落ち着いたところで、ニトロはここがホテル・ベラドンナの超VIPルームだということを知った。
 何の因果か、何の偶然か――あるいは皮肉か。色々思うところはあれど、セキュリティが充実しているのはありがたい。
「そうだ、傷を負っていたね」
 ふと思い出したように、気軽い『妹』の口調でマードールが言った。目で促された従者がニトロへ歩み寄り、一礼して跪く。
「?」
 人に跪かれることに慣れぬニトロがぎょっとしていると、従者は彼の左腕を取った。そこには『巨人』の爪跡があり、その未熟な瘡蓋は人の目に痛々しさを与える。
治癒ヒールは知ってるでしょう?」
 何をされるのか――ニトロが緊張に身を強張らせていると、悪戯っぽくマードールがそう言った。
 従者が傷に手を触れてくる。が、傷に触れられた痛みはない。それよりも、マードールの言う通り、“身覚えのある温かさ”が彼女の掌から伝わってくる。
 ニトロはマードールに目をやった。
「……お人が悪い」
 セスカニアンの王女は何故だか嬉しそうに微笑んでいる。
「先に言っちゃ、面白くないもの」
「おや、そんなことを言っていたらうちのバカ姫のようになってしまいますよ」
「あら、それはもしかしたら躾の脅し文句かな?」
「いいえ、これは純粋なご忠告です」
 自国の王女を持ち出して失敬なことを平然と言ってのける『恋人』に、またマードールはやけに嬉しそうな笑顔を返した。
 ニトロはセスカニアンの姫君の意図が掴めず、数瞬の間、困惑した。この王女は何を考えているのだろうか……それを推測しようにも、彼女に関する情報はまるで足りない。とはいえ何の反応も返さないわけにもいかず、彼は努めて自然な笑み(の形の愛想笑い)を返して、一度間合いを取るように目を足元の従者に移した。
 すると、先端に向けて金から黒へとグラデーションをかけて染められた従者の髪型――右目を隠すように垂らされた前髪の、その奥にある『動かない瞳』が彼の目に飛び込んできた。
(……)
 従者の両目は碧色で、そこに違いはない。が、左の瞳は自然に動いているのに対し、右の瞳は微動だにしていない。どうやらこの奇妙な髪型は右目のそれを目立たせぬためであるらしい。視力があるのかどうかはまでは分からないが、機能に障りがあるのは確かだった。
 それに――
(左目も……)
 多分、義眼だ。ニトロはそう判断した。薄暗がりの中でも……いや、むしろ薄暗がりの中だからこそ分かったのかもしれない。淡光をやけに照り返す生身にはない光沢が、その義眼が現在主流の有機製のものではなく、古い時代のガラス製であることを報せてくる。動作面においては生身のものと同様に動くようセッティングされているようだが、機能面ではどうだろうか。王女の従者ともなれば培養臓器を得て自前の眼球を取り戻すことも容易だろうに……それをしないということは、
(盲目であることが、力に関わってるのかな?)
 超能力はひどく感覚的なもので、それゆえに自己の五感を大事にすると聞いたことがある。あるろうのテレパシストが聴力を手術によって手に入れた後、能力を失った事例があるとも。
 ――と、従者が、うなずいた。
 ニトロはまたもぎょっとした。もしやこの従者、瞬間移動に治癒……それにおそらく視力そのものの代用となる力だけでなく、思考を読む力まで持っているのだろうか。
 彼がそう考えていると、従者は何事もなかったかのように立ち上がった。うなずいたのは治療を終えたことに対するものであったらしい。彼女の手が腕から離れ、
「おぉ」
 ニトロは感嘆の息を漏らした。
 完璧だった。傷跡は影一筋たりとてない。この短時間に――まさに驚嘆すべき力だった。
「ありがとうございます」
 ニトロの礼を受けた従者は一言も発することなく、しかし頬には微かな笑みを浮かべ、丁寧な辞儀をして下がっていった。
 それと入れ替るように、マードールの声がニトロに届く。
「『烙印』はいじらない方がいいと思うから、そのままね」
 ニトロはうなずいた。確かに、それが賢明だろう。
「少し休むといいよ。けど、後でお話しに付き合ってくれると嬉しいな」
 一対一ではなく皆で、ということを示すつもりなのだろう。ハラキリと腕を組みながら――親友は面白いほどの渋面だ――言うマードールの申し出と要望を、ニトロは受け入れることにした。『教団』の件を考えるとのんびりしている暇はないし考えることも山ほどあるが、そうは言ってもひとまず身の安全は保証されている。彼女に助けられた事実もある。それを考慮すれば、一国の王女の誘いを断るだけの理由はない。
「お言葉に甘えます。後とは……」
 ニトロの『付き合う』ことを前提とした問いに、マードールは瞳を輝かせて言った。
「それじゃあ――」
「0時にしましょう」
 と、ハラキリが口を挟んだ。
「えー? そんなに待たせるの?」
 不満を漏らすマードールの視線を追うと、そこにはアンティーク時計があった。先端に大粒のダイヤモンドを埋め込まれた針は11時少し前を指し示している。
(――あれからまだ一時間も経ってなかったのか)
 体感的にはもっと時間が経っている気がしていたが……まぁ、体感と実際に差があることは不思議なことではない。
「11時半。三十分もあれば、十分休めるでしょう?」
「それなりの緊張状態を経験してきているんですから、できればこのままゆっくり一晩休ませたいところです」
「見たところ元気よ」
「外見で判断なさるのは浅慮というものかと」
 ニトロは黙したまま、ハラキリの『交渉』を見守っていた。こういう時、彼に場を任せた方がいいことは良く知っている。
「お兄ちゃんのいうことももっともだけどね、お兄ちゃん、彼自身がオーケーしてくれたんだから。ねえお兄ちゃん、違う?」
 お兄ちゃんと連呼されたハラキリは鼻の頭をぴくりと動かし、やおらため息をついた。
「汗くらい流させてやってもよろしいでしょう? それとも、その程度も譲れぬと不寛容を示されますか?」
「……」
 マードールはハラキリと腕を組んだまま、見つめ合った。形だけを見れば恋人同士の可愛い言い争いにも思えるが、しかし、両者の間には奇妙な緊張関係が見て取れる。
 やがて、
「分かった。譲ろう」
 ハラキリを見つめたまま、マードールは急に威のある口調に変じてそう言った。
「殿下の広いお心に感謝いたします」
 王女の厳を受けたところでハラキリは平然と返してのける。その彼をしばし睨むように見つめた後、マードールは何事かを囁きながら腕を離した。
 解放された彼は丁寧に辞儀をし、
「さあ、こちらです」
 促しの手が示す方向へ、ニトロは足を進めた。
「ニトロ君、後でね。楽しみにしてる」
 微笑を浮かべて――また口調を軽くし――小さく手を振るセスカニアンの王女へ、今一度感謝を込めて、ニトロは深く頭を下げた。

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