ザッとノイズが走り、エア・モニターに水着姿で笑顔を振りまく美女が映った。本来そこに流されているはずの映像に戻ったのだろう、それは王都最大の屋外プールのコマーシャルだった。陽気な音楽に合わせて宣伝文句が流れているが、それを聞く者は誰もいない。皆が皆、周囲の者と言葉を交わしている。思いは様々にあるだろう。とはいえ総じて、あのミリュウ様が? というセリフがニトロの耳に多く聞こえてくる。
「『仮説C』ダ」
 眉間に悔しさを刻み、ニトロの左手を撫でながら芍薬が言う。
撫子オカシラカラ連絡ガアッタ。間違イナイヨ」
 芍薬がいくら撫でても、青い芍薬の花がニトロの甲から拭われることはない。
「『黒幕』の可能性は?」
 ニトロは、それ以上何も言及しない芍薬に疑問を投げた。そしてその疑問を投げずにはいられなかった自分を、彼は情けなくも感じた。嫌なタイミングでティディアの声が耳に蘇る――『今後、どんな相手と付き合ったとしても、ニトロは物足りなくって結局私を求めるのよ』――ティディアの、あの言葉が。
「ソノ可能性ハ……無イト思ウ」
 芍薬は重々しく、答えた。
「アイツハ、バカダケド馬鹿ジャナイ。今回ニ限ッテハ、ソレハ……無イハズダヨ」
 珍しく口ごもりながらも断言する。Åとの戦いで感じた違和感、また得られた情報に加え、最近のティディアの様子、それに現在の王女の立場――諸々を鑑みての芍薬なりの結論だった。
 ニトロは、それ以上の疑問を口にすることは無かった。芍薬がそう言うのならそうなのだろうと思うし、何より、そこにぶつけられる疑問をもはや持ちようがない。
 既に『答え合わせ』が終わったのだ――そして結果は、胸に抱いていた懸念を玉座につかせた。
「分かった」
 ニトロはうなずいた。うなずきながら、その結論をとうとう受け入れたからこそ正直頭を抱えたくなる。相手の意図や目的の程度はこの際どうでもいい、王女と王子が一人ずつ、我が厄介ごとに参入してきたという重い事実に膝も折れそうになる。ただでさえクレイジー・プリンセスを相手にしているというのに! それより軽いからいいでしょ? みたいなノリでご新規背負わせるつもりか神様! ていうかいっつもいつもお前何してくれてんだ!?――そう叫んで暴れてそのまま疲れてこの場で眠れたらどんなに楽なことだろうと、その誘惑に屈しそうにもなる。
 だが、そんな暇はないことを、彼は重々承知していた。
(やれやれ……)
 ニトロはいつのまにか落としていた眼を上げた。着陸できる場所を探して空をうろついているテレビ局の飛行車と、そろそろこちらに押し寄せてきそうな群衆を眺める。
「ひとまずここを離れよう。このままじゃ大惨事になりそうだ」
「承諾」
 芍薬はうなずき、ニトロをひょいと抱え上げた。
「うわッ?」
 しかもその形は『お姫様抱っこ』である。ニトロは思わぬ状況に驚きの声を上げた。
「掴マッテテネ」
 口元に微かに笑みを刻み、芍薬が走り出す。
「おわ!」
 そのアンドロイドの全力疾走の勢いに、ニトロはさらに驚きの声を上げた。
 芍薬は観衆の隙を縫うように走る。
 行く先にいる人間が声を……いや、悲鳴を上げた。
 騒ぎの渦中にある『ティディアの恋人』を――巨人の膝を折ってみせたニトロ・ポルカトを、躊躇なく巨人を殺してみせたアンドロイドがお姫様抱っこして突進してくるのだ。シュールといえばシュール、恐ろしいといえば恐ろしい迫力に、行く先々に道が開かれていく。
 その、最中。
 ふとニトロは、人込みの中に見覚えのある顔を見た気がした。
(――『ミリー』?)
 金髪碧眼の、ティディアに似た『美幼女』。その横顔が人々の陰に。
共犯者――か)
 ニトロはそう思い、だが、すぐに見間違いだろうと判断した。あの巨人や『ミリュウ姫達』はおそらく彼の提供したものだ。共犯たるエンジニアがここにいることには何も疑問はないが、だからといって人込みの中にいるはずがない。
 それに、もし彼がいたとしたら先に芍薬が気づくはずだし、それ以前に騒ぎにもなっていただろう。
「主様」
 観衆の作る分厚い壁を抜け、停止して動かない車の間を縫い、素早くロータリーを駆け抜けながら芍薬が言った。
「携帯ニ移ルヨ。コノ機体ハ追跡サレチャウカラ」
「分かった。けど、その前に機能チェックしてくれるかな」
 用いているのは対衝撃防水等に特に優れた機種とはいえ、
「かなり乱暴に扱ったから」
「承諾――....問題ナイ」
「良かった」
 ニトロはロータリーを抜けた先の大通りまでが機能を停止していることを知った。ロータリーが詰まったための結果なのか、それともドライバーが『現場』を目にしての結果なのかはともかく、もうどうやったら解消するのか分からない無茶苦茶な渋滞がそこにある。
 芍薬は微動だにしない車々の隙間を迷わず駆け抜けていった。
 狭い進路上に車外に出ていたドライバーがいる。驚きの声を上げて身を伏せた男を飛び越す芍薬の腕の中、ニトロは進行方向にある一台の後部ドアが独りでに開くのを見た。
(無人タクシー)
 それも、飛行能力のある高級車。
 テレビ局の飛行車、それと気がつけばちらほらと現れていた――おそらくはパパラッチのものであろう飛行車や空中走板スカイモービルの追跡を逃れるには力不足だが、少なくとも現在最も負傷者を出しそうな地上の群集からは逃れられる。『ひとまず』の目的達成には十分応えられる足だ。
「移ルネ」
 無人タクシーの前まで来るや、芍薬は抱いていたニトロを丁寧に降ろした。アンドロイドの瞳の奥に光が灯る。その光が消えたのを見て、ニトロは素早くタクシーの後部座席に乗り込んだ。
 即座にドアが閉まり、飛行する旨を汎用A.I.が告げてくる。
 周囲の飛行車に注意を促す無線を送りながら、タクシーは急速に上昇していった。窓の下を覗き込むと、ロータリーから渋滞する車の間に侵食しているようにも見える群集に大きな失望が見えた。
 その失望を影にして、位置が良かったのだろう一台抜け出してきた――JBCSの中継車が嬉々として隣に並んでくる。それから数秒の間にタクシーを中心とした報道関係による『護送船団』が形成された。
 ニトロは苦笑した。
 さすがに進行方向を塞ぐような真似はしてはこないが、乱れた車列からは好ポジションを取ろうとする意思間の闘争がひしひしと伝わってくる。
 と、フラッシュが焚かれた。JBCSとタクシーの間が僅かに広がった隙に車体を押し込んできた、スカイモービルを駆る女性パパラッチのものだった。
 果たして写真は口元の歪みをどのように切り撮っただろうか。そうニトロが思っていると、窓に外部からの視線を阻むスモークが入った。
「ありがとう」
「ウウン。ソレヨリ、オ疲レ様」
 気を利かせてくれた芍薬に言うと、ポケットの携帯電話の音声機能を用い、芍薬が優しい労わりをかけてくれた。
「……うん」
 ニトロはそこで、ようやっと疲れを感じることが出来た。
 シートに深く腰を沈めてため息をつく。
「プライバシー:ON」
 ニトロはつぶやくように言った。無人タクシーの口と耳目を閉じさせる機能の作動した確認音が鳴る。彼は肩に圧し掛かってきた疲れを振り払うように一つ息をつき、
「さて、早速相手の目的と解決策を考えたいところだけど」
 窓のスモークの向こうに見える影を一瞥し、言う。
「先にこの状況から抜け出そうか」
「御意。ソレジャア」
 芍薬が早速周囲の報道関係をどう相手するか提案し始める。
 ニトロはそれを聞きながら、ふいに、横目に人影を見た気がして隣へ振り返った。
撫子オカシラニ協力ヲ仰ゲバ、マクコトハデキルヨ。ソレトモ、アエテドコカノ局ニ『独占インタビュー』ヲ提示シテ―…」
 芍薬のセリフを耳にしながら、ニトロは驚きのあまり息を飲んで硬直していた。
 視線の先、後部座席の空きシート――であったはずの場所。
 そこにヒトが座っていた。
 体のラインからすればおそらく女か。
 タクシーに乗り込む時には、いや、つい数秒前に遡っても確かに存在しなかったはずなのに、黒いレインコートを着て、さながらあの教団の信徒のようにフードで顔を隠した女がそこに座って……
「え?」
「『え?』?」
 ニトロが漏らした疑問符を、芍薬が思わずといったように繰り返す。
「主様!?」
 即、異常事態を察した芍薬が音量を最大にニトロに呼びかける。
 ニトロは、ぎょっとした。
 女がこちらに振り向くと同時に飛び掛ってきた。
 そのフードの中の顔は黒い布で隠されている。目穴もないのに、こちらの位置を正確に把握している女の不気味さが背筋を凍らせる。
(――くそ!)
 抱きつこうとしてくる女の動きをスローモーションのように見ながら――あまりに対処が遅れた――それを避けることも防ぐこともできないことを知ってニトロは絶望した。
 狭い車内に逃げ場はない。突き飛ばそうにも突き飛ばすために必要なスペースが既に潰されている。
 こうなったら抱きつかれた後に対処をするしかない。忽然と現れた女が何者だとしても、何をしてこようとも、きっと目に物見せてやる。こちとらクソ痴女に何度も押し倒されながら貞操を守り抜いてきたニトロ・ポルカトぞ!
 ニトロを、女が抱き締める。彼が思っていたよりも強い力で。しかし、彼はすぐさま互いの間に差し込んだ肘を立てようとし――と、その瞬間。
「!?」
 ニトロは激しい眩暈と体が砂となって崩壊するかの感覚に襲われ、絶叫した。

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