ハラキリに礼とお休みの挨拶を交わした後、部屋に入ったニトロは一直線にベッドに向かい、そして倒れ込むように突っ伏した。
「オ疲レ様」
 テーブルに置きっ放しだったハラキリの携帯電話の上に、肖像シェイプが映し出される。
 もそもそと靴を脱ぎ、ニトロは、ごろりと仰向けに転がった。
「何か、動きはあった?」
 天井を見るニトロに問われ、芍薬は、もう休むことを勧めようとして――やめた。マスターの横顔は真剣だ。
「ミリュウ姫ニ動キハナイ」
「『世間』は?」
 即座に継げられたその問いに、芍薬はニトロの知りたいことを悟った。そして彼が真剣な顔で、何を思っているのかも。
「……オ祭騒ギダヨ」
 芍薬は、言った。
「重大事件扱イハ、ホトンドナイ」
「ほとんど、か。その内容は?」
「ネットノ片隅ヤテレビノ討論会デ一言二言出テル程度ダケド……ヤッパリ、ソレデモアレガ『クレイジー・プリンセスの悪ふざけ』ノ“パスティーシュ”デハナイト疑ッテル者ハイナイ」
 ヴィタの言葉をトレースして芍薬は言った。続けて、
「ソシテ重大事件扱イノ内容ノホトンドハ『ヤッパリアノ兄弟ノ一人ダッタ』ッテトコロダ。珍シイトコロジャ、主様ヲ謀殺シテ自分ガ“成リ代ワル”ツモリダ、ナンテノモアルケドネ」
「全身整形して、性別も換えて?」
「御意」
「そうしてわたしはお姉様のお婿さん、か。ぞっとしちゃって笑えないなぁ」
 ニトロは枕を引き寄せ、頭の下に置いた。
「ミリュウ姫ハ『プカマペ教』ヲ国教トスル気ダ! ッテイウノモアルヨ」
 ニトロは吹き出した。
「そいつは凄い。でも、そうなったらハラキリも巻き込まれるかな?」
「既ニ天使扱イサレテル。翼ヲ生ヤシテ慈悲ノ顔デ空ニ浮カンデルヨ」
 再びニトロは吹き出した。その絵を想像して声を上げて笑ってしまう。
「ソノ主張ヲシテイル奴ハ、アノ『映画』ヲ“予言書”ニシテ、ソレデ多次元的エーテル意志ガドウノッテ言ッテル。『ティディア・マニア』デモアルラシクッテ勝手ニ国教化ヲ宣言シテ、ソコニ現国教ノ熱心過ギルノガ噛ミ付イタ。ブッ飛ンダ論争ガ異次元空間ヲ作リ上ゲタトコロヲ物見屋ウォッチャーガ発見シテ、チョットシタ話題ニナッテルヨ。他ニモ過激ナ『ティディア・マニア』ノコミュト『ティディア&ニトロ・マニア』ノコミュガ喧嘩シテタリ、コレマデ息ヲ潜メテイタ『ミリュウ・ファンサイト』ガ活気付イテタリシテルネ」
 ニトロが横目を向けると、芍薬はやれやれとばかりに肩をすくめた。彼は微笑み、
「みんな、楽しそうだね」
「ブックメーカーハ『ミリュウ姫ノ次ノ手ヲ当テヨウ!』ッテ大忙シダ。『巨人ヌイグルミ』トカ『教団変身セット』トカノ予約ヲ始メテルトコロモアル」
「おや。そこの権利関係は?」
「ノータッチ宣言。『女神ハソレヲ信奉スル者ノ発展ヲ願ウ』――ダソウダヨ」
「そりゃ豪儀だなあ。でも後でハラキリと制作委員会に絞られるぞ、きっと」
 ニトロは肩を揺らし、目を天井に向け直した。
 そして、
「……みんな……楽しそうだ」
 ため息をつきながら、再び言う。
 人が楽しむ姿を見るのは、聞くのは、知るのは、嫌いじゃない。むしろ好きだ。
 けれど……
「……芍薬」
「――言ッテイインダネ?」
「確かめたい」
 芍薬は沈黙を挟んだ。三秒ほどの間だったと思うが、ニトロにはとても長く感じられた。
「『ニトロ・ポルカト』ガイルカラ“大丈夫”――ダカラ皆、安心シテイル」
 その瞬間、ニトロは深く息を吐いた。
 ヴィタ、ハラキリ、マードール……三人が異口同音に語っていた言葉が芍薬の報告に混ぜ込まれ、今まさに事実としてここに固着する。
 また喉が渇きを覚えた。粘度の上がった唾を無理矢理飲み込んで渇きを誤魔化す。深い水の中にいるようにあらゆる方向から重さが感じられ、特に喉が締めつけられているようだ。もしかしたらこの喉の渇きの正体は、喉を圧迫されることを誤ってそう感じてしまっているからなのだろうか。
 ニトロは苦しげに息を吸い、そしてつぶやいた。
「そっか……」
 その一言はやけに部屋に響いた。残響を起こすだけの広さも装置もないのに、彼の声がこだまして彼の耳に返ってくるようであった。
 鈍い痛みが頭を締めつける。
 腹の底に疼痛が湧いて気持ち悪い。
 彼はひしひしと感じていた。
 マードールが言ったことは、半ば図星だった。
 ――『君は、解っていないな。それとも自覚しているのに、無自覚でいたいのかな?』
 まるきり無自覚でいたわけではないが、しかし本質的なところは無自覚だった。
 ……いや、本当のところは、きっと、マードールの言う通りに『無自覚でいたい』から自ら気づかぬようにしていたのだろう。半ば図星ではない。しかと図星だったのだ。
 だが、もう、無自覚ではいられない。そういう振りをすることもできない。
 もちろん、多くの人間の――語弊を恐れず言えば“国民の”その期待は……決して望むのではない。自分はそんな風に思われるような人間ではないし、そう思われるのに一種の恐ろしさも感じる。『ニトロ・ポルカト』は、なぜなら、あまりに虚飾で彩られてしまっているのだから。
『ティディアの恋人』として培ってしまった立場。
『映画』の主演を勤め上げ、ティディアとの漫才も成立させている“タレント性”。
『トレイの狂戦士』としての過大評価。
『スライレンドの救世主』として作り上げられてしまった虚像!
 何より――『クレイジー・プリンセス・ホールダー』としての存在感――希代の王女の戯れに付き合わされているだけのツッコミ役としては、分不相応も甚だしい評価の数々!
 それらの成立過程において自分の責任が一切ないとは言わない。
 例えばハラキリの事情を鑑みて嘘をつくことを選ばずにいたなら、間違いなく『ニトロ・ポルカトの手柄』の幾つかは消し飛んでいる。であるのに、それを知りながら手柄を与えられる結果を受け入れたのは、紛う方なく己の決断のためだ。己の決断である以上、その点までも誰かに責任を押し付けるつもりもない。
 しかし、思う。思わずにはいられない。
 ティディアの夫婦漫才という『夢』に都合の良い癖を持っていたことで、次第に構築されてきたこの状況は一体どうしたことだろう。高校の入学式で長い校長の挨拶に思わずツッコンだ、そしたら次期王候補になりました――なんて、その因果にどんな脈絡があるというのだ。改めて考えるといやもう本当になんだそれ。
(おかしなことになったもんだ……)
 左手の『烙印』を撫でながら思わず漏らしそうになったつぶやきを、ニトロは辛うじて喉の奥で止めた。
 その嘆きを芍薬に聞かせるのは悪い。
 おかしなこと――国民に期待されたからといって、どうしろというのだ――その戸惑いを露呈しては、芍薬に無用な気遣いをさせることになってしまう。
 なにしろ期待に応えるということは、例え今回の件をちゃんとまとめたところで『期待』に応えきったことにはならないのだから。
 ミリュウ姫との問題を収めることは単なる通過点に過ぎず、最終的にはクレイジー・プリンセスの夫となり、最凶の彼女を抑え込む『良心』となり、また希代の女王が統治する未来を約束する王となることで自分はその『期待』にようやく応じることが可能となるのだから!
 ……いやもうマジで、どうしろと?
(ティディアの恋人なんかじゃない俺に)
 考えれば考えるほど絶望しか出てこない。
 期待には応えられないし、そもそも期待を受ける前提条件から崩れているというのに、『期待』に応えねば多くの人間に大いなる失望を与え、そうして普通に暮らすには難しい苦境が訪れることが目に見えている。
 正直、八方塞だ。ティディアの求愛とやらを受け入れるのは望まぬ未来であり、それを跳ね除けたところで結果として望む平穏は手に入らない。人生……チェックメイト。
「デモネ」
 と、ふいに、芍薬がおずおずと言った。

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