父と母――第128代王ロウキル・フォン・ジェスカルリィ・アデムメデス・ロディアーナと王妃カディは、王朝の長い歴史の中でも特に凡庸と言われ、またそれを自称した。実際、現君主の政策能力への評価は高くない。
 けれど。
 第128代王ロウキルと王妃カディは、二人共に慈悲に溢れ、人徳に満ち、積極的に国民と交流を持っていることから、王朝の長い歴史の中でも特に国民に親しまれている王・王妃として讃えられている。
 政においては貴族や政治家に王笏を委ね、王権つるぎを持って王威を示すこともなく、それでも敬意を集め愛されている幸せな君主。
 だけど。
 幸せな君主の子ども達は、王家の歴史に強烈なインパクトと異彩をもって名を遺す才覚を備えていた。
 もちろん、ただ才覚に溢れる子女が揃う一家はこれまでにもあった。しかし才覚に溢れた上で大小問わずにスキャンダルを連発し続ける子女が揃った一家は前代未聞、かつ空前絶後だろう。
 長兄ロイスは、爽やかな美顔を持つ父に柔らかな美女である母の良い点を加え、精悍な美男子ながら女性的な色気を備える王子として国の女性に熱狂を呼んだ。その女心を手中に収める術はあらゆる業界のプレイボーイ達が舌を巻き、芸能記者は芸能人を放ってロイス・フォン・アデムメデス・ロディアーナを追いかけ続けていた。
 兄ロイスは、今では『色魔』と軽蔑を込めて呼ばれている。
 三人の女性を同時期に妊娠させたこと――それが長兄の王位継承権候補者の座から追われた理由だが、もちろんそれだけが原因だと信じる者は少ない。今でも真の理由はこれだと性に関わるあらゆる醜聞が噂されている。そしてまた、実はお姉様が追い落としたのだと、まことしやかに囁かれている。
 それらは……概ね正しい。
 本来、ロイス・フォン・アデムメデス・ロディアーナという人物に、それしきの醜聞程度で王位継承権を手放すような良識はなかった。なのに失脚したロイスは自ら継承権を辞退し、王族としての身分を捨てることまで申し出たのだ。
 結果としては、王族の末席に籍を残し、身を隠して暮らすことになったが……そのロイスの不可解とも言える行動を規定した真実は、あれがティディアお姉様に『殺された』ことにある。
 ――あの夜は、風の強い夜だった。
 ちょうどセイラがわたしの執事としてやってくる一週間前。
 わたしが七つ、お姉様が十の時。
 今でも鮮やかに思い出せる。
 十歳にして、お姉様は既に『女』の魅力を備え出していた。
 精神のみならず肉体の発育も早く、肢体は女性特有の曲線を描き出し、成長した暁には絶世の美女となると誰にも疑わせず、五歳の折にセスカニアンこくの大長老に『蠱惑となる』と予見された通り、既にその時分から色の香りで男性のみならず女性までをも虜としていた。
 それを狂った『色魔』が見逃すはずもない。
 公務のためロイスがティディアお姉様のグレイフィード宮殿を宿としたあの晩、わたしもそこにいた。
 わたしはお姉様とベッドを共にし、久々に聴くお姉様の子守唄のお陰で幸せな夢を見ていた。
 けれど。
 幸せな夢は、おぞましい悪夢に犯された。
 ――物音に目を醒まし、隣で、同じベッドで、ロイスとティディアお姉様が見たこともないキスをしている姿を見た時、わたしはまだ夢の中にいて、そうでなければ起きたまま悪夢の中へ迷い込んだのだと本気で思った。
 だけど。
 違った。
「ようやく私の想いに気づいてくださったのですね」
 お姉様は言った。
「この日を心待ちにしておりました」
 十二も違う実の妹の未熟な胸を鷲掴みするケダモノへ、お姉様は甘く言った。
「お兄様が私をお求めになって下さるこの日を」
 その時、わたしはお姉様の言葉の意味も、二人がしようとしていることが何なのかもはっきりとは理解していなかった。ただ、おぞましい。それだけは分かった。止めなくては、お姉様を守らなくてはと思ったけれど、あまりに恐ろしく、目をつぶり身を固めることしかできなかった。
「しかし、ここではミリュウを起こしてしまいます」
 お姉様の声は、それまでに聞いたことのない声だった。
「部屋を変えましょう」
 ロイスはお姉様の意思を無視しようとしていた。
「お願いです……だって……初めてなのに、恥ずかしい」
 その言葉に、ロイスは馬鹿みたいに興奮していた。
 お姉様とロイスは部屋を移った。
 二人が出て行き、扉が閉まった後、わたしはひとしきり、吐いた。
 吐いて吐いて泣いて、喉と鼻を焼く胃液の味に、お姉様を助けなくてはと焦燥を呼び起こされた。
 追った。いかにあのロイスといえど、わたしが泣き叫べばお姉様にひどいことはできないと思った。
 けれど。
 二人のいる部屋を見つけた時、その半開きの扉の向こうから聞こえてきたいやらしい男の啼き声を聞いた時、わたしの足はすくんでその場に崩れ落ちることしかできなかった。
 薄明の点けられた部屋。
 ソファに座るロイスが、声を上げていた。
 お姉様の姿は見えなかった。
 ……見えなくてよかった。
 ケダモノの股間に顔を埋めるお姉様の姿など。
 ロイスが何か言っていた。
 お姉様の笑い声が聞こえた。
 わたしは、声を上げることすらできなかった。
 お姉様がなぜ笑っているのかも分からず、呆然としていた。
 そして、
「――――!!!」
 ロイスの悲鳴が、わたしを貫いた。
 ロイスの体が伸び上がり、そしてロイスはもんどりうってソファから落ちて姿を消した。気絶したらしい。ぷつりと切れた悲鳴の後は、静寂だけ。
 ソファの陰から、お姉様が姿を現した。
 暗がりの中、白い肌が神々しく輝いていた。
 立ち上がったお姉様は口から何かを吐き捨て、脱がされかけていた服を直すとソファに悠然と座った。手を叩く。部屋に何かが落ちた。三体のアンドロイドだった。天井裏に隠れていたらしい。
 アンドロイドの一体が、お姉様と正対するようにロイスの体を動かした。
 ロイスの顔がわたしの目に触れた。凄まじい形相が黒い塊となって、そこにへばり付いていた。
 お姉様がアンドロイドの差し出した水で口をすすいでいる間、別のアンドロイドがロイスの下半身に何かをしていた。それからロイスを動かしたものが、ロイスの気を取り戻させた。
 気がついたロイスは何が起こったのか解らないようだった。けれどお姉様と自分の股間を交互に見、事態を理解して、数多の女性を虜にしてきた美顔を再び醜く歪めた。
 お姉様に向けて何かが叫ばれた。内容は覚えていない。苦痛と憤怒に染まった罵倒は汚らしく、聞いた者の魂を穢れさせるものだったように思う。叫ぶうちにパニックをも引き起こし、金切り声を上げて狂乱するロイスはケダモノを通り越し、魔物だった。
「耳障りね」
 それは、静かな声だった。
 だけど。
 わたしは凍りついた。
 心臓が止まりそうだった。
 今まで聞いたことのない姉の声。
 恐ろしく絶対的な声。わたしはその時、お姉様に連れられてフォグノマ火山で見た赤黒いマグマを思い出していた。
 ロイスの声がやんだ。いえ、声を上げるのを強制的に止めさせられた。恐慌の様子も消えうせていた、いいえ、強制的に消し飛ばされていた。
 わたしから見えるロイスの顔は汗と涙と泡立つよだれに汚れ、今にも砕けそうなほどに噛み締められた歯が異様に白く照り輝いていた。飛び出るばかりに剥き出しとなりぬめぬめと光を放つ眼は、怒りのためにそうなっていたのか、恐怖のためにそうなっていたのか、今でも窺い知ることはできない。
「安心なさい。もう片方は残してあげる」
 お姉様はそう言って、からかうようにカチカチと歯を鳴らした。
 すると、ロイスはそこでようやっと自分を取り囲むアンドロイドに気づいたようだった。ロイスは怯え、叫び、そしてまたお姉様を口汚く罵った。
 お姉様はロイスに好きに叫ばせながら、言った。ロイスの叫び声で埋め尽くされていたわたしの耳に、お姉様の声は不思議と透き通って聞こえてきた。
「おかわいそうに、お兄様」
 お姉様の深い憐れみは、ロイスを呆けさせた。
「早く治療をしなくては」
 お姉様の合図で、三体のアンドロイドが動いた。アンドロイドはいつの間にか異様な道具を携えていた。ロイスが、身の凍るような悲鳴を上げた。
「やりなさい」
 お姉様の命令で、一体がロイスの上半身を床に押し付けた。ロイスの下半身は、本人の意志では動かせないようだった。麻酔を打たれていたのだろう。二体のアンドロイドが屈みこみ、それから――それからは、よくは覚えていない。あまりに楽しそうなお姉様の言葉を断片的に覚えているだけだ。
「今からもう片方に――のはね、爆弾よ」「けど爆発はしない――――ただ毒が――――」「いつでも――スイッチを――」「除去なんて――――」「――回数も制限――回出したら……ボン」「口外――――――私は――いつでもお兄様を――」「そうそう、毒――――全身が―――――」「――で――面白おかしく死んじゃうの」
 無理矢理手術を受けさせられている間、ロイスはお姉様の悲惨な『物語』を聞かされ続けていた。悲鳴と、泣き声と、再びパニックに陥った男の助けを求める懇願の全てが、お姉様の楽しげな“歌声”に飲み込まれていた。
 やがて我を取り戻したわたしは部屋に逃げ帰り、嘔吐物に汚れたベッドへ身を隠した。そこで初めて、わたしは漏らしていたことを知った。ふいに、ふと見えた姉の瞳にあった底知れぬ何かを思い出し、兄であった男の悲惨な姿を思い出し、また吐いた。
 しばらくして、お姉様が帰ってきた。
 お姉様は震えながら懸命に寝たふりをする愚かなわたしの頭を撫で、とてもとてもお優しい言葉をかけてくださった。
「怖い思いをさせてしまったわね。駄目なお姉ちゃんで、ごめんね」
 わたしは堪えきれず、また泣いた。お姉様にしがみついて大声で泣いた。
 謝った。わたしも謝った。
 何も考えられず、わたしは泣いて謝ることしかできなかった。
 お姉様は汚物にまみれたわたしを、嫌がりもせず抱き締め返してくださった。
 何度も何度も頭を撫で、優しい言葉をかけてくださった。
 ――当時、恐ろしいクレイジー・プリンセスの片鱗を誰にも見せていなかったティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナの恐ろしさを世界で唯一人知ったわたしは、いよいよお姉様への愛を深めた。
 恐ろしい……恐ろしくてたまらない姿を見せてくれたお姉様。
 その一面はわたしにとって、まさに畏れ敬われる神が業深き人間に天の火を落とす顔に他ならない。
 お姉様はわたしの唯一の神。
 ああ、優しくも恐ろしく、怖ろしくも慈愛に満ちた女神様。
 今になっても思う。
 女神の胸に抱かれるわたしの栄光を。
 幼いわたしは幼くともちゃんと知っていた。神の秘密を漏らす妖精は、神の怒りで石となって砕け散ることを。だから、お姉様も口止めをしようとはなさらなかった。
 一ヶ月の後、急にロイスの身辺が騒がしくなり、三人の妊婦が現れた。中には未成年もいた。
 そうしてロイスは第一王位継承権を手放し、慌しく姿を隠した。

→4-7-dへ
←4-7-bへ

メニューへ