ニトロにあてがわれた部屋は、無駄に贅沢なビジネスホテルのワンルームという趣だった。もしかしたら使用人等のためのものなのかもしれない。バスとトイレが備え付けられ、冷蔵庫には飲み物の他に最高級のレトルト食品が詰め込まれている。ルームサービスの受け取り口も傍にあり、ここで一週間隠伏することとなっても不自由はないだろう。
 シャワーで汗を流し終えたニトロは、着心地はまるで綿そのもののバスローブに身を包んで洗面鏡の前に立ち、櫛型のドライヤーを手にしていた。
 ドライヤーのスイッチを入れ、髪を梳く。濡れた髪は一梳きごとに乾いていく。
 着ていた服は、ルームサービスを使って超速クリーニングに出してもらった。十五分もあれば洗浄・乾燥共に終わるという。約束の時間には間に合う公算だ。
 髪を乾かし終えたニトロは部屋に戻るとソファに座り、テーブルの上にいる芍薬に笑いかけた。
「人心地がついたよ」
 芍薬の肖像シェイプはニトロの端末から、ハラキリが忘れていった携帯電話に移っている。
「何か変わりはあった?」
「御意。マズハソノ『烙印』ニツイテ」
「うん」
 笑みを消し、ニトロはうなずく。体を洗う際に試しに擦り落とそうとしてみた『烙印』は、相変わらず左手の甲に青い芍薬の花を咲かせている。
「教団ノサイトニ情報ガ出テイタ。フザケタ話ダケド、マルデ映画ノ公式サイトミタイニ“設定”ヲ語ッテイテサ……『なお、烙印を消すためには、悪魔の血によって贖うか、聖痕の血で浄化するか、あるいは神の赦しを得ねばならない。以外の手段で消そうとした場合、即刻死の天使に首を狩られるだろう』トキタ」
「なるほど、設定と言いつつ、それは明らかな警告だね」
「御意」
「……死の天使か。本当に死ぬのかな」
「ドウカナ。デモ、真偽ヲ判定スルニハ賭金ベットガ高過ギルネ」
「確かに。それじゃあ、ええっと、聖痕だっけ。それについては?」
「『破滅神徒に顕れる』――ソレダケ。誰カハマダ『キャラクター紹介』ニナカッタ」
 思わずニトロは苦笑した。
「破滅神徒にキャラクター紹介ときたか」
 映画の公式サイトみたいに――という芍薬のセリフを思い返して、無駄な設定まで用意してきたミリュウ姫の“くだらなさ”に姉との共通点を見る。
「後で見てみるよ」
「オ勧メハデキナイヨ?」
「ここまできたら毒皿も食ってやろうかって気になってきたんだ」
 ニトロの言葉に、芍薬は小首を傾げるようにしてうなずきを返してきた。その眉は少しだけ垂れている。
「ソレカラ――」
 気を取り直すようにポニーテールを一振りして、芍薬は言った。
撫子オカシラカラ連絡ガアッテ、御両親トクレイグ殿ノ無事ガ確認サレタヨ」
「そっか」
 家族と友人の身に何事もなかったことを知ったニトロは、深いため息をついた。全身から力が抜け、それによって知らぬ間に体の芯に力が篭っていたことに気づく。どうやら思わぬほど緊張していたらしい。
「クレイグ殿ハ主様ノコトヲ心配シテイタッテ。ダカラ、イツモノコトダカラ心配シナイヨウ、実家ノA.I.トシテ返事ヲシテオイテッテ頼ンデオイタ。
 逆ニ御両親ニツイテハ、イツモ通リ初メカラ大事オオゴトッテ認識ヲシテナカッタソウダカラ、ソノママニシテオクヨウ頼ンデオイタヨ」
 苦笑混じりに付け加える芍薬の言葉に、ニトロも苦笑した。まあ、両親は本当にそのままでいい。いつも通り、事件は全て『ティディアちゃんの愛情表現』――今回で言えばその妹の戯れと思っておいてくれれば、余計な心配をかけないで済む。
 それに、クレイグへの返事をニトロ・ポルカトから送れば何かと面倒なことになるだろうことを思えば、実家のA.I.として――という芍薬の配慮には文句のつけようがない。
「ありがとう。最高の判断だ」
 ニトロの礼を受けた芍薬ははにかみ、と、すぐに真顔に戻り、
「ソレデ、御両親ダケジャナク、念ノタメニクレイグ殿ノ身辺警護モシテクレルッテ」
 そう言ってから、芍薬は唇を弓形にして笑った。
 その意図するところを悟ったニトロも思わず笑ってしまう。
「そりゃあ心強い」
 知己の頼れる相手の中で撫子達以上の警備員はいない。もし父母や友に何か手出ししようというモノが現れたなら、それらはまさに悪夢ナイトメアを見るはめになるだろう。
「これで、自分のことだけに専念できる」
 小さくつぶやき、ニトロは同意を見せる芍薬を見、そして――
「芍薬」
「ナンダイ?」
「聞いておきたいんだけど、芍薬を襲った相手は……芍薬をどうするつもりだったのかな。足止めだけが目的じゃなかったろう?」
「生ケ捕リガ最大ノ目的ダッタヨウダネ。人質ニスルツモリダッタラシイヨ」
「……そこに、芍薬を殺す意図は? 少しでもあった?」
「不殺ヲ厳命サレテイタミタイダ」
 芍薬は肩をすくめて軽く言う。
 それは芍薬にとっては――もしくはA.I.達の価値観の中では――軽く扱える情報であるのだろうが……しかし、それは、ニトロにとってはとても軽く扱える情報ではなかった。
 芍薬も肩をすくめた後、それに気づいたようにばつが悪そうな顔をした。ニトロを上目遣いに見る様は、まるでいけないことを言った子どものようだ。
 ニトロは目を細め、
「いや、それで良かったよ」
 主従の価値観の相違を咎めない眼差しを受け、芍薬は安堵したように背を伸ばし、それから首を傾げた。
「デモ、何ガ良カッタンダイ?」
「芍薬を殺す意図があるとないとで、こっちの対応は凄く変わったからね」
 まだ分からないことだらけだが、とりあえず判っていることの一つに、相手がこちらに害を与えることに躊躇がない――という事がある。あの巨人との戦い、今も左手甲に刻まれる烙印――そのどちらにも、命に関わる危険が込められている。
 だが、ニトロは、そのどちらにも最大の怒りを持ってはいなかった。
 理由は単純である。
 ニトロにとって、最も大きな憤怒を向けるべき対象が他にあったためだ。
 こう言ってしまうと芍薬に激しく怒られてしまうだろうから黙っているが、もはや自分がトラブルに巻き込まれるのに慣れ切っている。だから自分への仕掛けに関してはまだいい。しかし、慣れ切った今でも、我慢のならないことが一つある。それは、それこそが、自分以外の者へ意図的な危害を加えられることだ。
 例えば自分を殺そうとした者を許せたとしても、もし大切な人達を殺そうとされれば、きっと相手を絶対に許しはしないだろう。
(……そのことは)
 ティディアもよく知っていた、よくよく判っていた。
 だから、非常識なバカ姫をもってしても、その『最後の砦』を壊す『人質』という手段だけは、危ない冗談には用いたとしても実際には固く禁じ手にしていた。
(そういう意味じゃ、ミリュウ姫はあのバカ以上ってことか)
 とはいえ、芍薬を襲ったA.I.への厳命を思えば、問答無用で主従諸共殺しにかかってくるほどの理性無しではないのだろう。それが判ったことは収穫だった。理性があるなら『話』をする余地もあるはずだ。
 そしてまた――両親に何かの手が伸びていなかった、クレイグに『烙印』が表れていなかった、何より芍薬を殺そうとされていなかったからには、こちらにも理性的に話をする余地がある
「……」
 ニトロは、最終確認を得て、いよいよ一つの覚悟を固めていた。
 ここでハラキリとコンタクトを取れていて本当に良かった。芍薬の『体』が手に入り、あの戦闘服も使えるとなれば選択の幅が大いに広がる。
「ア、ソウダ」
 と、芍薬がうっかり忘れていたと声を上げた。
「撫子カラモウ一ツ報告ガアッタンダ」
 そう言う芍薬はどうでもよさそうな様子でありながら、しかし口振りにはどこか困った感を漂わせている。
「何?」
 奇妙な芍薬の態度にニトロが先を促すと、芍薬は小さく――ただの笑みか苦笑か判別しえない程度に笑い、
「エットネ。実家ノシステムニ撫子オカシラガ手ヲ加エニ行ッタ時ノコトナンダケド……」
「ああ」
 ニトロはぽんと手を打った。実家と言えば、そこにはアレがいる。
「メルトンが何か迷惑かけた?」
「御意。ソレデアンマリ鬱陶シカッタカラ、思ワズビンタシチャッタッテ」
「なんだ、そんなことか」
 ニトロはからりと笑った。
「いいよいいよそれくらい。でもあの撫子が思わずビンタするなんてね。メルトンの奴は一体何をしたんだか」
「……ソウダネ、本当ニ」
 と、言う芍薬は、今やあからさまに引きつり笑いを浮かべていた。ぴくぴくと震える頬にはどことなく恐怖心まで窺える。それだけではない。普段勝気で気丈な芍薬が、やおらぶるりと肩まで震わせた。
「……」
 ニトロは、笑みを消した。
「…………」
 左右を見回し、天井を見上げ、ああ、なんて綺麗なシャンデリアだろうと、今さら気づいた小振りで瀟洒な照明器具に感心し……
 それから彼は、強張る芍薬へゆっくり尋ねた。
「痛いんだ? 撫子のビンタって」
 芍薬が、声を震わせる。
「死ヌホド痛インダヨゥ」

→4-7-bへ
←4-6-dへ

メニューへ