芍薬は怒気と殺気を漲らせながらも、冷静に戦っていた。
 そして冷静に戦うために、甚大な忍耐力を身の奥底から搾り出し続けていた。
 Åは――強い。
 それもただ強いのではない。実に老獪だった。
 前回の失敗も踏まえているのだろうが、まず慎重だ。が、その慎重さは、真剣勝負における必然的な慎重さではなく、慎重な性格であるために慎重なのでもなく、もっと戦略的な、そうすることが有効と知っての『慎重』だった。
 マスターの身を案じ、可能な限り短期に決戦を終えたいこちらの心を弄ぶように、実に見事に緩急を使い分けてくる。
 例えば隙を見せてやっても、アタシへの攻撃よりサブコンピューターの改竄を優先してくる。誘いに乗らない、のではない。誘いを端から無視してくる。ウィルスや強力な爆弾データを噛ませようと罠を仕掛けても、その吟味に嫌味なほどに時間をかける。そして罠と判明した後も、Åにとってそれを排除するのは容易なはずなのに、無駄に呑気に排除用プログラムを選んで戦局に停滞を持ち込んでくる。
 かと思えば、ガチガチに防御を固めたところにあえて総力戦を仕掛けてきてはすぐに引き、引いたかと思えば互いの剣を切り結ぶために突進してくる。
 大波、小波、細波、凪、全ての波状が一平方メートルに存在しているような状態――Åが慎重に作り上げるあちらのペース。その中で、それでも芍薬は平静を保っていた。
 無論、苛立ちは募る。あちらは長期戦も辞さぬようだが、こちらにはそれに付き合う時間はないというのに……!
 しかし急いてはならない、決してそれはしてはならないのだ。
 急いて事を仕損じれば、損じるものは取り返しのつかない大切なものなのだから。
 芍薬は心のすぐ下に泡立つマグマを抱えながら、懸命に戦っていた。
「ぬん!」
 何度目かの直接の攻防――Åが振るう剣を避け、芍薬は手に現したシュリケンを数十、一斉に投げつけた。毒の仕込まれたそれが一つでも刺されば死に通じる。しかしÅは身を丸め、それら全てを今や明確な輪郭を描き出した甲冑を以て防いだ。
 その瞬間、芍薬はここぞと踏み込んだ。
 Åの剣を押さえ、身を固めたÅの甲冑の隙間にクナイを刺し込み、
「ッち」
 今にもクナイを押し込もうとした芍薬は、一転身を翻した。
 直後、芍薬がいた場所を落下してきた斧槍ハルバードが貫いた。
 芍薬は距離を取るために大きく後方へ跳んだ。
 Åが剣を投げつけてくる。
 その剣には芍薬が密かに取り付けておいた『爆弾』があった。
(流石に気づいたか)
 芍薬は起爆スイッチを押した。
 ちょうど芍薬とÅの中間で火薬が爆ぜる。
 小さな仕掛けであったため大した威力は無いが、それでも指数本の構成プログラムを破壊するには足る爆発。そして爆発に比して大量の煙が立ち込める。
 煙を目隠しにして、芍薬はマキビシを撒き置きながら逃げた。が、Åは深追いをしてこない。マキビシは効果がなく、煙は――『風』によって吹き散らされていく。
 煙を散らすその風は、Åが振り回す斧槍に作り出されていた。
「やはり――」
 Åは実に満足そうにうなずいた。時を追うごとに、今もまたその輪郭は明確さを増している。Åは中世の重甲冑を着込んでいた。その鎧の厚さがÅの持つ防御プログラムの厚さを物語る。竜を模した冑のいかめしさは、その奥に輝く瞳のきびしさを伝えてくる。
「素晴らしいお手並み」
 Åの片手には盾が現れ出していた。外見からのイメージを信じれば、本来、王家では防御を重視したアタッカーとしているのだろう。それもA.I.同士の直接攻撃――バグを引き起こすソースを構成プログラムへ直接ぶち込む近距離戦どつきあい専門の。集団戦であれば矢面に立ち、その防御力で味方を攻撃から守るのだろう。
「面倒臭い奴だね」
 Åの賞賛に悪態を返しながらも、芍薬は、Å自身が最初に開けたセキュリティの穴から侵入してくることを容易に許していた。
 奴の本拠を叩くのはおよそ不可能。だが、長期戦は御免被る。となれば、最善の選択はただ一つ。
 Åを殺す。
 どうやらÅにとって近距離戦どつきあいこそが『雪辱』における最高の手段であるらしい。それは幸いだった。サブコンピューターを乗っ取ろうとする際の動きに比べ、自身をこちらに完全に現そうという動きには強い執念を感じるし、その進行速度も格段に速い。
 だから、芍薬はそれを許すことにした。
 完全に招き入れることは大きな隙を晒すために出来ないが、じわじわと、されど素早く誘い込み、そうして破壊する。
「ちんたらしてないで、さっさと殺されなよ」
「そうはいかぬ。貴殿の本気を見るまでは殺されぬさ」
 確かに、芍薬はまだ本気を出してはいない。Åを完全に破壊するためには、Åをもっと引き込まねばならない。現状では致命打を与えても、破壊された部分を『切り離されて』仕舞いだろう。下手をすれば『瀕死』にもならず、増援を得て再攻撃してくるかもしれない。それを防ぐためにも、芍薬はÅを十分に誘い込んでから一気に方をつけるつもりだった。
「……本当に、面倒臭い奴だ」
 芍薬は険を込めて吐き捨てた。
 手加減はしないまでも、本気ではないことを見透かされたのは構わない。しかし、それを見透かした上でこの戦いを楽しむ余裕が気に食わない。
 ――と、ふいに、芍薬はクラッキングとは別のステータス異常を検知した。
(電話が、切れた?)
 様々な事件を経験してきたが故、芍薬はニトロと共にいくつもの安全対策を講じてきていた。
 例えばサブコンピューターの数を四から十に増やしたり、マンションの住人――多くが警官や軍人だ――とのコミュニケーションを深めたり。古くはジジ家と繋いだ専用回線もそうだ。
 そしてその中に、電話の契約を見直す、というものがあった。
 現在使用されている電話システムはインターネットを用いたものが主流で、回線もネット用と併用され、電話専用回線を用いたものはほとんど化石に等しい。しかし、それでは例えば何らかの攻撃をネット経由で受けた時に――そう、まさに現在のような状況では不通となってしまう恐れがある。
 そのため、芍薬はニトロと相談の上、ネット回線・電話専用回線の二本を用意することにしていたのだ。例えマンション全体が停電させられたとしても、据え置きの宅電は通じるように――と。
 それなのに……その電話回線が不通になるとは一体どういうことだ?
「!!」
 思い当たった懸念に、芍薬は身を震わせた。
 即座にサブコンピューターを二つ潰す覚悟で無意味なデータを暴産し、Åに叩きつける。
「ぬぅッ?」
 該当サブのCPUが断末魔を上げながら作り出すデータ量にÅがうめいた。ハード面が同質ということが本当ならば、当然だろう。クラッキングの勢いも失われる。
 芍薬は時間稼ぎの内に素早く通話機能を担うデバイスと電話機を検めた。
 ――やはり、接続が切られていた。
 しかもログの最後には、契約終了の通知があった。
(……)
 他人の企業との契約を勝手に解除できる者は、契約者が特殊な状況下にでもない限りまずいない。だが、それを可能とする強烈な心当たりが身近に存在する。
 この分だと、ネットプロバイダとの契約も切れているだろう。いや、だろう、と仮定の段階ではない。切られていると判断したほうがいい。
(――チクショウ)
 芍薬は失態に唇を噛んだ。
 では、これまでインターネット経由で受け取った情報は一体何だったのか。これまでだけではない、今もだ。今も、現在進行形で外界からもたらされる情報は存在しているというのに!
 隙を見てミッドサファー・ストリートに現れた集団が何者かを調べさせに走らせたロボットは、隙を突き『プカマペ教団』と名乗るただのストリートパフォーマーだという情報を持ち帰ってきた。
 最初にニトロへ送った警告メールも、確かに届けられたと正規のサーバから正規の応答があった。
 インターネットの使用が不可能な状態で、広大なインターネットから情報を得られている状況はどういうことを意味する?
 決まっている。
 決まっている!
 それら全ては、仕組まれた情報だ!
「Å!」
 芍薬は叫んだ。
「やってくれたじゃないか!」
 雪辱だ何だと言いながら、慎重に、つまりは時間稼ぎが最大の目的か。
 憤怒の絶叫に、しかしÅは意外にも堂々と言い返した。
「気がつかれては仕方ない。だが、貴殿を自由にするわけにはいかぬ」
 Åの攻勢が急激に力を増した。
 ハード面は同質? 芍薬は嘲笑を浮かべた。
「なるほどね、騎士道精神を装った卑怯者だったか」
「卑怯者、結構」
 一瞬にしてサブコンピューターの二つが殺されていた。さらに二つが飲み込まれて支配されている。権限を奪ったコンピューターに新たなA.I.用スペースを打ち立てたÅは、今や完全に姿を現していた。重装の軍馬に乗り、左手に分厚い盾を、右手に勇壮な斧槍を構える。武具に施された彫刻が勇ましさに華を与えていた。
 芍薬は全てにおいて劣勢にあった。
 だが、どうしようもない劣勢にあると知ればこそ取れる手段もある。
 クナイを捨て、現したカタナを握り、芍薬は構えを取る暇も惜しいと走った。
 それに呼応し、Åも軍馬を駆る。
 カタナと斧槍、その双方がぶつかり合い火花を散らす。芍薬の繰り出したシュリケンの雨を盾が弾き、放られた火薬玉の全てを軍馬が食い潰す。その隙に騎馬の懐にもぐりこもうとした芍薬に重装の人馬が体当たりを繰り出し、それを曲芸師にも負けぬ素軽さで芍薬がかわしてみせる。
 一度目の激突は、一瞬のうちに、それだけの攻防を交わして終わった。
「見事!」
 Åは、己の渾身の一撃を刀身を滑らせることで受け流した芍薬の技巧、また続けて間隙無く繰り出された連撃に感嘆の声を上げていた。位置情報を反転させ刹那の間をも開けずに振り返る。
 が、時は既に、芍薬が攻勢の内。
 激昂し形相を鬼と成す女の顔が残像を帯び、次の瞬間、芍薬が三人に分裂した
「ィヤアアアア!!」
 殺意の爆発と共に、三人の芍薬が飛び――そして、姿を消した。
「うむ!?」
 Åは芍薬の『分身の術』を知っていたが故に、驚いた。
 実に、実に素晴らしい!
 その戦闘技術に惜しみない賞賛を贈る。ただでさえ高度な『技』に、さらにこれほど見事に視覚情報を隠す『術』を重ねてくるとは!
 豊富な経験の中でも初めて見たコンビネーションを前に、ならば、とÅは身を固めた。
 すると、軍馬の首と、Åの背に、芍薬がそれぞれ取り付き姿を現した。
「クノゥイチニンポー 鳳仙花!」
 その体が爆弾と化す。
「二度は効かぬ!」
 しかし爆発の直前、Åの、軍馬の、それらの甲冑が一瞬のうちに黒い溶鉄と化し二人の芍薬を包み込んだ。声を上げる間もなく芍薬達がけ消える。
 そして、
「覚悟!」
 咆哮と共にÅの斧槍が空へと突き立てられる。
 白刃が、震えた。
 槍頭に陽炎が現れる。
 やおら陽炎が、芍薬となる。
「……ッあ」
 斧槍の穂に腹を貫かれ、芍薬は、苦痛を吐き出した。

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