姫君の声はよく通った。今までにないほど高らかに、ミリュウ姫の演説を一度でも聞いたことがある者ならば驚かずにはいられないほど力強く。
<紳士淑女の皆々様、お楽しみいただけたでしょうか。わたしからの心ばかりのサプライズを>
まるで興行師の口振りでミリュウは言う。そのセリフに皆々が、彼女の言葉通りにサプライズ極まる反応を見せた。ある者は目をさらに見開き、ある者は我が耳を疑うように眉をひそめて。
ニトロは平静にそれらを素早く観察した。
カメラに収まる範囲では、皆々本当に驚いている。
……ここに、共犯者足り得そうな者はない。
<そして『我らが子ら』――国民の皆々様も、お楽しみいただけたでしょうか>
ミリュウはカメラ目線でそう言った。たまたま彼女の目についただけであろうが、JBCSのスタッフは狂喜しただろう。その視線はちょうどこの
<お姉様が留守にされる間、この星から、この星を照らす大きな光が消えることは解っていました>
カメラ目線の中、微かに肩を落としてミリュウは言う。小さく頭を振る姿は嘆きを示し、緩慢に周囲を見る瞳には客の反応を見る道化師の趣がある。
<……退屈でしょう?>
ため息混じりのその一言には、異常な引力があった。
<次に何を言うか分からないお姉様がいない。
次に何をするか分からないお姉様がいない。
次にどんなことを言ってどんなツッコミをニトロ・ポルカトから受けるか分からないお姉様が、いてくれない>
ミリュウは一度そこで言葉を区切り、聴衆の反応を見た。
誰もが黙して彼女の次の言葉を待っていた。
誰もが、彼女の指摘が正しいと、彼女に図星を突かれたと――そう眼差しで語っていた。
ニトロは、その光景に、これまでのミリュウにはなかった『支配力』を見た。
<しかし今一時>
ミリュウの言葉を、誰もが聞き逃すまいと耳を立てている。
<皆々様は我を忘れて興奮されたはず>
その言葉には、笑顔があった。そこにはミリュウ姫の満面の笑みがあった。
それは誰を責めるものでもなく、しかし彼女の満足を示すものでもない。ただその笑みは、彼女の言葉を肯定することに罪は皆無と誰もが和まされる笑みだ。言葉を作れば、許しを与える慈笑とでも言えるのかもしれない。
<もしそうであれば、わたしはこの上なく嬉しく思います>
人を赦す笑顔のままに、そう王女が示した喜びが、会場の空気を緊張から緩和に、そしてニトロ・ポルカトの受難をエンターテインメントとして享受することを『善し』とするものに変じていく。
ニトロは薄ら寒さを感じ、つばを飲み込み喉を鳴らした。
<もちろん、わたしごときが『クレイジー・プリンセス』の代役を務められるとは思いません>
「おや」
と、そこで、思わずというようにハラキリがつぶやいた。
薄ら寒さの中、ニトロもハラキリと同じ気持ちを感じていた。
――あのミリュウ姫が、このような文脈でその異名を口にするのは奇妙なことだ。
確かに、アデムメデスには『クレイジー・プリンセス』という傍若無人な王女がここに闊歩することを許す『感覚』がある。それはもはや常識の域にまで達した社会規則であり、クレイジー・プリンセスが生む害は第一王位継承者ティディアの創る糧を現在から未来に渡って享受するための税金とばかりに扱う奇妙な認識。
――ニトロは約一年半の間、それを嫌というほど再確認してきた。
その『感覚』の強烈な存在感を。
その強固な支配力を。
あるいはソレがこそ『呪い』のように、社会を構成する人間間の集合意識や皮膚感覚にまで太く鋭い根を深々と食い込ませていることを!――彼は何度も何度もその身、その心に味わわされてきた。
今日において、それは『もう一つのティディアの権力』だ。大なり小なり第一王位継承者の威光を貸し与えられた者が、例えば政治の駆け引きで、あろうことか王権や王威を差し置いて切り札的に用いることまである――しかし乱用すれば己も斬られる――抜き身の快刀。
しかしミリュウ姫は、これまでその剣を振るったことが一度たりとてない。
それどころか、最もそれを扱えるであろうし、それを許される立場にある彼女には、その剣を利己のために用いる気配すら一切なかったのだ。
まるで彼女自身がそれだけは絶対に避けていたかのように。
<しかし、幸いにもこの星にはニトロ・ポルカトがいらっしゃいます>
それなのに、今、ミリュウは活き活きとしてかの切れ味凶悪な剣を振るっている。
<ここでポルカト様のご名誉のために申し上げておくことがありますが、先の一件は、全て! ポルカト様は存じぬことです>
会場の多くがクエスチョンマークを眉間に刻む。中にはいくらか慧眼の者があり、明かされた事実に大いなる驚きと感嘆をその目に浮かべている。
<そう。この件は、不意打ちです。わたしが独断で、お姉様にもお話しせず、全て、ニトロ・ポルカト様に無断で仕掛けたものです。一切、ポルカト様の言葉、行動、何一つとして一切、あの場における振る舞いの全ては! 窮地にあるポルカト様自らのご意思で取られたものであったのです。――ああ! さすがはお姉様が見初められた方! 巻き添えを生まぬよう人を遠ざける態度の何と立派だったことでしょう! 異形の巨人と堂々と渡り合う、あのお姿の何と勇ましいことでしょう!>
己の言葉に感じ入ったかのように宙を見つめる王女の声に、感じ入ったかのように聴衆が気色ばむ。
微かに『ニトロ・ポルカト』を讃える囁きをマイクが拾っていた。
ミリュウは口を休める。
その余韻を、聴衆に存分に堪能させるかのように。
「……ニトロ君を持ち上げて、結婚を早めさせようって魂胆かもしれませんね」
「やめてくれ」
ハラキリが思いついた可能性にニトロは苦笑を返す。
スピーカーは、次第に音量を増していく会場のざわめきに震えている。
<もちろん、わたしごときが『クレイジー・プリンセス』の代役を務められるとは思いません。精一杯で、あの程度のことです>
ややあって口を開いたミリュウは、一言を付け加えてそう繰り返した。
ニトロは付け加えられた『あの程度』という言葉に妙に関心を引かれた。それは謙遜だろうか、それとも、それくらいは弾き返してみせろという挑発だろうか。
<しかし、ポルカト様はそれでも、あんなにもわたし達を驚かせてくれる。お姉様がいなくとも、お姉様の足下にも及ばぬわたしごときの仕掛けをも、あんなにも素晴らしいショーに高めてくださる。
そして、あの颯爽と現れたアンドロイド。
あれは警察のA.I.ではありません。わたしは、そう、かのオリジナルA.I.がポルカト様を助けにこられぬよう妨害させていました。しかし! かの名高き『ニトロ・ポルカトの戦乙女』は忠義の心を燃やし、我が身を顧みずに妨害を突破するや間、一髪、見事にマスターを助けてみせたのです!>
どこからか感嘆の吐息が聞こえる。カメラのマイクの近くで、遠くで? そのどちらかもしれない。次々と明かされる事実に興奮が増しているようだった。
<本日を入れてこれからの一週間……皆様、皆々様、『我らが子ら』よ。心していてください。わたしは、まだ手札を残しています。しかしポルカト様はそれの何一つもご承知ありません。どのようなことかも、どのような種類のものかも、全くご存知ありません。例えば通り魔にあったなら、交通事故にあったなら、必死に対応なさるでしょう。そうしなければ、誰の仕業かも知れないのです! 本当に通り魔にあったとしたら? 交通事故だとしたら!?――大変なことになりますもの、必死に、全力で対処なさります。そう、恐ろしきクレイジー・プリンセスを止める時のように>
嫌な台詞回しだとニトロは思った。誰の仕業かも知れないのに。まるで、どさくさまぎれの模倣犯を期待しているかのようだ。
と、その時、ミリュウの言葉に対するものではない声が上がった。
カメラが左方に振られ、ある貴婦人を映す。
彼女の、また連れて他の者も上げた驚きの声は、ケルゲ公園駅前から無人タクシーに乗って飛び去ろうとしたニトロ・ポルカトを追うATVの生中継を因に発したものだった。
カメラがミリュウへ振り戻された時、彼女も映像を観て<あ>と目を瞠っていた。
そこには文字通り無人のタクシーが映っている。
リポーターかディレクターか、誰かの指示でカメラの撮影モードが切り替えられた。通常からサーモグラフィへ。そして車内に一人として人のないことが、証明される。
皆が戸惑いの視線を『主犯』に戻す。
ティディアの実妹は、やおら目を細め、微笑んだ。
微かに……しかし明らかに、そこにはクレイジー・プリンセスの面影があった。
<ニトロ・ポルカト様は、本当に素晴らしい>
会場の誰も、彼女の言葉に逆らえない。
異形の巨人をその戦乙女と共に撃退し、なおかつどうやって無人タクシーから忽然と姿を消したのか。
ニトロ・ポルカトの出した結果が、皮肉にも彼女の言葉を大々的に支持している。
――ニトロは、ミリュウを見つめ続けた。
時に会場に、時にJBCSのみならずいくつものカメラに目を配る王女の顔は桃色に染まっている。どこかしら、色気さえも漂っている。
<お姉様が不在の間、ポルカト様とわたしとで、アデムメデスを驚かせましょう>
高揚する心を隠さぬ彼女は、やがて高らかに宣言した。
<わたしは一所懸命、ポルカト様に挑みます。それでもなお敵うとは思えませんが、それでも懸命に。きっと、ポルカト様は皆々様をご満足させてくださるでしょう。
いかがでしたでしょうか、わたしからのサプライズ!
次はいつか? それは言えません。しかし皆様、皆々様、『我らが子ら』よ! その時をどうぞ心待ちに!>
そうして、ミリュウはふっと体から力を抜いた。
いつの間にか握り込んでいた拳を緩め、せり上がっていた肩を落とす。
<真に心苦しくはありますが、ひとまず今夜はこれにて一時閉幕>
わざとらしく洒落めかせて彼女は言う。
<それでは紳士淑女の皆々様方――ごきげんよう。次の幕が上がるまで、しばしのお別れでございます>
ドレスのスカートを摘み上げ、さすがは王女と言ったところか、実に優雅に貴族流の辞儀をする。
その全身を、ちょうどJBCSのカメラは真正面から捉えていた。
美しい――本当に、彼女の所作は美しい。その美しさは、彼女を興行師から主役に押し上げる力がある。
やがて、一つ、拍手が鳴った。
引きつられ、もう一つ、もう一つ、もう三つ、もう八つ。拍手が人々の間を伝播していき、いつしか会場は轟音と歓声に包まれていた。
万雷の拍手の中、王女は未だ頭を垂れている。
「モウイイネ」
芍薬がため息を吐くようにして言った。
ほぼ同時に、ニュースキャスターの声が映像に重なる。これまで主役であったパーティー会場の映像が
ニトロは最後に顔を上げて笑みを振りまく王女を見つめた後、うなずいた。
「うん、十分だ」
即座にエア・モニターが消える。
そして訪れた一瞬の沈黙は、ニトロ達に永遠にも思える重みを与えた。
万雷の拍手が耳に残っている。
それはまるで、この部屋のどこかで拍手が鳴り続けているようでもあった。