――ショックだった。
面と向かって言われたその言葉――次のアデムメデスの王――それは決して初めて言われたわけではない言葉だが、しかしニトロは、他国の王女の口からその言葉を投げかけられた瞬間、極めて激しいショックに見舞われていた。
聞く前からそう言われることを悟っていたのに……それなのに、目が
手に汗が滲む。
額に熱がこもる。
ひょっとしたら今自分は夢を見ていて、そうでなければ悪夢が現実に紛れ込んできたのでは?――などと非現実的なことを考えてしまう。ここは本当の自分の居場所ではないのだ。だから、いっそさよならと別れを告げて去ることができたなら、どんなに楽なことだろう。ここが間違いなく『現実』であり、偽りなく望まぬ形になってしまっている『現実』であり、そして、現実から立ち去ることなどできないことを解り切ってしまっているからそんなことはやっぱり決してできないのだと知り過ぎてしまっていて、だからこそ、この現実が否定されたらと望みたくなる。――望みたくなる? 違う、望んでしまうのだ。望んで、それが叶わないことを自ら己に告げながらも、それでもどうしても望んでしまう!
動揺と葛藤が擦れてぶすぶすと黒い煙が湧き上がる。
目がまた暗む。
もはやこの世界に自分以外の何者も認められない。隣には、周りには、ただただ『人の形をした何か』だけがある。
喉が渇く。ああ、やけに喉が渇く。
彼はまだ口をつけていなかった液体を喉に流し込んだ。
味が感じられない。
喉もまだ渇いたままだ。
それなのに、舌を慰めることも喉も潤すこともできないくせに、冷えた液体は腹の底に落ちると猛烈な冷気を体内に巻き上がらせた。それは背骨を通じて頭脳を痺れさせ、血管を通じて血肉を凍らせ、そのついでに体の芯をどこかに持ち去っていく。芯が奪われた後にはつれて心の置き所も失われ、空洞化した心身の内に不安感が吹き荒れる。自我の支えまでもが激しく揺らいだ。いや? 揺らぐも何も、そもそも、 の支えは何だったっけ……?
彼はふと体が浮き上がっているような気がした。酷く捻じ曲がった力にまとわりつかれ、どこかに吹き飛ばされる恐怖に襲われた。途端に命綱が欲しくなり、カウンターに手を突き身をよじって自分がちゃんと椅子に座れていることを確認する。
と、その拍子に、彼の目がカウンターの上の『人の形をした何か』を捉えた。何か? そういえば、何かとは何だ?
はたして手元の小さな機械の上に立つ何かは、一体、何だったろう。
こちらを見上げてくる小さな人……これは――ああ、そうだ……芍薬だ。
芍薬と目が合った。
芍薬は眉を垂れている。
芍薬は何も言わず、ただひたすらにこちらを見つめている。
しかし、芍薬は呼びかけてきていた。
そしてその声を、彼は聞いた。無言の呼びかけを確かに彼は聞いた。
彼は――ニトロ・ポルカトは、静かに我を取り戻した。
現実の時間としては刹那のことであったろう。だが、壮絶な動揺の中では時の進みは遅く、不自然な時の流れに放り込まれた心はそこから逃れた今もまだ息を切らしている。流れに飲まれた先で訪れた暗みの深淵、失望と絶望の手がびっしりと生え並ぶ生き地獄の底から浮上しえた今もまだ、その恐怖の名残のために心臓は高鳴り続けている。動揺は……全て消え去ったわけではない。
「――」
ニトロはもう一度サンドリヨンを飲んだ。
爽やかな甘酸っぱさが舌を蘇らせ、喉を潤す。
深くゆっくりと息をつき、わずかな時間で必要なだけの落ち着きをどうにか取り戻したニトロは改めて隣を見た。
やはり、そこには『人の形をした何か』などはいない。やはりそこにはセスカニアンの王女にして極めて重い贈り物を差し出してくれたマードールがいる。さらにその向こうには、いつも通り飄々として、どこか人を食ったような雰囲気の親友がいる。
「……」
ハラキリと目が合ったところでニトロは芍薬に目を戻し、微笑んでみせた。
そして、
「それは、決定事項ではありませんよ」
気を張るように言い、彼はマードールに向き直る。
「それどころか、殿下の貴重なお時間を無駄にさせることとなりましょう。次代のアデムメデス王の座に、私はいません」
至極丁寧に、噛み締めるように、ニトロは断言した。
それから人称を戻し、続ける。
「だから、俺のことをそのように思うのはやめてください。何を考え俺に貴女との面識を持たせようとしているのかは――解ります。しかしそれは意味の無いことです。あの場から助けてくれた人の期待を無闇に裏切るのは本意ではありませんから、はっきり言っておきます。
俺は、ティディアを愛していません」
マードールの瞳には、真っ直ぐセスカニアンの王女を見るニトロがある。
「もちろん恋人でもない。それはあいつが勝手に言っているだけのことで、あいつの言葉でそうなってしまっているだけで、真実は、俺はただの『漫才の相方』です。決して女王の夫としてこの国に立つ未来はありません。
だから、俺とどんなにコネクションを築こうとも、セスカニアンに優位がもたらされることはないでしょう。今回のことには深く感謝します。しかし、だからこそ、どうぞ他のことにもっと時間を使って下さい」
マードールはそこでふむとうなずいた。
ティディアの恋人ではない――ニトロが公に何度も口にしている告白を受け、一度彼から視線を外す。
ニトロは、マードールが例によって『真実』を『照れ隠し』だと受け取ってしまうことを危惧した。可能な限り真摯に言ったつもりだが……それでも、これまで一度たりともティディアの『呪い』を覆せたことがないために。
「マティーニを」
ピーチフィズの残りを一気に飲み干し、マードールはカウンター内のアンドロイドに注文した。アンドロイドは空となったピーチフィズのグラスを下げつつうなずき、素早く一杯を作り上げる。
目の前に差し出されたカクテルグラスを見つめ、マードールは言った。