……芍薬には、一つ、大きな戸惑いがあった。
 その戸惑いが生まれたのは、ティディアがヴェルアレインから帰ってきてからのこと。
 南大陸の古城から帰ってきた王女には、声音、表情、仕草……そういったものに、人間の耳目ではおよそ測れないレベルでのことだが、しかし間違いのない変化があった。そのため、以来、芍薬はずっと彼女に戸惑わされ続けていた。
 ――今朝、これまでなら絶対に『わざと』と断じていたはずのティディアの痴態をとうとう『事故』と認め、その上、アレの望み通りに最後までお話に付き合ってやった主様は気づいているのだろうか――と、思う。
 観察眼の鋭いマスターなら、バカ姫の変化に気づけるだろうし、実際気づいているかもしれない。コーヒーを飲みながら、相変わらずバカなことを言って主様を呆れさせたり相変わらずのボケを述べて相方にツッコませたりするクレイジー・プリンセスの、その『可愛らしい変化』を感じ取っていたかもしれない。
 そう思いながらも
(――否)
 芍薬は、己の推測に否定の判を押した。
 マスターの様子を思えば、とてもそうは思えない。『気づき』を外面に表していないだけ――ともどうしても思えない。
 むしろ、もしかしたら、クレイジー・プリンセスを天敵かつ宿敵とする主様には、逆にそうであるからこそ『敵のその変化』に気づくことはできないのではないだろうか……と、そう思えてならない。
 正直、その変化分析かんじ取った芍薬でさえ、自ら分析かんじ取っておきながら信じられない思いでいるのだ。
 ――ティディアが、あの無敵のクレイジー・プリンセスが可愛らしくも『恋する乙女』の顔を見せていることに。
 現に今日も実際に目にしたというのに、それでも全く信じられないでいるのだ。
 だから、芍薬は戸惑う。戸惑い続けている。
 バカ姫はまた演技に磨きをかけてきたのでは?
 あるいは、そのような変化を見せるのは、こちらを戸惑わせて隙を誘うための策なのでは?
 それとも――…………
 無数の可能性を吟味し、無数の情報を精査し、何度も鑑みる。
 ティディアは意図的なのだろうか、それとも無自覚なのだろうか。声音、表情、仕草、それぞれが示すデータの底に表れる、微かな甘え。相手に全てを委ねようと言うかのような、無防備な揺らぎ
 ティディアが、そのような甘えや揺らぎを見せたことがないわけではない。
 ヴェルアレイン以前にもそのような波形は時折見られていた。
 だが、そうであるからこそ余計に判断に苦しむ。
 以前には全く見られないものであったなら、その変化を素直に解釈することもできただろう。しかし、そうでないからにはどうしても『思惑』を疑う。特にヴェルアレインにはあのハラキリ・ジジが行っていたのだ。彼に何かを吹き込まれたが故の『路線大変更』という目は十二分にあり得る。
 以前は時折。
 現在は常時。
 明らかな変化ではあるこの事実は、一体何を示すのか。
 ティディア様は最近さらにお美しくなられた――と、恋人の存在を理由にして、姫君の変化を指摘する声も所々で聞く。
 だが、そんな分かりやすい変化を、あの油断ならない女が、そんなにも誰もが分かりやすいよう表にするだろうか。主様を落とすためになおさら肉体に磨きをかけた――単にそういう理由だって考えられる。
 本当に『恋する乙女』の顔をしているとは思う。
 思うだけでなく、様々な人間に関するデータとの照合結果として妥当な結論でもある。
 だが! ことクレイジー・プリンセス・ティディアを相手に、妥当な結論だからといってそれを無闇に採択することはできない。
 第一、困惑極まることに変化はそれだけではないのだ。
 確かに最大の変化はマスターに向ける情動に違いない。
 しかし、
/「ネエ、芍薬チャンモ、一緒ニ迎エニ来テクレナイ? オ父様モオ母様モ喜ブシ」
 クロノウォレス星からの帰路、予定では外遊五日目に、ティディアはレウイ星に向かう王・王妃の宇宙船とランデブーし、そこで様々な報告を行うことになっている。そしておよそ20時間のランデブーの後、王・王妃レウイ星への航路を進み、王女はアデムメデスへの帰路につく。そこに来いと、ティディアは言うのだ。
/「そんなことしたら、主様が『御両親への御挨拶』を済ませたことにされるだろ。拒否だよ」
/「エー。ダッテ、芍薬チャン、ニトロト異星デモ旅行シテミタクナイ? 迎エニ来ル途中、ドコデモ行キ放題ニシテオクワヨ? 楽シイワヨ、絶対」
 アタシの返答に対するバカ姫の声の底には、限りない親しみがあった。
 まるで、本当の家族に対するもののように。
 ――これも、ハラキリ・ジジに対する情動と共に、明確に現れたティディアの変化だ。
/「どうせならバカが関係ない時に行くさ。それに、こっちでも行きたい所はたくさんあるからね。だから、そんな誘いに魅力はないよ」
/「モー、イケズー」
 口を尖らせアタシにも甘えを見せるティディアに、マスターが
/「イケズッテ言ウ前ニ、オ前ノ考エノ甘サヲ考エロヨ」
 と、ティディアに対してのみ見せる敵対態度で言い放つ。
 ティディアは冗談めかして舌を打ってみせるが、眼の奥には違う感情が窺える。
 ――芍薬は、戸惑い続けていた。
 マスターにはまだ言えない……報告するだけに足る結論を得られないこの戸惑いをどう処理すべきか、答えが欲しく、
/「ソウソウ。九月ノ『ハイリム』ノイベント、ビーチデヤルコトニナッタカラ。水着着用デヨロシクネ」
/「何ヲゥ? 聞イテナイゾ!」
/「今初メテ伝エタモノ。ア、向コウカラノ提案ダカラネ? 私ノ水着姿ガ見タイノカシラネー」
/「ソリャア俺ノ水着姿ヲ見タイトカ言ウワケナイカラナァ」
/「アラ、私ハ見タイワ。ソシテ腹筋ヲ触リタイ」
/「触ラセルカ阿呆」
 芍薬は、何度も何度も記録を吟味し、戸惑い続けていた。
 やっぱりバカは馬鹿のまんまだし、全然変わりがない気もするけれど、やはりそれでも変化はあって、それらが入り混じり、
(むぅ……)
 芍薬は眉間に皺を寄せ、それを――ニトロのように――指で叩いた。
 と。
 サブコンピューターが、ロボットプログラムが注意ランク上位の情報を寄越してきたと音を鳴らした。
 芍薬は手元に広げていたデータを一度隠しフォルダに仕舞い込み、それから外部回線インターネットに繋げっ放しているサブコンピューターとメインとの接続を戻し、ロボットのデータを受け取った。

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