ケルゲ公園駅で巻き起こる怪異を見つめるミッドサファー・ストリートで誰かが叫んだ。
「ニトロ・ポルカトだ!」
その叫びを聞いた者が『ティディアの恋人』の姿に気づき、また他の者々が怪物と対峙する『スライレンドの救世主』の名を口に出す。
「そう」
それに、アリンが、応えるように言った。
「ニトロ・ポルカト」
アリンの後ろで声を上げる女の苦悶は激しくなっていた。今にも暴れ出しそうなその女を仲間が懸命に押さえ込んでいた。
「その名こそ」
区切り、区切り、厳かに言うアリンに注目が集まる。
「神託が知らせし」
不気味な黒いローブの集団――プカマペ教団の神官を、彼女の言葉を、誰もが無視できなくなっていた。
「女神を食い殺す悪魔の名」
ケルゲ駅構内に残る誰かが『ニトロ・ポルカト』だと叫んだ。
一瞬、周囲の気が緩むのを感じ、ニトロは反射的に叫んだ。
「ティディアは関係ないぞ!」
だが、こう言えば効果があるだろうと思惑したセリフに効力は全くなかった。誰も下がらないどころか、むしろ取り囲む円が狭まったようにも思える。
非常に好ましくない状況だった。
師匠直伝の護身術の真髄は『一に逃げる、二に逃げる、三四も逃げて、五に逃げろ』だ。助けを求められるなら求めるべし――なのに、逃げ道が塞がれている。助けを求められるだけの
(くそ!)
ニトロは胸中で毒づき、ふと、振り返った。
「……」
爪を見せびらかすように開いた手を振り上げる巨人が、背後にいた。
ニトロの膝から力が抜ける。
巨人が手を振り下ろす。
ニトロは自力を抜いて膝を自然と折った。倒れ込む体をそのままに顔を腕で庇い、重力を用い姿勢を低く落とし切って尻餅をつく直前、踵で地を蹴り後方に跳んだ。
顔を庇った左腕を爪がかすめる。
ニトロは巨人との距離を取るためフロアを一度後転し、その勢いで立ち上がった。
痛みの走る左前腕を見、傷の状態を改める。浅い。が、血は流れている。ぽたりと数滴が落ち、フロアを汚す。
それでも――
構内に響いた悲鳴は、やがて数も音量も減らしていた。次第に歓声じみたざわめきが勝り出している。テレパシストでもないのに周囲の思考が手に取るように解る。
すなわち、
>『ニトロ・ポルカト』+襲撃(に見せかけた『仕掛け』)=クレイジー・プリンセスがまた恋人相手に悪ふざけをしている。
その公式が、これほど浸透しているのか。堪らずニトロは絶望にかられた。
このままでは、最悪、巻き添えを生むかもしれない。
しかし、この様子ではいくらティディア関係ではないと言っても聞く耳はどこにもないだろう。
逃げ足と持久力に並んでハラキリに特に鍛えられた技術の一つ、素早いバックステップで巨人との距離を取り……攻撃を二度もかわされたことで慎重になったのか、深く追撃してこない巨人を睨みつけながら、ニトロはならばと叫んだ。
「ティディアだったら! 余裕で巻き込むぞ!」
彼の叫びは、今度こそ聴衆の耳を貫いた。
恐ろしい『クレイジー・プリンセス』は、確かに巻き込んだ人間を悪ふざけでさらに巻き込み続ける。その代償は――きっととてつもなく大きい。
ニトロと巨人を取り囲む輪が広がる。
その反応にひとまずの安堵を得つつ、ニトロは改めて重大な問題にぶち当たった。
(さて?)
これがティディアの仕業と思われているならば、警察に連絡を求めても無駄かもしれない。いや、そもそも警察はどう動くだろう。警察もティディアの仕業と判断するか? ここまで騒ぎになっているのに動いたのは先の二体の警備アンドロイドのみだ。しかも、それらが壊されたというのにどういうわけか援軍もない。
(色々期待しないほうがいいな)
ニトロは巨人を中心に、円を描くようにステップを踏み続けていた。距離を詰めようとしてきたら、弧を描きつつ全力で下がる。巨人は……不慣れだとでもいうのだろうか。妙にやりにくそうにこちらを無数の眼で睨みつけ、怖気づかせようとでもいうのか、時折咆哮を上げてくる。
だが、ニトロの心は不気味な咆哮程度で折れることはない。
このままじわじわ逃げ道を確保しようと、冷静に、次第に、次第に曲線を描きながら外へ向かう。
彼自身不思議に感じていたが、眼前の巨大な敵に対する恐怖心は既に薄らいでいた。
度胸がついたと言えばそれまでだろうが、巨人から感じるプレッシャーは、練習に飽きがこないようたまに本気を見せてくれる師匠のそれに比べれば断然軽い。あの『魔女』に比べれば綿毛のように軽い。ティディアと比べても……温い。
そう思えば心の余裕も割合を増す。
余裕が増せば思考の及ぶ範囲も増す。と、
(――芍薬は)
そこでニトロは、未だ芍薬からの連絡がないことに思い至った。
電車が止まったのだ。芍薬はその情報を絶対に得ているはず。ならば少なくとも様子を窺うくらいはしてくるのが常だ。
ニトロはポケットから素早く携帯電話を取り出し、油断なく巨人と目を合わせ続けながら、キーを見ぬまま探り押して音声入力をオンにした。
「自宅へ」
コールをかけるよう命じた声に、了解の音が鳴る。
しかし、次にスピーカーから流れてくるはずのコール音がいつまでもやってこない。
代わりに無感情な女性の声が流れ出した。
「当機体は、現在全ての通信会社に登録されていません」
その『