約束の1時となり、ハラキリがニトロを案内したのは超VIPルームに備えられているバーだった。
 十人が腰掛けられるカウンター席のみのバーはやけに広い部屋の一角にあり、推測するに、どうやらここはパーティーを開くに適した場所であるようだ。光量を落とされたシャンデリアの輝きを薄く反射する床は、目を近づけることもなく磨き上げられているのがよく判る。今は何も置かれていないそこではダンスをしてもいいだろうし、ビリヤード台などを運びこませて遊ぶのもいいだろう。
「いらっしゃい」
 にこやかな声が、カウンター席の真ん中から飛んでくる。
 どういう気合の入りっぷりなのか、衣装を変えるだけでなく――先がフェミニン系であったのに対し、今は胸元も大きく開いたアダルトな装いに――髪型まで変えたマードールがニトロを手招きしていた。
 その手招きにはどこか魔的な力があり、瞬間、ニトロは、ハラキリが隠し事をし、それが隠される事を芍薬も支持していたことを思い返し、
(……さて)
 内心の姿勢を正して、彼は歩を進めた。
 髪をアップにまとめたことで尖耳人エルフカインドの特徴であるピンと尖った耳があらわとなり、いや、それを強調するようにマードールは髪を整えたのだろう、それによって音に聞く幻惑の美女の妖精性がさらに際立っている。おかしなことだが近づくほどに彼女が神話の中の存在なのだと感じられてきて、今この場に関わらぬことであるのに、かの国の王族が神秘にして神聖な世界に住まう高貴な人々なのだと心に刻み込まれていく――刻み込まれそうになる。
 ニトロは、表に出ないようにゆっくりと深呼吸をした。
 マードールとの距離が適度に詰まったところで足を止め、吐き終えた息を次の言葉の分だけ吸い戻し、自己の意識の中で幻惑の美女から麗しき王女へ、そして一人の女性へと認識を整えた相手に頭を垂れる。
「先ほどは我儘をお許しいただき、ありがとうございました」
 約束の時間を直前で延ばしてもらったことに対するセリフに、マードールは笑みを浮かべたまま頭を振った。
「全然、気にしなくていいよ」
 その口調は妹設定のものだった。親しげに自分の左の席に座るようニトロを促す。
「お兄ちゃんはこっち」
 と、ニトロの隣に座ろうとしていたハラキリを、彼女は鋭く制した。その細い指は右隣を示している。ハラキリは大人しくその命に従い彼女の右に座った。
 そういえばあの従者は? とニトロが周囲を見渡せば、ここから最も離れた部屋の角に長身の女性が直立不動の姿勢でいる。どうやら彼女はこの会には不参加であるらしい。今はメンズファッションに身を包む彼女を見ていると、男装……とまではいかないが、何となくヴィタの姿が思い浮かんだ。
 と、席も落ち着いたところで、何十もの酒瓶が並ぶ棚の裏側から専属のバーテンダー・アンドロイドが歩み出てきた。
 オーソドックスなバーテン服に身を包み、落ち着いた中年男性の造型。部屋に相応の品質なのであろうアンドロイドの動作はとても柔らかく、三人の前に立ち注文を促す所作には“まるでその場にいないような貫禄”が漂っている。
 マードールはニトロを見ると、
「ニトロ君は、お酒は飲める?」
「未成年ですので」
「セスカニアンに飲酒の年齢制限はないよ」
 つまり、ある種の治外法権ということか。
 しかしニトロは微笑を浮かべ、やんわり断りを入れた。
「ここは王都ジスカルラで、俺はアデムメデス人ですから。サンドリヨンで」
「固いなぁ。まあ、いいや。お兄ちゃんは?」
「サマー・ディライトを」
 マードールは眉をひそめた。
「ここは私に付き合うところでしょう?」
「埋め合わせは後ほど。どうせ残りの日程では貴女にたっぷり付き合うのですから」
「本当にそうなら、いいけどね」
 ちくりとハラキリに嫌味を刺しつつ、マードールは一転、機嫌良く言った。
「私はピーチフィズ」
 バーテンダー・アンドロイドがうなずき、それぞれの注文に必要な材料を用意し始める。
「もう一人参加させてもよろしいですか?」
 手際良くドリンクが作られていくのを横目に、ニトロがマードールに訊ねる。彼女は、彼に微笑を返した。
「ありがとうございます」
 小さく頭を垂れて、ニトロは携帯電話を――ここには自分の物を持ってきた――カウンターの上に置いた。立体映像ホログラム機能が働き、芍薬が肖像シェイプを表す。芍薬は白と淡紅のグラデーションでデザインされたドレスを着ていた。
「姫殿下ニオカレマシテハ御機嫌麗シク、祝着至極ニ存ジマス」
 スカートを持ち貴婦人流の辞儀をするオリジナルA.I.を見るマードールの瞳は、驚くほど輝いていた。まるで意中の宝石を目にしたようでもある。
「あなたが芍薬なのね」
「御意。先刻ハ挨拶モナクゴ無礼ヲ致シマシタ。マタ、主人ヲ助ケテイタダキ、感謝ノ言葉モゴザイマセン。タダタダ心ヨリ御礼ヲ申シ上ゲマス」
「丁寧にありがとう。でも、あなたも楽にして? 普段着で。ね? 『ニトロ・ポルカトの戦乙女』さん」
 軽くウィンクをするマードールに芍薬は再び頭を下げ、服装をいつものユカタへと戻した。
「あら可愛い。アデムメデスにそんな服あったっけ」
地球チタマ日本ニチホントイウ地域ノ民族衣装デス」
「へぇ」
 うなずくマードールの前に薄紅色に満ちたコリンズグラスが置かれる。ニトロの前には淡いオレンジで満たされたカクテルグラス。ハラキリの前には、軽いザクロ色が注がれたタンブラーとそれぞれに。
 ニトロは、今一度部屋の隅に一瞥を送った。その視線に気づいた従者が、軽く頭を下げることで『気遣い無用』と伝えてくる。
 体の向きを直したニトロは、ふと、マードールがこちらを見ていることに気づいた。
「……何か?」
 ニトロの問いかけにセスカニアンの王女は目尻をそばめ、オレンジ、パイナップル、レモンのジュースで作られたノンアルコールカクテルを指してからかうように、
「サンドリヨンなんてよく知ってるね。もしかして本当はこういうところに通い慣れてるんじゃない?」
 ああ、と一つうなずき、ニトロは応えた。
「父が食事に関わるものが好きなものですから。場の雰囲気を壊さないのに便利だよ、と教わっていたんです」
「へぇ。でも、別に気を回さないでカプチーノを頼んでも構わなかったのに」
 ニトロはマードールのセリフに違和を感じた。警戒心までもが妙に疼く。が、その違和の正体を探るには時間がない。会話の流れをよどませぬようそれはひとまず脇に置いておき、言う。
「折角この席にお招き預かったのですから」
「……ま、そうね」
 マードールは愉快気にうなずき、それから早速ザクロ色のノンアルコールカクテルに口をつけているハラキリに言った。
「さ、お兄ちゃん?」
 その促しを受けたハラキリは、面倒臭そうにため息をついた。
「えーっと、ニトロ君」
「ん?」
「改めまして、こちらがアウシュラナ=アディ=フォフマィラ=マードール・リォルナム様。ご存知の通り、セスカニアンの第五太子殿下です」
 王女を紹介するには気楽に過ぎる調子だが、先んじて軽く頭を下げてきたマードールがそれを歓迎している。
 ニトロは相手の調子に合わせ、軽く頭を下げた。
 よろしく、と挨拶をしあい、顔を上げたところでマードールが言ってくる。
「マーたんって呼んでね」
「ご勘弁願おう」
 あんまりふざけた要求を、ニトロは反射的にばっさり切り捨てた。
「さすがです。拙者も初めから君のように断じたかった……」
 羨ましそうなハラキリのつぶやきを聞き、ニトロははっと我に返った。
「それは、あの、恐れ多すぎますので」
「別に気にしてないよ。普段着でって言ったでしょ?」
「そうでしたね……では、敬語だけは守らせて頂きますが、それ以外は遠慮無く」
「了解。で? それじゃあ名前はマーたんでよろしくね」
「いえ、マードールさんで」
「マー「マードールさんで」
 マードールはニトロが強気に、それも一変してえらく強固に出てきたことに目を丸くし、ハラキリを見た。

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