死んでしまうのだ。
 それは何と危うく、何と愚かで、何と哀しいことだろうか。
(……)
 ニトロは左手の烙印を撫でた。
 この受難の象徴は、その花は――心を救う花。芍薬の花。
 嘆きのあるがために嘆く必要はない。
 そうと分かったら、ここは一つ開き直ってみようか。
 八方塞? 人生チェックメイト?――それがどうした。心が死ななければ命ある限り抗える。八方が塞がっているなら十六方を探せばいい。チェックメイトだというなら勝利条件を変えてやる。平穏な人生だけに幸せがあるわけではない。望んだ未来が幸福を携えて待っているとも限らない。
 しかし最大にして最小、最小にして最大の幸福は既にこの手にある。
 これからどれだけ望みが絶えようとも絶望の暗みに目を奪われることはない。
 これからいくらでも『ニトロ・ポルカト』は、『ニトロ・ポルカトの人生』を活きとして生きていけるのだ。
「芍薬」
「何ダイ?」
 ニトロは微笑んだ。
「ありがとう」
 芍薬も微笑み、嬉しそうにうなずく。
 ニトロは芍薬の笑顔を目に焼き付け、それから天井に顔を向けた。
 深く息を吸い、吸った時よりも長く息を吐く。
「さすがに疲れたよ」
 まるでティディアを相手にした日のように、いつも通りのやれやれ感を漂わせてニトロは言った。
「オ腹ヲ冷ヤサナイヨウニ掛布ケットヲチャントカケテネ?」
「うん」
 芍薬の注意を受けたニトロは体の下に敷いていた薄いケットをもそもそと引っ張り、体の上に掛けた。
 照明が次第に光量を落としていき、長い一日の終息を告げてくる。
「オヤスミ」
 いつも通りの芍薬の声がニトロを撫でる。
「おやすみ」
 ニトロは口元を和ませ、目を閉じた。すぐに仕事熱心な睡魔がやってくる。そして彼は、受難の日の最後に、穏やかに夢の世界へと誘われていった。

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