王城から抜け出た主がケルゲ公園に行くのを見送って、それから家に帰るや早速マスターの着替えや小間物を旅行鞄に詰め込んで、王家との専用回線ホットラインを物理的に切り、プライバシーに関わるものや重要なデータを全て孤立可記憶装置シェルターディスクに移し、留守中のメールの転送ルールを設定し――と、お出かけの準備を終えてのち
 それからずっと思索に耽っていた芍薬は、宅電へのコールに気づいて思考の連鎖を中断セーブした。
 通信データを見て即座に通話機能をオンにする。
 時刻を見ると、夜の十時を回った頃だった。
「今カラ帰ルヨ」
 音声データが芍薬に伝えたのは、とても明るいニトロの声。
 その声に、先ほどまで重い思索の海に沈んでいた芍薬の感情が浮き上がる。
 芍薬は微笑みを浮かべて言った。
「楽しかったみたいだね」
「楽シカッタ。皆モ楽シンデタヨ」
「そうかい。そりゃあ良かった。ミーシャ殿も喜んでただろうね」
「ウン、上機嫌デ帰ッテイッタヨ」
「え? 帰ったのかい? 何なら告白しちゃえば良かったのに」
 芍薬が茶目っ気を含めたセリフを送ると、ニトロは笑い声を返した。
「十一分ノ快速ニ乗ルヨ。駅マデ迎エヲ頼メルカナ」
「承諾」
 芍薬は情報を手繰り寄せ、ニトロがいるケルゲ公園駅を十一分に発つ地下鉄が最寄りの駅に着く時間と、駅周辺の交通情報を確認した。
「それじゃあいつも通り北口で待ってるよ」
「分カッタ。
 アア、ソウダ。アンドロイド、ドウスルカ決メタ?」
 ニトロが言うのは旅行中に乗る『貸し機械人形レンタドロイド』のことだ。マスターにはこれまで気に入る型がないと迷った振りをしていたが、ティディアも出かけた今なら言える。芍薬は思い切って我儘を口にした。
「あのね、主様。本当は……買って欲しいんだ」
 これまで、芍薬がニトロにアンドロイドをねだったことは一度だけある。いくら多機能とはいえ多目的掃除機マルチクリーナーではできることに限界があるし、何よりボディガードの役目は果たせないから――と。
 しかし、アンドロイドを新規に購入するとなればティディアによからぬ『仕掛け』を施される恐れがあった。製造ラインでそのようなことをされればこちらからは防ぎようがなく、例え在庫や中古を買うとしても購入者登録をするに当たって勘付かれ、余計なちょっかいを出されるのは想像に難くない。その点の厄介さに加えて、決して安くない品を購入することにニトロの貧乏性が邪魔をして、当時はあえなく却下の運びとなった。
 だが、今は違う。ティディアはいない。部下に見張らせちょっかいを出すことを命じていたとしても、アレがいなければ厄介さのレベルが格段に違う。
 あとの問題は――実は最大の障壁である主の貧乏性だけだが……
「ウ〜ン」
 電話口でニトロが渋い顔をしているのが手に取るように分かるうめき声だった。
 それを聞いた芍薬は潔く諦めることにした。これから大学の入学費等、大きな出費が予定されている。ニトロを悩ませるくらいなら、元よりすぐに引き下がるつもりだった。
 が、
「イイヨ。折角ノ機会ダシ、買オウカ」
「え?」
 芍薬は、すぐにニトロが下した決断に、思わず声質を素っ頓狂にしてしまった。
「いいのかい!?」
 さらに思わず声量を上げてしまった芍薬に、笑い声が返ってくる。
「芍薬ニ日頃ノ感謝モ込メテ」
 ニトロの言葉に、芍薬の胸が一杯になる。
「目星ハ付ケテルンデショ? 帰リニ店ニ寄ッテイコウ。一日二日ジャ無理ダロウカラ、旅行先デ受ケ取ル形ニシテサ」
「ありがとう主様!」
 精一杯の歓喜と精一杯の感謝を込めて芍薬は言った。アンドロイドを手に入れたら主様にしてあげられることが増える。疲れをマッサージで取ってあげることもできるし、もうちょっとしたらお酒をお酌してあげるのもいい。荷物だって持てるし、トレーニングの相手にもなれる。夢が広がる。薔薇色に!
「――あ、でもね」
 と、歓喜で忘れかけていたことを思い出し、芍薬は口ごもった。
「第一希望のはとても高いんだ」
「ドレクライ?」
「えっとね……中古なんだけど、多分、家が一軒買えるかも」
 ぶっ、と、ニトロが吹き出す音が聞こえた。そしてすぐに、ああ、と思い当たったらしい声が聞こえた。
「『今日』ミタイノ?」
「御意。でも『あの中』じゃ大人しいやつで、それに記録ログにある限り待機しっぱなしだから新品同然なんだけど……」
「ハラキリニ連絡ツクカナァ」
 おや? と、芍薬は期待を膨らませた。手応えは、悪くない。
「ヒトマズ連絡トッテミテ。ケド、ソレヲ買ウカドウカハ値段交渉次第デイイカナ?」
「御意! 勿論だよ!」
 どうやらニトロは本気で買ってくれるらしい。芍薬は小躍りしながら返答した。
「タダソウスルト旅行ニハ間ニ合ワナイカモシレナイカラ、ソノ時ハレンタルデイイ?」
「御意、御意! ありがとう主様!」
「ソレジャア、コノ話ハマタ後デ」
 ニトロは電話口で微笑んでいるようだ。声は穏やかで、久しぶりの平和を存分に満喫している様子が手に取るように伝わってくる。
「御意。それじゃあ、後でね」
「ウン、ヨロシク」
 と、通話が切られた後、芍薬は即座に撫子オカシラに連絡を入れた。用件をまとめたテキストを送ると同時に、できるだけ早く、できれば今すぐが希望なんだと念を押し、それから格安で譲ってくれるよう頼み込む。
 撫子は笑っていた。希望に添えるよう口添えしておくとも言ってくれた。
「すぅばーらっしぃ〜」
 通信を切った芍薬は、思わず今朝マスターが口にしていたものと同じ歌を口ずさんでいた。
 間に合わなかった時のためにレンタドロイドのパンフレットをまとめておき、それから……
「……」
 傍らに置きっ放しにしていたデータを見た芍薬は、浮かれ気分を自然と治めた。
 そこには、今朝のマスターとティディアとのやり取りの記録がある。
 芍薬は時間を見て、まだ迎えに行くには余裕があることを確認し、そしてニトロから電話が来るまで行っていた『検証作業』に戻った。

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