ニトロが言うと、そこでマードールは気づいたらしい。さっとハラキリへ振り返る。
「ま、ニトロ君にここで殿下を嫌気させるのは、打算的に考えて不利益が多いものですから」
 飾りのスライス・オレンジを齧りながら、ハラキリは、ニトロとは反対に気軽に言う。
「人工霊銀に関しても。これについてはこちらが風上でも、他面ではそちらの後塵を拝する事案がありますのでねえ。“我が偉大なる姫君”のことを考えれば殿下に失態を踏ませて機嫌を損ねるのは面白くない」
 齧り終えたオレンジをバーテンダー・アンドロイドが差し出した小皿に捨て、ハラキリアは続ける。
「ついでに言えば――本当はこの『視察おしのび』の真の目的が隠し通されることを期待していたんですがね。まあ、拙者にとって最善とならなかったとはいえ、それでも、ニトロ君に正直に接することを選んだ可愛くない妹へ、誠意の一つくらいは贈ってやってもいいでしょう」
「下手に隠そうとしていたら、どうしていたつもりだ?」
 試しに聞いてみた……といった感のマードールの問いに、ハラキリはプッシー・キャットを一口飲み、
「どうもしませんよ。ただその場合、ニトロ君の信頼を勝ち得ず、そのためにお姫さんからの評価も下げられたマードール殿下は、失態ついでに普段の行動に関してもぐちぐちお叱りを受けただろうと想像いたします。もちろんこんなハイリスクな命令を出されたことに殿下も言いたいことがありましょうが、まあ、『負いの渡り姫』はとかく都合良く扱われるものですから大変ですよねぇ」
 ハラキリの遠慮仮借ない軽口は、それがあまりに遠慮仮借なさ過ぎて逆にマードールを笑わせた。その頬は苦々しさと痛快さが入り混じり、何とも言えぬ形に歪んでいる。
「試していたつもりが、実は妾が試されていたか」
「とんでもない。そんな恐れ多いことは致しませんとも」
 そうは言っても彼の言い分を信じる者は、マードールはもちろんニトロも芍薬も、さらには部屋の隅に控えるピピンも含めて誰もいない。この場で最も誠実でない者は、されど最も平然として続ける。
「まあ何はともあれ、殿下はこの場合において最善を選ばれたということです。でなければ、彼は貴女にあのような優しい言葉をかけなかったでしょう」
 それまでハラキリに目を向けていたマードールが、言われてふいとニトロへ振り返る。
 と、
「ッ」
 ジッとマードールの横顔を見つめていたニトロの目とマードールの目が衝突し、互いに不意の出来事に目を瞠って息を飲む。
 ニトロの目にはぎょっとした驚きだけがあった。が、マードールは違った。彼女は自分を見つめていた少年の瞳に物憂げな色があることを見て取って、ふと大人の女性の余裕を見せるように目を流し、
「どうかしたのかな?」
 ニトロは少しの間、押し黙った。
 彼の脳裡にはハラキリが口にした言葉が反響していた。
 ――『負いの渡り姫』
 そう呼ばれた彼女の顔を背後からジッと掠め見ていた時、ニトロは、何とも言えぬ思いを味わっていた。
 太古から超能力者の存在が認められ、幻想的な――まさに幻想的な自然環境を持つセスカニアン星には、それゆえの呪術的・神秘主義的な文化・伝統の背景がある。
 例えばセスカニアン王室で唯一下々と触れ合う役は『負いの渡り』と呼ばれ、その役にある者が決して重要な地位に置かれないこともその一例だ。それどころかその立場にある王子女は儀礼的に――あるいは実際に――他の王族に敬遠される。王らの神聖性を守るために一人王威を背負い、臣民らに権威を顕わす役を担うのに、だがそのために“神”と“俗”双方の『罪』に触れ、それにより双方の世界の『毒』をも背負うが故に敬遠されてしまうのだ(この起源は催眠能力ヒュプノシス等で王族が害されることへの予防措置であるそうで、超能力への対抗策が科学的な面からも発展した現在では半ば形骸化したしきたりにもなっている)。
 それを個人の背景にしながら、マードールは歴代でも特に――半ばしきたりを破るかのように――『外結界げかい』に渡って様々な人々と親しんでいる。王族の中での彼女の立場は押して知るべしであろう。そしてその一方、時に形骸化したしきたりの数々を怠慢の盾にしていると批判されるセスカニアン王室が、時に彼女にどれだけ守られているかということも忘れることはできない。
『とかく都合良く扱われる』というハラキリの言葉が、耳の奥を痺れさせる。
 耳の痛いことを突き刺す最中に王女がふと送ってきた労わりが脳裏に蘇り、からかいにも自虐にも慰めにも見えた彼女の表情が瞼に再生し……最後のハラキリとマードールのやり取りがまた、耳に沁みる。
 王女と個人の――同じ人間の中での同じ人間同士のせめぎ合い。
 その上で、マードールは、打算まみれであっても、それがどうしようもない苦し紛れの駄作であったとしても『彼女』にできうる限りの誠意を示そうとしてくれたのだ。
 ニトロは、言った。
「何だか、自分の同級生の方がアシュリーよりずっと年上に思えたものですから」
 それはもちろん、嘘だ。
 だが、まるきり嘘というわけでもない方便。
 微笑を浮かべるニトロのそれを、マードールはふっと形のない笑顔で受け止め、
「そりゃ年数はお兄ちゃん達の三倍を数えてるけど、社会的な年齢って意味じゃそう変わらないからね」
 ニトロに応じてアシュリーの口振りで、マティーニに口をつけながら言う。
「それはさすがにサバ読みすぎでしょう」
 それに対して、ニトロがツッコむ
 するとマードールは妙に楽しそうに、口を尖らせながらも目を細めて応える。
「卒業したての女子大生ならいい?」
 拗ねたようなわざとらしい口振りに、ニトロはからかいの笑みを作って肯を返す。
 そこにハラキリが加わってきて、
「どちらにしろ青二才ってことですか」
「まあねー。成人式もまだ二回残しているから」
 セスカニアンでは法的には21歳で成人とされ、文化・社会的には21歳から七年ごとに計七回行われる通過儀礼を修めて大人と認められる。そして大人となるまでは半人前、青二才、成人見習い、あるいは運転免許取立てのドライバー……アデムメデスの感覚に無理矢理翻訳するならそういうことになるらしい。
「それにしても」
 と、マードールは少し上目遣いにニトロを見つめ、嬉しそうに言う。
「ちょっと思ってたんだけど、ウチのことに結構詳しいみたいだね」
「結構身近な国ですからね。何度か旅行に行ってみたいと思ってましたし、それに亡命先の一候補でもありますから」
「亡命先?」
 好意的な言葉を追って突然現れた不穏な言葉に、マードールが驚く。
 ニトロは少し“してやったり”の顔をして、
「言ったでしょう? 俺はティディアと結婚する気はないと。だから、将来のことを考えれば生活の基盤を他国に移す選択肢が当然出てきます。まあ亡命というにはちょっと大袈裟かもしれませんけどね、でも……受け入れてくだされば、そちらにはそれなりにメリットがあるでしょう」
 先に自身が語った『メリット』をそのまま言い返されたマードールは、う、と言葉を飲み、それを誤魔化すようにマティーニを口にした後、
「……う〜ん」
 うなり、腕を組み、口を引き結んで首を傾げ――それはそれは不満そうに言った。
「恋人ではないっていうのは、本気の本当だったのか……」
「? ええ」
 思わぬほどの残念がりように戸惑いながらも、ニトロはうなずきを返す。
「愛していないというのも?」
「本気の本当ですよ。何なら彼女に確かめさせたらどうです?」
 と、ニトロが背後のピピンを指して言うとマードールはそちらを見やり、それから首を左右に振った。
 その行動を視界の隅にニトロが芍薬を一瞥すると、芍薬は目礼を返してくる。ピピンの伺い立てにマードールは否定を返した――つまり、ピピンが精神感応能力者テレパシストでもあることと、その力を無断で使っていないことの両方を確認して、ニトロは他国の王女の『誠意』に最終的な信を置いた。
「サマー・ディライトを」
 サンドリヨンを飲み干し、バーテンダー・アンドロイドに注文する。
 それを横から眺めていたマードールの目が、こちらの意図を察する動きをしたことにニトロは気づかぬ振りをして笑いかけ、
「まあ、そういうわけで。ハラキリの言う通り、仲良くしていただけるのはこちらとしても打算的にありがたい」
 言うと、マードールは一瞬面食らった顔をして、それから派手に吹き出した。吹き出して、次第に声を高め、終には大声を上げて笑い出す。
「……そんなに面白いことを言ったかな?」
 ニトロに問いかけられたハラキリが愚問をとばかりに肩をすくめる。
「君は器が大きいのだか天然なのだか判らないことが時々あります」
 バーテンダーが差し出したサマー・ディライトを受け取り、一口飲み、ニトロは眉間に皺を刻んだ。
「天然ってのはちょっと嫌だなあ」
「はあ、しかしカエルの子はカエルと言いますが」
「親と子は他人とも言うな」
 ハラキリはニトロの強硬っぷりに眉をひそめた。
「別にそんな嫌がることでもないでしょう? 酷い親ならともかく」
 それに対してニトロは口を尖らせ、
「酷い天然だから嫌なんだよ。俺は迷子になったから迎えに来てと子どもに向けて放送される親にはなりたくないの。しかも一度や二度じゃなく、さらに当人迷子になったのは本当だからって恥ずかしがらないんだぞ?」
「ピンポンパンポン――ニトロ・ポルカ様、お連れのリセ・ポルカ様が迷子センターでお待ちです、“早く迎えにきてねー”あ、お母さま駄目です勝手に“ぶびゃー!”“あらあらミーちゃん、ジュースを鼻からファイアしちゃってどうしたの?”あああ、すいません手伝ってもらガコプッ……パンポンピンポン――でしたっけ」
「朗らかに迷子として迷子たちと遊んでる母親見たら泣けるぞ、いやマジで」
「あっはっはっはっ!」
 一度は収まりそうになっていた笑いを再び爆発させて、マードールが大口開けて涙をこぼす。ツボに入ったらしい。足をばたつかせて息も絶え絶えになるまで笑い続け……
「……もったいないなぁ」
 ようやく落ち着いたところで、彼女は言った。

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