光と闇が絡み合い、混濁した意識がそのまま色彩を得たかのように乱雑かつ精緻にせめぎ合う空間。暗色と極彩色の微粒子が作るスクリーンに記憶を投影していたミリュウは、ふと『鼓膜のない耳』に呼び出し音を聞いた。
 意識をそちらへ向けると、それまで何もなかった空洞ヴォイドの中に『パトネトの似顔絵』が現れた。
「ティディアお姉ちゃんが、そろそろだって」
 弟のアイコンの口が動いて、言う。ミリュウはそちらに目をやり、笑みを返した。
「すぐに行くわ」
 イラストのパトネトがうなずき、
「順調に進んでるよ」
 弟の報告に、ミリュウはありがとうと応えた。そしてよろしくね、と。
 笑顔を残して、パトネトのアイコンが消える。
 ミリュウは意識を天に飛ばし、『この世界』を統括するシステムと思考をリンクさせた。保存とバックアップを命令し、終了を通達する。システムが応答し、彼女の意識を『現実世界』に復帰させる旨を伝える。
 ミリュウの視界は辺縁から光に侵食され、ゆっくりとホワイトアウトし始めた。
 心と体が物理的にずれているような錯覚を覚える。
 その違和感が、彼女に彼女と世界が乖離していくことを実感させる。
 やがて視界は真っ白に、鮮烈であるのに眩しくない光に満ちた。と、今度は中心から周囲に向かって暗転し始める。
 全てが闇に包まれた時、ミリュウの目を慣らすように薄い青光がぼんやりと灯った。
「正常ニ終了シマシタ」
 無感情な音声がミリュウの『鼓膜のある耳』をそっと叩く。目を瞑って待っていると、彼女の頭部を包み込んでいたフルフェイスヘルメット型のインターフェイスが取り外された。
「お加減はいかがですか?」
 ミリュウを意心没入式マインドスライドシステムの世界に送り込んでいた装置を抱えているのは、地味なドレスを着るセイラだった。
 この装置を使い出してから、毎度毎回復帰の度に出迎えてくれる心配そうな顔。それを見ることが、ミリュウにとって毎回知らずの内に強張っている頬を緩められる合図ともなっていた。
「人に殴りかかるのって、案外難しいのね。お稽古とは全然違う」
 そのセリフに、セイラは困ったように眉を垂れた。
「幼い頃は男の子と取っ組み合いもしたものですが……違うのでしょうね。私には考えが及びません」
 セイラの応えにミリュウは微笑を浮かべる。
 主が正常に意識を取り戻しているのを確認した執事は、すぐ傍に立つアンドロイドに合図した。アンドロイドの腹部からは無数のコードが延び、それらは身体データを取るため王女の体に貼られた幾つもの電極に繋がっている。それを回収するためにアンドロイドが歩を進めてくる。
 ミリュウは脳を『現実』に慣らすよう、ざっとこの後の予定を振り返った。
「……お姉様は、後何分で?」
「ちょうど十五分後に到着されます」
 アンドロイドがまず上半身の電極を外していくのをぼんやり眺めながら、ミリュウは思い返した。
 仮想空間に入る前に見た、ティディア姫が王城より現れた際の映像。
 白と藍を基調に作られた他国訪問のための正装ドレスに身を包んだ姉は、美しかった。肌は幸せな薄桃色を帯び、体の内側から光を放っているようだった。
 城門が開き、王女が現れたその時、ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナを見たいがために集まった群衆は皆一様に息を飲み、慈愛と蠱惑――およそ矛盾した二つの美を融け合わせる姫君の麗しい微笑みに、一様に心を溶かされた。
 群集だけではない。中継するアナウンサーも、それを受けるスタジオの面々も、誰も彼もが心を溶かされていた。
 もちろん、
(わたしも)
 ああ、たった十五分後のことなのに、お美しいお姉様を直接この眼で拝する時が待ち遠しい。
「お召し物を」
 アンドロイドが電極を全て取り終えると、セイラが下着を差し出してきた。
 ミリュウは座していた椅子から腰を上げ、一度、己の乳房を見下ろした。大きくはないけれど姉が綺麗と褒めてくれる膨らみの底から、けして綺麗ではない音が、聞こえるはずがないのに確かに鼓膜を震わせた気がした。
 ……今朝のお姉様には、あの輝きはまだなかった。
(――ニトロ・ポルカト)
 出かける前の一時だけであれほどお姉様を輝かせる至福をもたらした男は、結局姿を民衆の前には現さなかった。
 それを残念がる声はあったが、しかし、それについて不満を漏らすことは恋人を慮るティディア姫の心に背く。アデムメデス国際空港へ進路を取る飛行車スカイカーの一団を見送った国民の大勢は、大した混乱もなく王城の周りから解散していった。
 それでも、未だ城の周囲にはニトロ・ポルカトを待つ者らが多く残っている。随分と人気を集めているものだ。
 ニトロ・ポルカトは今、お姉様が用意させた食事を摂っていることだろう。その後で民を放ってこっそりと城を離れるのだ。先に王城に入っている部下から、そのための準備がされているとの報告も受けている。さらに、調べもついている。あの男は民の期待に応えず、重要なお役目を担われるお姉様を見送りもしないくせに、学友らと遊ぶためにケルゲ公園に向かうのだ。
「…………」
 黒紫色の下着を身に付けると、控えていたセイラがドレスを持ってきた。同じく黒紫色を基調とし、品良くまとめられたアフタヌーンドレス。
「失礼致します」
 セイラが恭しく頭を下げる。ミリュウは執事に身を委ね、正装――ロイヤルカラーのドレスをまとっていった。
 次にセイラが神経を遣い慎重に扱ったものは、ペンダントだった。ミリュウの背後に回った執事が、そっと首にかけてくる。
 ミリュウは脇目に姿見を見た。
 胸元に、美しい“心”が淑やかに輝いた。
 細やかな鎖につながれるオープンハート型のペンダントトップ。心はただ開かれているだけでなく、その内に三日月を抱いている。そしてその三日月もまた、一粒のサファイアを抱いている。白金製のハートとクレセントが描く曲線は素晴らしく上品であり、母に抱かれた子のようにはにかみ煌めく宝石は可愛らしい。
 ――去年の誕生日に、お姉様が贈ってくれた品だ。
 わざわざウェジィに自ら足をお運びになって選んでくれた物。
 サファイアは月月食つきげっしょく中の双子月を表していて、お姉様が持つもう片方にはルビーが飾られている。
 これはお姉様と分かつペアペンダントなのだ。
 ……嬉しかった。
 ニトロ・ポルカトの助言もあったという――けれど、一目でわたしの心も掴んだ、とても大切な宝物。
「……」
 ミリュウはペンダントトップにそっと触れた。
「お気に召さないところはございますか?」
 櫛を持ち、ミリュウ自慢のロングストレートをき整えてセイラが問う。ミリュウは姿見の正面に立ち、確認後、微笑み言った。
「いいえ。とても素敵よ」
「ありがとうございます」
 頭を垂れ、それからセイラはアンドロイドに目配せした。
 すると、待ちかねていたように部屋の中へパトネトが飛び込んできた。
「あら」
 パトネトは、国を、国民を、王家を代表してクロノウォレス星へ向かう第一王位継承者を見送るため、幼年の王子としての正装に身を包んでいた。まるで男装している少女のようでもある。ミリュウの頬が自然と緩んだ。
「とっても似合ってる。可愛いわ、パティ」
「お姉ちゃんもとっても綺麗!」
 パトネトはミリュウに抱きつきながら言った。抱きつき姉を見上げる弟の顔には、今から緊張の影がある。ミリュウは一層笑みを深め、
「ありがとう」
 パトネトを安心させるように、頭を愛しく優しく撫でてやった。

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