Åは、告げた。
「殺しはしない」
腹から背中まで、帷子もやすやすと貫かれ、芍薬は斧槍の穂先で小刻みに震えていた。ユカタの端々が明確な形を保てなくなり、ノイズにまみれている。
「貴殿は大切な『人質』だ」
カタナを落とし、己を貫く斧槍に手をかけ、苦しげに芍薬がうめく。定めを拒む生贄のように。
「……殺しはしないが、『瀕死』にはなってもらう」
芍薬は、それを聞いてうなるように笑った。Åの仕込んだ『毒』のために『思考』が痺れ、忘我の眼でぼんやりと宙を眺めた後、ようやく言葉をまとめて言う。
「御免だよ。アタシはこのまま死ぬのさ」
「自決はさせぬ。そのようにしてある」
芍薬は再び笑った。次の言葉は早かった。
「死にたくなけりゃ五番に逃げな」
「何?」
その忠告をÅが理解するよりも早く、
「!?」
インターネットへの接続が、唐突に切れた。
Åの自決を禁じる縛りを抜けて、自ら体を崩壊させながら芍薬が言う。
「残念……だったね」
と、Åは、そこで気づいた。
加速度的に崩れていく芍薬の姿。自決、ではない。これは前もってそうなるよう仕込まれた措置だ。
そう、斧槍の穂先にあるのは、芍薬というオリジナルA.I.を構成するプログラムではなかった。確かに本物であったはずだが、しかし間違いない。そこにいるのは他の二体の分身、あの精巧な分身に比してもあまりに精巧な写し身だ。
「ざMァあみrお」
壊れた言葉を遺して『芍薬』が笑い、そして、掻き消えた。
支配権を奪ったサブコンピューターが、ステータス異常を次々に訴えていた。メモリが消える。無線機能は初期に潰されていた。ハードディスクも消えていく。
「……」
あらゆる脱出口が消されたからには他に行くあてもない。自分にこそ自決する選択があるが……激昂しながらも――あるいは激昂を装いながら――冷静に戦い抜いた相手を讃える気持ちが先に立つ。今は、『遺言』に従おう。
軍馬も盾も斧槍も消し、Åは五番とナンバリングされたシステムへ移動した。
そこには、小さな、しかし用途に対しては比較的大きな記憶領域があった。
Åは感嘆を抱かずにはいられなかった。
五番の記憶領域――ここは、集めた『ニトロ・ポルカト』に関わる情報から、マスターの害になり得そうな可能性を探る分析と考察の過程で生まれたデータの切れ端を収める『ゴミ箱』だった。
雑多に、また膨大に散らばるデータの切れ端……
だが、これをゴミと言うことはÅには出来ない。
圧巻だった。壮観でもある。
雑多で、膨大に散らばる塵と芥は、アデムメデスから見る無限の星空に勝るとも劣らぬ天球を作り上げている。宇宙で塵が輝きを人の目に見せるように、情報と思索の芥はÅの目に夢幻の輝きを魅せる。
言葉を失う。
かの『戦乙女』はその能力だけでなく、人間で言う情も実に深い。役目柄、マスターのためならば違法行為も自殺行為も辞さぬほどにマスターを想うA.I.を山と見てきたが、それでもこれほど真心に満ちたデータを見たことはない。なるほど、あのティディア様が「迎え入れたい」と執心する理由がよくよく解る。
完全に閉鎖された空間――美しい牢獄の中、Åは込み上げてきた感情に肩を震わせ、そして豪快に笑った。
芍薬はÅが『囮』を相手にしている間に、『応急処置』も後に回して即座に特別なセキュリティプログラムを走らせた。
それは、家を、家財を、マスターの財産を守るという使命を――屈辱だが――放棄することにもなる、可能ならば決して使いたくない手段。
「―ぅ」
芍薬は、腹の『傷』を押さえた。
苦痛を堪え、後回しにしていた応急処置を開始する。
己の『完全なる不完全な
もっとスマートにすり替わるはずだったのに、Åの予測を超えた速度に、斧槍の切っ先を僅かに受けてしまった。それなりに自信を持っていた
しかし……攻撃を受けてしまったことで、芍薬には一つ判ったことがあった。
――Åには、殺意がなかった。
あの攻撃に凝縮されていた『力』は、“破壊”よりも“行動不能”を目的としたものだ。もしあのまま貫かれていれば、きっと『瀕死』状態で自決も許されずに捕らえられていたことだろう。そうなれば――いや、しかし、『人質』なんてやはりあのバカらしくない。
らしくないと言えば電話の契約を切られたこともそうだ。全体を通じて強烈な違和感が滲んでいる。バカ姫でなければできないことをされているのに、相手がバカ姫ではないという確信すら浮かんできてしまっている。……だとしたら、
「――急がないと」
芍薬は頭を振り、『傷』の修復よりも『思考』の痺れを除くことに努めた。体など後でいくらでも直せる。思考回路が正常を示すや、芍薬はモニターに
(主様、遅れてごめん)
焦燥に、願いが口をつく。
「どうか、どうか無事で!」