ニトロが案内されたのは超VIPルームの一室――先の部屋から幾つもの部屋を跨いだ、察するに主に使用される区画から最も離れた部屋だった。
とはいえ、さすがは大きなホテルの階一つを占有する超VIPルーム。たかが分室の一つでありながら、その広さも内装も、一般的なトップクラスに足るものだ。
部屋に入ったニトロは、疲労のたまる足を高級絨毯に取られそうになりながら真っ直ぐソファに向かった。腰を下ろすと、座った瞬間に『最高級』を実感させられる。
油断すれば、このまま眠りに落ちてしまいそうだ。
そう思った彼は一度目を強く閉じて気を入れ直し、ここまで案内してくれた親友に……少し目を離した間に部屋の片隅に移動し、どうやら冷蔵庫の前に屈み込んでいるハラキリに言った。
「『守秘義務』の理由がよく分かったよ。まさかマードール殿下が相手だとはね」
「正式訪問は来週ですからね。驚かれたでしょう?」
「驚いたさ。予想もしてなかった。何の用でいらっしゃってるんだ?」
「一応は視察を兼ねてますが、実体は観光と遊興です。もちろん
「セスカニアンの王女が?」
セスカニアンの王室は秘密主義で知られている。王はもとより王の子息ですら滅多に民の前には現れず、現れたとしても厚いヴェールで顔を隠す。だから他国民はおろかセスカニアン国民ですら王族の顔を肖像画の他に知ることはない。では肖像画を描く画家は? と問えば、王族自らが描く――という徹底振りだ。
が、その中で唯一例外的に、かの王室には姿を人目に晒し、王の代弁をする外交官や広報官といった役目を担う者がある。その役には一族の中で最も位の低い者があてがわれることが慣例であり、当代では、それがマードールだ。彼女は、例え兄姉の皆が没しようとも(その時は彼女に子を産むことが命ぜられ、それが『王の子』として迎えられる)絶対に王位を継ぐことのない王女である。
とはいえ――聞くところによれば、本来、そのような役割にある者であっても、言動は実に控えめで目立たぬように慎むそうだ。
しかしマードールは、その特殊な立場のためだけでなく、その特異な美貌のためだけでもなく、歴代でも最も言動が派手なセスカニアンの王族として知られていた。おそらく国際舞台に登場した回数は桁違いに多いだろう。国内にはそれに対して批判的な向きもあるが、社交的な姫君がセスカニアンの名を世に広めることを歓迎する声は多いとも聞く。
だが、それでも……『お忍び』までするとは。
「意外だ」
「そういう意味では、こちらのお
「そう言っちゃ禄でもなくなる、殿下に失礼だよ」
ニトロの物言いにハラキリは笑った。
「で? お忍びはいいけど、それで何でハラキリが案内人に選ばれたんだ? 挙げ句に『お兄ちゃん』とかまたえらい親しげだし」
「その話はねぇ、色々事情があることでして。拙者が選ばれた理由は、まあ、殿下と初対面ではないというのもあるのですが……」
「勝手には話せない?」
「ご明察」
「そっか。それじゃあ、後で直接詳しく聞くことにするよ。特に『お兄ちゃん』の件は」
「いや、特にそれをこそ詳しく聞かれたくないんですけどね。本気で」
立ち上がったハラキリは眉を垂れて言ってくる。
ニトロは意地悪な笑みを親友に送り、手を伸ばして携帯電話……通話機能がないからには単純に
「まあ、何はともあれ」
ソファに歩み寄ってきていたハラキリは、ニトロの隣にどっかりと腰を下ろした。そしてニトロへミネラルウォーターのペットボトルを差し出す。
「お疲れ様です。それともご愁傷様、と言った方がいいでしょうか」
ペットボトルを受け取りながら、ニトロはハラキリらしい物言いに苦笑し、
「楽しんでもらえたようで何よりだよ、我が預言者様。見事に俺は神敵となった」
苦笑ついでに皮肉を返す。しかしハラキリは皮肉をものともせずに笑うだけだ。
「いやいや、確かに楽しませていただきました。良い見世物でしたよ。殿下は興奮しきりでしてね、客人を楽しませていただき感謝します」
「興奮しきり? そんなに長い時間、中継されていたのか?」
気づいた限りでは、テレビ局のカメラは自分がロータリーに出た後に到着していた。それを思えば『しきり』などと言えるほどの時間はなかったはずだ。となると、
「ああ、野次馬のネット中継?」
ハラキリは胸ポケットから携帯電話を取り出し、それをニトロの携帯端末――芍薬の横に置きながら言った。
「いえ、例のサイトからの配信です。ミラーサイトもたっぷり用意されていたお陰で快適に眺められましたよ」
「ああ……なるほどね」
うなずき、ニトロはボトルの栓をねじり開けた。
「監視カメラとアンドロイドを経由していたようでカメラワークは多少地味でしたが、しかしそこはさすがの真剣勝負、その欠点を補って余りある迫力でした。君の動きも実にリアルで素晴らしかった」
師匠のそのひねくれた褒め言葉に、ニトロは思わず口元を緩めた。
「俺は、ハラキリの教え通りに動いただけだよ」
「いやいや、拙者の教えたことなど微々たるものですから。君の成長力には本当に驚いています。そろそろ教える――などとおこがましいことはできなくなるかもしれませんねぇ」
「何言ってるんだ。教わり始めてからまだ一年程度だろ? そんなんで習いきれるもんか。まだまだ俺はハラキリに教わるつもりだし、そして、助けてもらうんだ」
「おや、それはまたなかなか面白い救援要請で」
ハラキリは笑って。
笑って……それだけだった。
ニトロは眉をひそめた。
「助けてくれないのか?」
ふと湧き上がってきた不安を親友にぶつける。
状況を認識している彼が、助けを求められても動かない――というのは考えられないことであり、考えたくないことである。
「正直に申し上げれば、今回は助けたくありません」
ニトロはいよいよ眉を険しくひそめた。芍薬も表情を硬くしている。
「何故?」
「拙者は現在、形式的とはいえマードール殿下に雇われています。しかし実質は、お忍びでやってきたゲストをもてなすホストです。そのため拙者が勝手な行動を取るということは、殿下に泥を浴びせ、また、お姫さんの顔を潰すことにもなってしまいます。もし拙者が拙者の意思で君を助けようとするならば、殿下の許可が必要となるでしょう」
「……うん、道理としてはそうだろうな。でも今だって助けてくれてるのに、それが問題になるのか?」
その素直な問いかけに、ハラキリは複雑な表情を見せた。それはニトロが不安を覚えるほどに『複雑』だった。
「つまり」
ハラキリは言い難そうに、しかし続ける。
「これ以降、拙者が君を助けるためには、形式的とはいえ彼女に君を『助けさせる必要』が出てくるというわけです」
「……で?」
ニトロはハラキリの言うことが良く判らなかった。そのため彼が思わず繰り返した疑問符は、ある種の無邪気な問いの繰り返しでしかなかったのだが、
「主様」
窘めるように、それを制止する声が意外なところから上がった。
「ソレ以上ハ聞カナイ方ガイイヨ」
何事か悟ったらしく芍薬が言う。ニトロはますます一体どういうことなのかが判らなくなり、芍薬とハラキリを交互に見るしかできずにいた。
ハラキリは嘆息をつき、
「先ほどの殿下の誘い、今からでも断る気はありませんか?」
その質問にニトロは驚いた。今そのようなことを聞いてくるということは、そこに何か彼の思う焦点があるのだろう。
それを察しながらも、それでも、ニトロはきっぱりと言った。
「ないよ。もう約束したし、それに助けられたんだ。お礼も兼ねてるつもりだから」
真面目な親友らしい答えに、ハラキリは苦笑をふっとほどいた。
「では、おそらく後で解るでしょう。解らなかったら、今の言葉は忘れてください」
「それもまた妙な言い方だなぁ」
「まあ、色々打算的なことですからねぇ。結局、拙者も今、君に会っておく方が色々都合が良いのでここに連れてくることを承知せざるを得なかったわけで」
もごもごと歯切れ悪く言うハラキリの姿は珍しい。
ニトロは芍薬に目をやった。芍薬は大きなうなずきを打ってくる。
「――分かった。
それじゃあそうするよ」
ハラキリがこうも言いよどみ、信頼する芍薬が進言するなら、それを受け入れる。そして受け入れたからには、ニトロはひとまずさっぱりと思考をリセットすることにした。
栓を開けたままだったペットボトルに口をつけ、清廉な水を空いた腹に流し込む。渇いた喉が潤っていくことを実感し、はあと一つ息を吐き、
「あの教団。プカマペ様の愛波動を受けて揮発した脳味噌の化身としてはどう思う?」
後腐れなく話題を変えたニトロの問いかけに、ハラキリはふむと鼻を鳴らした。
「見事なまでに紛い物ですよ。神官の口上を聞く限り、一応『プカマペ教』と名乗れるだけの意味付けはしているようですがね、しかしあれの実質的な信仰対象は『女神ティディア』ですから。まあ、そこらへんは実にミリュウ姫らしい発想だとは思いますけどねえ」
「ん?」
ふいに核心に触れられ、ニトロは思わずハラキリを凝視した。
「そんな
「いや、そういうこってビックリしてたんじゃないんだけど……けどまあ、そう言われたら、うんとしか言えないんだけども……」
あっさりと大問題点を口にしたハラキリは、ニトロの反応に片眉を跳ね上げてみせた。相変わらずの人を煙に巻く調子だ。いつも通りに。
やおらニトロはまた一つ息を吐き、口元に幽かな微笑を刻んで肩から余計な力を落とした。ミネラルウォーターを飲み、二度目の潤いに美味しい水だと思いながら……問う。
「それで?
ハラキリは、ミリュウ姫の目的は何だと思う?」
「その言い方だと、ニトロ君には多少思い当たるところがあるようですね」
「まあ、一応ね」
「どのような?」
ニトロは、あのドロシーズサークルの件の折、芍薬と共に考えた可能性を再び脳裡に蘇らせた。