宇宙を跨いで王女の執事と声をつなげていた携帯電話のモニターに、アイコンが閃く。
 それは接続が切れたことを知らせるアイコンだった。
 ニトロは、沈黙した端末の顔に浮かんだ青い印が薄れて消えていく様をじっと見つめていた。やけに肩が重い。今改めて、ヴィタの語った内容を顧みて、肺に感じる違和感が吐き出すことのできない嘆息の塊だと理解する。
「で、サンドイッチに何をしたんです?」
 深刻な話の後、一番に訊くことがそれかとニトロは思わず片笑みを浮かべた。
 息をつき、へらっと笑っているハラキリへ答える。
「『コルッペ』を仕込んでたのさ。まさか食い切るとは思ってなかったよ」
「コルサリラ・ペッパー?」
 ハラキリは目を丸くした。
「それはまた……お姫さん、随分な無理を押して……」
 呆気に取られたように言うハラキリは、やおら、くっくっと喉を鳴らした。
「しかしニトロ君、それは大変裏目に出ましたねえ」
 ハラキリの顔にはほくそ笑みにも似た色がある。ニトロは怪訝に小首を傾げた。
「……何が?」
「お姫さん、出立式の時にね、目を赤くしていたんですよ。世間的にはニトロ君とのしばしの別れを忍んだ涙のためだろうとされていますが
「う」
 ニトロは、うめいた。
 芍薬を見ると、芍薬はハラキリの言によって気づかされたためにハッとして……そしてしょんぼりと肩を落とす。
「……バカノ仕込ンダ演出ダト思ッテタヨ」
「拙者もそう思ってたんですがねぇ。いやはや、まさか本当にお姫さんが君に泣かされた結果だったとは」
 愉快気にハラキリは笑う。
 ニトロはもちろん笑えない。笑えるわけがない。仕返しは一応の成功を見たとはいえ、ティディアはそれでも食べ切ったと言うし……その上、その成功こそが敵の利となってしまったからには皮肉も極まる。
 現状も思えば踏んだり蹴ったりとはこのことだろう。
「厄日だ」
 深いため息を吐くニトロへ、まだ肩を揺らしてハラキリが言う。
「その厄日もそろそろ終わりますよ」
 と、そう言われたところでニトロははたと思い出した。
「芍薬、時間は?」
 問われた芍薬は掌を上にしてそこに時刻を表した。23:56。もう約束の0時だ。
「この際ぶっちぎっちゃいましょうよ。うまく言っておきますから」
「そんなわけにいくか」
 断じてニトロは立ち上がった。
 だが、ハラキリは立ち上がらない。案内を促すニトロの眼を受け流し、代わりにため息をついて携帯電話を手に取った。
「……ああ、殿下。申し訳ありませんが、1時に変更です」
 勝手に交渉を始められたことにニトロが声を上げようとするのを、ハラキリが手を差し上げて止める。通話口を指で押さえて「まだ話すことが」と早口で言い、
「え? いやいや、そんなことを仰らず。いいじゃないですか一時間くらい。貴女方にとっては“はした時”でしょう?」
 何だか無茶苦茶なことを言っているハラキリを横目に、ニトロはソファに座り直した。
「『時短き者の頼みを無下にすべからず』とセスカニアンの昔の偉い人は――は? ええ、まあそれは確かに親しき者に対してと限定するところではありますが、ええ、しかし、だからこそ、拙者に時を譲れと言っているわけではないんですから。殿下も先ほどのミリュウ様の演説をご覧になったでしょう? 聡明なる殿下におかれましては、どれだけ彼がしんどい思いをしているか既にご賢察されていることと存じ上げるわけですが」
 どうにも慇懃無礼を地で行っているように思えてならないが、とかくハラキリの言葉は相手の急所を突いたらしい。
 彼はにこりと電話先の相手に笑みを浮かべ、
「かしこまりました。殿下の寛大にして慈悲深き御心を念入りにお伝えしておきます。はい、はい、それでは」
 通話を切り、ハラキリは笑みに笑みを重ねた。
「さて、殿下の御厚意に預かりもう一時間、ゆっくりといたしましょうか」
「何となくお前を悪党だって感じたのは、俺の気のせいかな」
 半眼のニトロに言われても、ハラキリは笑みを絶やさず、
「何となく調子が出てきました」
 と、肩をすくめてみせる。
 そして、携帯電話をソファの隅に投げ置くと、
「それにしても、この件はおひいさんもまたかなり思い切っていたんですねえ」
「ん?」
 ため息混じりの言葉にニトロが眉を跳ね上げる。
 ハラキリは頭の後ろで手を組んで、天井を見上げた。
「ミリュウ姫だけが仕掛けてきているわけではなかった。彼女だけならまだしも、どうやらお姫さんも人生を懸けてらっしゃるようだ」
 ニトロは芍薬と目を合わせた。
 ハラキリの口からは、つい直前まであった人を煙に巻く調子が消えている。それは真摯な言葉だった。
「……根拠は?」
「ヴィタさんの話で拙者が一番驚いたのは、お姫さんが『ニトロ君か妹君のどちらかを失うことになる可能性』が示唆されたことでした」
 天井を見つめたまま、ハラキリは言う。
「ヴィタさんがああ言ったということは、おそらくお姫さんもそれを覚悟し了解しているのでしょう。が、であれば、お姫さんは君と妹君を同じ天秤に載せていることになる。どちらも大事なのだ、と」
「……うん、まあ、そういうことになるんだろうね」
 ティディアに大事に思われていることは認めないと顔に書き出しながらも、ニトロはハラキリの理屈を認める。
 ハラキリは組んでいた手を解き、ニトロへ顔を向けた。その口元には小さな笑みがある。
「拙者はね、ニトロ君」
「おう」
「お姫さんが妹君をそれほど大事に想っているとは思いもしませんでした。少なくとも、君と同列に並べるには到底値しない人物だと」
「いや、「否定されてもかまいません」
 声を声で押し止められ、ニトロは息を飲むように押し黙った。
 ハラキリの声には確信じみた力がある。
「しかし、ニトロ君。現王のご子息ご息女らは、そうそう綺麗な関係じゃありません。まあ上の三人は論外としても、例え仲の良さで知られるティディア・ミリュウ・パトネトの間であっても、それは同様です」
 そして実際、ハラキリには確信があった。
「はっきり言って、あのティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナにとっては実の妹も弟も他人とそう変わりがないでしょう。例外は君だけ。他は使えるか、使えないか、それだけです。いや、今回に限っては、それだけでした……なのかな? だから拙者は、驚いたんですよ」
「……そっか」
 ニトロは小さくうなずき、水を飲み、それから、
「ハラキリが驚いた理由は分かった。でも俺は、そうは思わない
 静かに、反した。
「何だかんだ言っても、アイツは、妹と弟には特別な目を向けていたと思うよ。少なくとも俺だけが例外ってのはないと思うし、他人と変わりないってのはもっとないと思う」
「根拠は?」
「妹と弟の話をする時の感じかな。それは、確かに他とは違った」
「なるほど」
 ハラキリはうなずき、瞬間――下手に話を深めて友達の心中を勝手に暴露するわけにもいかない。どこまで論を深められるか考えた後、
「では、そうなのでしょう。拙者の話は過去これまでの彼女等の資料を観ての印象論ですから、君のような実際に肌で触れた根拠もありませんしね。いいでしょう――お姫さんは、妹弟を大事に想っている。しかし、間違いなくそうであったとしても、それでもお姫さんはそれを冷静に平然と切れる人です」
「そうかな」
 ニトロは、ぽつりと言った。
 ハラキリは再び、笑んだ。
「これはまた、珍しくお姫さんを擁護されますね」
 その言葉にニトロは反射的に反論しようとして口を開きかけ、ハラキリの顔にある笑みを見るなり複雑な形に唇を結んだ。そこには、明確な苛立ちも刻まれている。
 ハラキリは、にこやかに言った。
「こちらの言い方が意地悪でした」
 ニトロは黙し、水を飲んだ。
「しかし、何故、ニトロ君はそう思うのです?」
 声を和らげたハラキリのその問いに、ニトロはすぐに応えられなかった。
 もう一度水を飲み、ボトルを左右に振る。ちゃぷんと残り少ない水が鳴いた。
「……」
 ニトロの脳裏には『声』があった。もしや、これも『呪い』の一つだとでも言うのだろうか。ハラキリの言う“妹に対しても冷徹な王女”のイメージが心に差し込んできた時、ニトロの鼓膜には何処からかこだましてくる一言があった。
「一つ、思い出したんだ」
 ややあって、ニトロは言った。

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