「……おいおい」
 折れて機能を成さない右膝を直接フロアに突き、片膝立ちとなった巨人を見てニトロはうめいた。
 左足を踏み込み、右膝を引きずりながら引き寄せ、飛び出た骨を砕かんばかりに膝を突き立て体を支え、左をまた踏み込む。
 そうしながらも、巨人はもはや痛苦を示さない。
 それは巨人がアンドロイドだというニトロの判断を証明する材料となる……が、彼は己の思慮を誇る気にはなれなかった。
 それよりも、むしろその視覚的な凄惨さに心を痛めつけられてしまう。そのあまりの光景に、ざわめく周囲からはえずく声も聞こえてくる。
 ニトロには解らなかった。
 巨人は髪を振り乱して無闇やたらと両手を振り回してくる。時に倒れこみながら、執拗に、執念深くニトロを狙って空に爪を立て続ける。背後に血で軌跡を描き、無数の眼を全て見開き、巨大な口の奥で二枚に分かれた舌を炎のようにのたくらせる。
 ニトロにはその執念の源が解らなかった。
 怒り? それはあるだろう。しかし、無数の眼の底には怒りとは別の冷たいものも伺える。それが何なのかが解らない。だからこそ、巨人の執念をより一層不気味にも恐ろしくも感じ――同時に、何故だ? と疑念が募り続ける。
「ニドド ボルガァ!」
 巨人が叫んだ。
 まともな発声装置はつけなかったらしい。濁った言葉は明確に名の形を成さないが、それでも操縦者の焦燥は伝わってくる。
 どうやら片足立ちにも慣れてきたらしく、歩を速めてきた巨人に捕まらないようニトロは構内から外に出た。
 むわりとした熱気がニトロの体を包み込む。
 バスやタクシーで埋め尽くされたケルゲ公園駅前ロータリーの周囲には、所狭しと人が溢れかえっていた。
 構内で起こっている事に興味を引かれて集まっていたらしい群衆が巨人の姿を見てどよめき、一斉に声を上げる。そして一斉にフラッシュが焚かれ、シャッター音が幾重にもニトロへ押し寄せた。
「ッ?」
 彼は仰天し、息を飲んだ。
 写真撮影のためのフラッシュは断続的に閃き続け、よくよく聞けば人々の間にはどよめきに混じって歓声までもが存在している。
 それは――人が化物に襲われているというのにそれは人として間違っているだろう! 反射的にそう叫びそうになったニトロは、しかし、振り返った先に信じられない光景を見止めて言葉を失った。
 ロータリーの中心にある島、その上に。
 バスやタクシー乗り場に集まる人々、その目を集める空に照射された宙映画面エア・モニターに。
 巨人に追われる男……すなわち、この光景が映し出されていた
 画像からして監視カメラのものだろう。だが何故!? 画面の中で巨人が手を振り上げる。その前には呆然と立ちすくむ『ニトロ・ポルカト』がいる。
「!」
 ニトロは慌てて伏せた。頭上を巨人の爪が通り過ぎていく。
 同じタイミングで画面にもその光景が映し出される。
 空振りした巨人の手が駅舎入口傍の街灯に当たり、強化プラスチック製のフードが砕けて周囲に散らばる。最前線でカメラを構えていた者達が悪態と悲鳴を口に逃げ惑い、ニトロからは人垣が邪魔して判らぬ場所で起こった集団転倒が宙映画面エア・モニターを賑わせる。
(――なるほど)
 駅構外に出た時の、俗悪な反応に合点が言った。
 どういう手段を使っているのか……とにかくあのように『中継』されていれば、これは何かの撮影だと思われてしまうだろう。しかも役者は『ニトロ・ポルカト』だ。ただでさえ自分の周りで騒ぎが起こればバカ姫の悪ふざけと思われがちなのに、あれでは輪をかけてそう思い込まれてしまうだろう。
 そういえば群衆の放つ雰囲気も身近に感じるもので――ああ、そうか。これは、あいつとの漫才イベントの際に触れる空気によく似ている。いや、そのものだ!
(こりゃ助けは絶対に無いな)
 失望を感じながら、ニトロは街灯を揺さぶり始めた巨人を見つめた。
(まったく、お前は一体、何なんだ?)
 心の中で問いかける。揺さぶり続けられた街灯の根元が曲がり、やがて金属が疲労に耐えかねて折り取られる。
 巨人が武器を得て、『観衆』がわっと沸いた。それに紛れてふと聞こえた女性の……うめき声だろうか、妙な声を耳にしてニトロはそちらへ一瞥をくれ、そのまま硬直した。
 いつの間にかエア・モニターが横に二分割し、それぞれ二つの画を流している。片方には自分達が、そしてもう片方には――
「?」
 ニトロは何が何だか分からず言葉を失った。
 非常に見覚えのある場所が映っている。ミッドサファー・ストリートの車道。その真ん中に、一様に黒いローブに身を包んだ怪しい連中が陣取っている。カメラが中心に捉えているのは、先頭に立つ人物の後ろ、何の罰を受けようとしているのか仲間に取り押さえられている者のようだが……
 ニトロが耳にした声を上げていたのは、その者だった。
 どうやら女性らしい。獣が低く唸るように不気味な声で苦悶を訴えている――と、
<ニトロ・ポルカト!>
「ニドド、ボルガァ!」
 二つの声が、重なった。
 ニトロは背骨の芯が冷えるのを感じた。
 明らかに、今、ミッドサファー・ストリートにいるのであろう女と、ケルゲ公園駅にいる巨人の声が同時に発せられていた。偶然? たまたまシンクロ?――違う。
<アァアア!!>
 空に頭を振り上げ女が叫ぶ。一瞬、ローブの影から見覚えのある少女の顔が僅かに覗く。だがその声は別人のもの。
「ゴァアア!!」
 空に鉄柱を振り上げ巨人が叫ぶ。一瞬、不気味な声に聞き覚えのある少女の声が僅かに混じる。だがその姿は怪物のもの。
「――?――」
 思考が追いつかず、ニトロはエア・モニターを見つめ、それから呆然と巨人に振り向いた。
「ミリュウ姫?」
 ほんの一瞬だった。だから断言はできない。だが、ほんの一瞬、そこに映し出されたのは確かにティディアの可愛い妹だった。巨人の口から漏れたのも、彼女の音声。
 何であなたが?
 いや、確かに可能性としては十分考えられるし、考えていなかったと言えば嘘になる。心の中には『やはり』という整合性を得た快感もある。
 だが、だが! だからこそニトロは解らなかった。
 ミリュウ姫よ、何故、今この時あなたがそこにいられるんだ!?
「……」
 渋滞を起こした思考が『最々新のアンドロイドならば』という可能性に辿り着くまでの刹那、ニトロは――立ち尽くし、その場に居ついてしまっていた。
 そこに巨人が鉄柱を振り下ろす。
「―!」
 ニトロの反応は、時、既に遅過ぎた。
 それは観衆にも伝わり、ニトロ・ポルカトの死が予感されて短い悲鳴が上がる。
 それでもニトロは我に返るや懸命に防御と回避を試みた。頭部への直撃は――辛うじて逃れられる。代わりに胴か足のどこかで骨が砕けるだろう。胴体ならば内臓もやられるかもしれない。それを彼が覚悟した時――
 巨人の腕が止まった。
 ニトロは地に倒れながら絶望した。まさか、ここにきて、
(フェイント!?)
 今の一撃ならば、即死は免れた。だが、再び振り上げられる鉄柱がこの完全に体制を崩した身に振り下ろされれば……間に合わない!
 ニトロは頭を腕で庇った。それで耐えられる攻撃ではないことは解っているが、それでも庇った。
 巨人の腕に力が込められる。
 無慈悲な鉄柱が再び振り下ろされる。
「主様!」
 人垣を飛び越え現れた人影が、その時、今にもニトロを打ち据えようとしていた鉄柱を疾風迅雷の速度で蹴り弾く!
 鉄柱の軌道が逸れ、ニトロのすぐ脇に落ちる。
 タイル舗装が砕け、破片が頬に小さく鋭い痛みを残す最中、彼は見た。陰影の中からこちらを優しく見つめる瞳の奥に、灯を。
 影は身を翻した。
 制服に身を包むそのアンドロイドは一瞬の躊躇いもなく巨人に向かい、体躯に仕込まれた駆動系の力を渾身全開、体ごと突き込むようにその特殊合金製の拳を敵の腹に叩き込む!
 ぐしゃり、という生々しい音と、バギャリ、という硬い破損音が
 刹那、息を飲み静まり返っていた空間に嫌に響く。
 巨人の腹に腕の右肘までをもめり込ませたアンドロイドは、警察用のそれだった
 ヒィィィン……と、アンドロイドの体内から甲高い音が鳴る。直後、身を貫かれ硬直していた巨人が大きく声もなく痙攣した。暴徒制圧用の電撃掌スタン・ハンド。最大出力の一撃を体内に放たれた巨人は声もなく腰から崩れ落ち――
<キャアアアア!>
 そしてエア・モニターの中、女が断末魔の声を上げて崩れ落ちた。

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